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項目 内容
ID J1800422
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔石川多喜蔵一代咄〕○静岡県竜洋町
本文
[未校訂]掛塚満福寺
石川多喜蔵一代[咄|バナシ]より
安政元寅年十一月、大地震村中の家は、九十五軒潰家、其の
他半潰となりました、残りの家は、僅かに弐拾軒に壱軒の割
にして、地震の時は、凡そ午前九時頃にて、自分は祖父増蔵
と座敷の火鉢にあたりて居りました。祖母と母は籾臼を曳い
て居りました、父は西の畑より大根を曳いて居りました処、
俄に家震動身体コロ〳〵して身動き出来ず、祖父に抱きかか
えられて家外に出て、大根の上に置かれまして見る間に家は
倒れまして、空は一面に真の黒になり鳥啼き、犬吠、草木の
高い泣声筆紙に尽しがたく、
其の間に父は帰りました処、祖父は言う、座敷の火鉢より今
に火事になる、早速火鉢を出すの用意をせよと言うも刄物は
なし如何とも、途方にくれ居たるに幸に南隣のあらこやは家
潰れず此家より四寸刃壱丁持来りそれは四寸刃隣りにかしてあ
り現在存在せる四寸刃なり
潰家の家根を切抜き漸くにして火鉢を出しました。
其の時に、[下|シモ]の方よりつなみが来たと言つて大騒ぎ、老若男
女の別なく逃げ出す、何方へ逃ると聞けば、見付の天神山へ
逃げると言う、祖父が言う。今この津浪に先がけて到底見付
まで逃るの暇なし、即ち時の立つ中で、祖父と父とは視察の
ため、西の天竜川へ出て川の状況を見るに、川下より大激浪
打ち上げ、浪の中に、壱艘の小舟それは高瀬と言う舟に弐人合[梶|カジ]をと
り川上へ走せ来る舟あり、其の他材木、柿板等川上へ流れた
それは掛塚の江戸積の荷物浜に積置たるもの此の状景には実に驚いたと言う事、丘地
の家屋まで流れる事あたりまえ、先づ天神山は見合すべしと
言う、中々姉つ子として聞き入れず、自分は母に背負われ、
天神山へと逃げ出したり、祖父は父らの指図にて潰家の屋根
に上りたり、母は自分を背負いて村境の辺まで行きたるも家
屋は、ことごとく潰れ、大木等道路に横倒れ、又道路は割
れ、水を吹き出し歩行難義し不止得天神山も力ぬけたり、聞
く処に此間には随分困難事もあります。
隣の和泉屋の爺婆めは洗家の中より辛くして逃げ出し、顔真
黒くして弐人手に手を曳いて天神山逃出しの道行は、後にて
大笑いの咄だと言う事、
[彼此|カレコレ]騒の中に自分の妹を背負いたる子守が見えぬと言う、騒
ぎの中の又騒ぎ、隣近所打寄り、所々方々を尋ねたれば、御
宮様の前の長四郎とさぶやの弐軒の洗家の間に子守りは大泣
して居る事知れたり、見れば洗家に押し付られ見動き不出
来、大勢の力をかりてだしました、子守りは無事にて何事も
ありませんが、赤児は鼻を押したる模様にて遂に死にまし
た。其の児を仮埋葬せんと桶に入れ、下の堂へ送つて行きま
した時に驚きました事は今にも覚えて居ります。今の中の宮
の東の道路は、幅三、四尺 深さ壱間以上の割れ、長さは、
何拾間大口を明いて居た事は、今に記憶して居ります。
それより後は、間に間に地震しまして、居る所も立つ所もあ
りません、地震には藪の中がよいと言う事で藪の中に露除け
をして、そこで煮焚をして弐週間も居りました、其時に雨も
あり困りますから洗家の屋根を、およそ壱間位い切抜き住居
とします、それが三十日位い、仕事をする人はございませ
ん、又たその洗家の中に四五年居住した人も数多くありま
す。
地震について、聞いた咄は沢山ありますが此末まだ五十年
余りの咄がありますからここらで置きます。
遠江国豊田郡駒場村
嘉永三年四月十日生
石川多喜蔵
(満福寺住職)古文書解読 山村宗映
(注、以下は満福寺住職が管見した地震関係記録を書抜いたものに私見を加へたものと思はれる)
安政地震記録 駒場地区
安政の[海嘯|カイセウ](津浪)の天竜川を逆流する様、実に物凄く、是
れがため当駒場村南部の村民二〇〇~三〇〇人は、何れかへ
逃避せんと泣き来りし様、今もみる如き思あり、拙者が居宅
は海岸を離るおよそ三〇町、天竜川の東畔にあり、此辺にて
其汐水の高さ平水よりおよそ一丈四・五尺なり、これをもつ
て推考するに、河口にてはおよそ三、四丈の高さに至りしな
らん、此際天竜川中に存在せる、字中ノ浜(南は海、他の三
方は川なり)は、高き所二丈ばかりの山をなし、これに千有
余本の松あり、其の内大なるもの囲りおよそ八尺高さおよそ
十五間もありまして、反別およそ二〇町及耕地およそ二〇町
合計四〇町歩ばかりは、震災と津浪のため崩壊し、翌二卯年
大水(居宅辺にて一丈余の出水)のため松木大低流失し、海
岸を距るおよそ二〇町沖に在りて、漁業を妨げたること数年
なり、其の後中ノ浜に残りたるもの数本ありしも、今は更に
なし、この地所は現今に至りても荒地なり、この外、堤塘を
破壊する等幾ケ所なる数知れず。
このほか、明治三年九月、明治二二年九月、明治二五年九
月の暴風に際し、度々堤塘が破壊され、海水の暴浸するこ
と、年々歳々とある。
また海底の浅深については別に証拠はないが、大体浅くな
つてきたと記されている。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1117
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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