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項目 内容
ID J1800394
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔榛原郡相良町波津 大沢寺文書〕○静岡県
本文
[未校訂]大庭正八氏提供
住職今井老師より拝借コピー(四八・一二・二七)
「(表紙)釈文
地震記
附 金張襖修覆録 」
地震記釈文に就て
地震記の本文は、漢文体を以て書かれてありますので、地震
のあつた当時より百年余りも過ぎた昭和の今日になつては、
難解の字句が多く、一般の人に読み難いので、之に釈文をつ
け加へて保存して置きたいとの儀が持ち上り、その執筆を大
沢寺門徒有力者富田栄一氏を通じて、私に御依頼がありまし
た。
惟ふに原文の執筆者は、当時仏門に居られて高学の御方と思
はれ、随所に難かしい辞句と文句が用いられ、加ふるに美事
な筆蹟で記述されてありまして、私如き浅学菲才の者では到
底その意の万分の一をも尽せない憾みがありますが、私も齢
既に還暦を過ぐる事五年、目下悠々自適の境涯に在りまし
て、何等後世に残るような仕事も持つて居りません矢先、三
十年来の交友富田氏からの御依頼は、これも奇しき仏縁であ
ろうと考へ、欣んで御引受致した次第であります。
昭和三十三年十二月
大阪在住 白根嵓 謹記
地震記
嘉永七年甲寅(この年改元安政元年)十一月四日の事であつ
た、突如として山の辺りに当つて大きな鳴動が起つたと思ふ
と、忽ち大地震が襲来、町も村も家といふ家は倒れて終ひ老
人も子供も倒れて泣き叫ぶといふ修羅場と変つたのである。
漸くの事で家を出る事の出来た人もあつたが、中には家の梁
や柱に挾まれて大声をあげて居る人もある、その泣き声を聞
きつけて壁を破つて其の人達を救け出したり、桁や材木が頭
に落ちて既に息の絶えて居る者もある、助け出して見ても其
の人達は腰を痛め足を挫き眼も当てられぬ惨状でその被害計
り知れぬものであつた。
その時海鳴りがして来たのを聞いて人々の不安と恐怖はいよ
〳〵極度に達し、西南に山があるので老人を助け子供を抱い
てその山を指して我れ勝ちに走つて登つた、そして海の方を
見渡せば海水は遠く一里位も向ふまで引いてこちらの方は干
潟となつて居る、人々の泣き叫ぶ声は村中・町中に響き渡つ
て居る有様。
漁師はと見れば海に落ちて溺死した者もあるし、船は錨を下
す暇もなく、乗組の者は皆、高い所〳〵へと逃げて船は何れ
へか流されて終つて居る。
と、忽ち海の彼方から数千尋もあろうと思える高浪が山のよ
うに此方に押し寄せて来てあつといふ間に川口から浜辺は勿
論、街上の家屋等も一呑みにして此の方に押し流し田も畑も
一面の水にしておいてまた引いて行つた。
後に百姓が地上に落ちて死んで居る魚を拾つて煮て食つて
見たが一向に美味くなかつたといつて居る魚共が苦しみ悶
えて死んだ為めだろうといふ事である。
山に避難した無数の人々は松の木の間に蓆を敷いたり、星空
の下で竹藪に寝たり、僅かばかりの食器や食品を運んで苦し
い不安の夜を明かした。
かくて恐怖の日を山で送る事三日乃至五日、人々は追々住み
なれた我が家へ帰つて来たものゝ家は砕かれ家財は流され僅
かに茅を結んで小屋を作り穴蔵のような生活に立ち帰つたの
であるが物資の欠乏は如何ともすることが出来ず困窮を続け
たのである、さて此のような大天災に遭遇して特に感ずる事
は大地震には必ず大津波の襲来を伴ふといふ事である。
世の人々がこのような大災害に遭つて不幸のどん底にたゝき
込まれた事は大平になれた世の人々の心構えがゆるんで悪い
方へ傾いて来たのに対する天罰で何を恨む所があろうか、ま
ことに此の上とも慎しむべく戒しむべき事である。
この一事を記して永久に忘れぬようにしたいと考へる次第で
ある。
嘉永七年甲寅(安政元年)十一月四日突如として大鳴動があ
り、忽ち大地震となつた。
寺内に居た者は誰れも彼れも転んだり倒れたりしながら漸く
の思いで庭に出たが、その中幾らか揺れが軽くなつたと思ふ
と又後大揺れが来て鐘楼、庫裏の門、蔵子院等悉く倒れて終
つたが、唯本堂だけは倒壊を免れたものゝ瓦は殆ど崩れ落ち
て終つた自分は小揺れになつたのを見計らい子院の老人を伴
れて本堂の内部を調べたところ御本尊、御祖像、御尊牌は不
思議にも倒れられもせず安泰に立たせ給ふのを拝して御仏の
御威徳の明著な事に深く打たれたのである。
本堂内の荒物類はどれもこれも使い道のない程壊れて居たが
自分は御本尊の前に進み深く頭を垂れて礼を行い合掌し、涙
にむせびながら壇に上り謹で諸尊像を抱き下して箱に収め安
全の場所にお移し申上げた。
間もなく津波が来るぞといふ声に取り急ぎ避難せねばと思い
西南の山中に宝泉寺といふ寺があるのでそこを目指し、草む
らつゞきの中を御本尊其他を奉安して急いだ、寺の者も自分
や家族を護つてくれて共々に走つた。
午後四時頃一応落付いた。
其の日、河崎の明照寺では御法事があつて蒸御飯をお供へす
る為めに蒸爐に火を焚いて居たが庫裏が倒壊したので火でも
出しては大変と庭に立つたまゝ幾度となく振返つて見たが別
に火気もないようだし、其のまゝ草原に野宿し、星を眺めな
がら夜を過し、三日の後寺江帰り僅かに茅を葺いて小屋を建
て雨露を凌いだ、数日の後瓦を取り除け壁に穴をあけ爐の辺
を検めた所、幸な事には蒸籠の台が爐の前に落ちて火を塞い
だ為め、自然に火は消えて大事に至らなかつたものでこれは
仏恩ともいふべきか誠に不思議な事であつた。
また御本尊は何の損傷もなく至極御安泰であり寺の者にも事
故はなく火を出さなかつた事など思い合はせて御仏の慈悲の
広大さを目のあたり感得したのであつた。
(この処紙が擦れて文字が消え判読に苦しむ)
この事は今後永久に語り伝へて忘れないようにしたいものと
考へ特に銘記して置く次第である。
大沢寺本堂の四間に建置金張襖の来由を記す
釘浦山大沢寺九代目住職祐厳師の世代にこの金張りの襖が新
調された、昨々文化五年申歳の秋の事であつた
施主は山崎長兵衛を始め板倉市兵衛などが発起人となり、同
行有志の者達が、尽力され城東郡池新田村丸尾月嶂といふ画
伯に依頼して着手し、月嶂画伯は構想に四・五年を費し、麗
筆を揮つて前記の文化五年に無事落成を告げた次第である
爾来星移り、物変り、十代目祐賢師の時代、嘉永七年(安政
元年)十一月四日東海道大地震の際本堂が大破し、従つてこ
の金襖両方で八枚とも破損して終つた。同行門徒の者も地震
の直後は自分達の家の修繕などに追はれて困難を続け、又本
堂の破損個所を修繕する為めに皆尽力をしてくれたものゝ襖
の方までは手が行き届かなかつた。
然しその後年月を経る事三十一年明治十七年申歳八月発起人
四名協力同心、専門家に依頼して今茲に修繕の実功を挙げ美
事に出来上つたのである
聊かその由来を記して後世の門徒同行衆へ書き残す次第であ

明治十七年(申)八月二十日
修繕発起人 新町 布施勘七
同 波津町 小山弥平
同 同 同 平兵衛
同 同 野村庄十
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1037
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
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