[未校訂](家伝記録に見る安政の大地震)小林末二
安政の大地震の状況を記録した「地震取調集」と題した古文
書(近世文書)が発見された。
百二十三年前と、現在では建造物、道路など総べてが比較に
ならないが「古きを研究して新しきを知る」のたとえもあ
り、明日にも起るかも知れない地震に対する心構えの参考に
なれば幸いと思い投稿する次第である。
一 はじめに
(一) 記録の出所
この記録は、地震から一年近く過ぎた復興後子孫に残す為
に、榛原郡吉永郷上川原島、庄屋、大石宇右衛門が近所の学
識者(著者不明)に依頼し、地震当時の見聞を記録させたも
のである。
発見された家は、宇右衛門の子孫、志太郡大井川町吉永(大
井川は江戸時代には現在の場所より東を流れ、現在の場所は
荒地や田で現大井川町は榛原郡であつた)大石祐癸氏方であ
る。
「取調集」は文字、文章とも極めて難解であるうえ、あて字
が多いが、できるだけ原文に従い注釈を加え、さらにみだし
をつけることとした。
(二) 安政の大地震のあらまし
この「地震取調集」を理解し易くするため、著者の住んでい
た吉永村の地震の回数、被害状況を村誌から見ると次のとお
りである。
安政元年十一月四日午前五時頃、大地震あり、全村百四十軒
のうち半数が全壊、半数が半壊し、十五日位藪に小屋掛して
住む。
地われ一面となり、これより泥水が湧水し田地の全部二百石
程が荒地となり、三千余人が掛かつて原状に復帰した。 (日
数不明)
安政二年一月二十七日夜、第二回目の大地震あり、同年十月
二十八日第三回目、ついで同年十一月二日第四回目の地震が
あつた。
第二回目までは地割れ、湧水、震動が激しく屋外に小屋掛け
して居住した。 (月日は旧暦)
二 地震取調集
(一) 一般的な地震の状況
安政元年霜月辰の下刻頃(午前五時)申酉方(西南西)より、
大地震来り、すでに草木枝葉は地底に伏し着きたるように見
え、丁度大船が草木をなぎ倒したと同じありさまである。
東西南北を見るに、一面暗闇にて、にわか夕立か、黒煙が立
ち昇つているに似ている。土民男女老若に至るまで、前後い
ろとりどりに土中に埋り、死人と同じありさま。
人民の泣声は天地に響き、あたかも獄中で叫びわめくを見る
ようである。
諸人の顔は血の気を失い、あわてふためき魂を失い、途方に
暮れ誠に驚嘆の至りである。
その頃、津浪が揚がり沖へ打ち返す。揺れは少し静まり露命
をつなぐばかりで、男女童子や牛馬など当所においては、一
人も怪我もなく無事。諸々の神の守護を受け誠に有りがたい
ものである。
(二) 地震の度数
当日から地震は続いて、一昼夜のうちに揺れること明方まで
に数えると八十三度ありて、初めに雷電あり、そして大地を
ふるわし、人民の少しも休むるところなし。
それより日を追つて、揺れること数知れずようやく翌年三月
頃、揺れ止みて静かとなる。
(三) 吉永村の状況(著者居住地)
当村は田圃ばかりであるが、高く盛り上がつた所、凹んだ所
が数多く出来て荒れ、麦の田畑は丁度五月の代田(田植の為
耕作した泥田)のようになり、吹き出した泥水がよどみとな
り低い方向に流れ驚くばかりである。 (大井川の水一に対し
地下水九と言われ、その地下水が吹き出したと思われる。)
当郷の内、田圃荒地となりたるところ場所により、三、四尺
余、又は五、六尺余(一米から二米)埋落つ。(地割か?)
おおよそ村中家数百余軒は、大小の差はあれど相潰れ、或は
大破と相成るは往古から古人に伝聞を承けたまわりたること
なく、右非常はいかさまあるまじきやと思う。
我ら子孫永々の代、話の種と称すべき驚怖たり。誠にとつて
前代見聞の教にさとすべし、忘失することを恐れ、ここに非
常のあらまし書きしるすべきものなり。
当所氏神は両社とも御別条なし、もつとも両社の鳥居は大破
倒壊に及ぶ。東神主居宅は破落致し、当本山高岳寺は庫裏破
落致し、末寺正泉寺本堂残らず大破に及ぶ。其の外の寺方は
格別の事もなき事。
地震後、御地頭様より御出役(出張)なられ、家、荒地など
御見分の上、百姓難渋の由につき、潰れ家一軒宛御救米一斗
七升下され有難く拝戴致した。
大井川辺、東西両側とも堤防が落ち崩れ、平地と同様と相成
る。地震後、即刻御普請(修理)あり、またまた安政二年の
春御普請、残らず元どおりの出来ばえになる。 (当時の堤防
は小規模と思われる)
(四) 大石宇右衛門方の状況(執筆依頼者)
これより大石氏の有様を書す。大揺れの中拙宅(筆者宅)へ
家内妻子等と下人、召使いの者、牛馬に至るまで、大震をし
のぎ、身体は無事。諸神勢のお蔭げをもつて家内安全、永寿
を保ち、万々歳めでたくあなかしこ。
地震中の折柄、裏小屋において砂糖製造のため、焚火の最中
のところ右小屋即座にたちまち潰れ、間もなく屋根に燃え移
り、火炎立ち昇り、七転八倒の働きを加え、地中から泥水一
尺七、八寸(六十糎位)吹き出し、その水にてようやく小屋
の火事を消し鎮め、ひと先ず安心。家屋敷も右の高さに泥水
吹き出し流水致す。
当近辺も泥水吹き満ちて一面水田となり、低い田はさも小川
の如くとなる。近くの隣家へも行くことはできなく相成るこ
と。
そのみぎり大石宇右衛門住宅は、大地震のため本堂その他大
破に及び潰れ落ち、よつて住居と相成らざること。右様のこ
とゆえ、拙宅(著者)屋敷内の竹藪にむしろ藁囲いをつくろ
い用い、家内残らず引越し、昼夜七、八日ほども住居の由、
誠に半時半刻も身体落着かず一睡も休息することなし。
前土蔵、裏側の大土蔵破落に及び、並びに馬小屋、別条な
く、手繕いし用だてしこと。
建具は少々宛用立て、並びに諸道具は膳、椀、瀬戸物、桶、
小鉢類、小簞笥、長持ちの品々は破損したること。第一差し
当り本日の用水これなく、井戸の水、泥水にて不自由困り入
りこと。
(五) 駿府 藤枝の状況
駿府御城内大破、並びに市中はおおよそ三分の一ほども破落
に相成り、これが因で焼失、男女多く死す。田中城(藤枝)
は大破に及び諸家中ともあまた潰れ、町家は白子より上伝馬
町辺は軽き揺れ、それより下伝馬町裏通り揺れ込み荒く、家
つぶれ即刻焼失す。
(六) 掛川及び東海道駅の状況
掛川城ことごとく大破と成り残らず。諸家中(藩士)とも破
落し、町家も残らず潰れ、その上大火となり即刻焼失致す。
少々男女死す。
それより上へ海道筋五十三駅の内、右同様宿々、川々、渡船
場に至るまで数々家潰れ、家焼失し、人多く死すこと数知れ
ずこと。
(七) 山梨県、長野県方面の状況
甲州信州、美濃路辺は格別の揺れもこれなく、すべて北国の
辺路は右同様のことなり。
当国より東は相州箱根辺を境として大揺れ、それより関東江
戸方面は少々の地震にて、江戸城はもち論、洛中(町中)在
方(田舎)とも別条なきこと。
(八) 下田方面の状況
伊豆下田辺、在方とも大揺れ、それ故、津浪押し上り家潰
れ、一円押し出され上流おびただしく男女死す、誠に獄中の
有様にさも似たり。同所湊沖中においてアメリカ異国船来朝
着岸にて、ことに大船のこと故、漂着していることができ
ず。また浦々の和船、焼津辺、遠州川崎、相良辺の船、遠国
の大船残らずかかり遂げず。(港に錨をおろし続けることが
できない)漁船なども残らず破船に及び、人多く死したるこ
と数知れず。
(九) 清水港辺の状況
清水港辺大揺れ、津浪押し上り男女死す。三保辺津浪押し上
り右同様。三保沖中で津浪に逢いて何れの国の大船塩荷、諸
荷物積入れ大浪に巻き込まれ、そのまま海底に沈み、死骸ひ
とつも見えずとのこと。
(十) 大井川海岸の東西の状況
駿遠浦々海岸通り、当浜東方から久能山沖に大立雲のような
津波、高波おおよそ高草山(宇津谷トンネルの山)を見るに
ひとしい。その津波、沖へ沖へと左右に打返えす。当浜は格
別の波立ちもなく、もつとも相応の高波はあつて前浜の地蔵
林中(大井川港駐在所付近)まで大波打上り、波小さく、し
あわせ。
遠州岬表へ右津波は打上り、それより住吉村(榛原郡吉田町)
浜辺、西浦辺へ高波押し上り、川崎、相良辺残らず家潰れ、
大荒れに及びしこと。
(十一) 遠州横須賀辺の状況
横須賀西尾殿御城並びに諸家中とも大破、町裏も残らず潰
れ、ことごとく大破に相成りたること。
三 おわりに
地震の記事は以上であるが、地震第二回目後の安政二年七月
二十六日昼過ぎ、大暴風雨が来襲した。大井川堤防は寸断さ
れ、地震の際の被害に近い被災を受けた所もあつた模様であ
る。
この水害も地震に関係があるのではないかと合せて書き留め
てある。
また地震の有様、始末の見聞のあらましは筆紙に尽しがたし
とある。賢明なる諸警友遠く百二十年前の昔に想いを馳せ、
現在と比較願いたい。 (清水警察署員)