[未校訂]S49・11・3 伊藤重信著
正修の時代の長島領内においては、災害としては弘化四年
(一六四七年)の洪水によつて小林島入水し、堤防決潰で七
人が行方不明、嘉永元年(一八四八年)洪水により小島切れ
で申澪を生じた。同二年(一八四九年)深水のため、農民が
困窮し、藩主から三百俵を借用した。その災害除けのため、
西外面北島に出雲社を祀つている。同三年(一八五〇年)西
川村より入水し洪水、安政元年(一八五四年)大地震のため
堤防が欠壊し、流失死亡者七十一名を出している。
桑名郡志草稿によれば、この輪中は横満蔵・西枕長内長徳・
白鶏を加えて、十五ケ村が天保年間以前に一輪中を形成して
いる。その後天保六年(一七三五年)七月六日の大風で堤防
が切れ、笠松代官に願い出て、手当金四千二百三十両永二百
二十四文九分を受けて川普請をし、また安政元年(一八五四
年)地震と津波で破堤し、輪中十二ケ村が震い下がり、同二
年笠松代官岩田鍬三郎より幕府に願い出て、手当金三千六百
二十七両三分を受けて再普請をした。