[未校訂]一六 安政の大地震
安政元年甲寅十一月四日、大地震市中潰れ家二百五十九軒。
其の後屢々地震ふこと数十日間に及ぶ。拝借金 五百両金谷
宿方、三百両河原町方。
此の月天然痘流行し、該病に罹り死亡するもの多し。(「金谷
町誌」沿革より)
(中略)
安政の地震と申しても、嘉永七年十一月二十七日に改元とな
つたので、当地の記録は嘉永七年となつています。金谷宿本
町石沢庄兵衛、および同本町松浦幸蔵。河原町中町吉川五右
衛門の震災記録を、読み易くして掲げます。 (振仮名及び括
弧内は筆者)
「石沢庄兵衛記録」 (現在の本町長谷川印刷の場所・酒店
木倉屋主人)
嘉永七寅年十一月四日朝五ツ時(午前八時)稀なる大地
震。突然のことゆえ我れ先にと寝まきのまま飛び出す者も
これあり、又は小児を抱き又は手を引き、上を下えと混乱
言葉に述べ難し。そのうち家屋倒壊圧死者もこれあり、土
地亀裂して泥水を噴き出し、又折々地揺り鳴動時々刻々。
人びとの泣きさけぶ声さながら地獄もかくやと思われ、物
凄きこと言語に述べ難し。小震止まず、崩れ家は多く瓦屋
根又二階家にして、板葺き杉皮屋根は格別の大傷みもこれ
なく、もつとも其のまま住居する家は稀なり。瓦屋根の分
はたとへ建いるも、大修繕ならでは入る事かなわず。震動
時間(余震回数共)五十四度。翌日も小震はたえず。皆潰
れ家(全壊)姓名左の通り。
本町 佐塚屋(本陣)、山田屋(本陣)、作平、権内、自宅
(石沢)、柳屋(河村市郎平)、作右衛門(村松)、浅
右衛門(桜井)、ふじや、かごや(中嶋忠左衛門)
十五軒 永村(金左衛門)、万助、文五郎、四郎兵衛。し
めて十四戸。
半潰屋は、本町、藤屋(名主)・柏屋(本陣)・京屋(松
浦)・小沢屋・市左衛門
其の外傷み屋ははぶく。此の時疾病はやる。立退場(避難
所)は、
洞善院大矢場、大覚寺藪、大藪、竜堂寺藪(大覚寺末竜
雲寺の事と思う)。
本町柏屋八郎次宅取り払い跡へ、板囲いの建物致し、白か
ゆたき出し、所々へ運搬す。入れ物に差し支え、馬のすそ
たらいに入れ所々に分配す。 ([馬盥|ばだらい]=馬を洗うに用いる大
だらい)。右米は宿内舟元(金谷宿郷蔵の事と思う)より出
米にて、御囲米(緊急の要に備えるため倉に貯えた米)数、
七百俵これあり候ところ、この事件につき残らずたき出
し、私なども年々五俵ずつ新穀引替え差出しおり候。実に
夢にも存ぜぬ稀なる出来事に候。
松浦幸蔵「歳代記」より
(本町・松浦家三代幸蔵〈現当主松浦英一氏〉は、明治五
年より金谷役場用係を勤む。)
嘉永七年寅十一月四日朝五ツ時、稀なる大地震。宿中男女
とも鳴立(泣き立つ)、その中にも皆潰家、佐塚屋・山田
屋・作平・権内・木倉屋・村作・米浅・ふじより籠忠・弥
五右衛門(塚田)・永村(茜山の家)・万助・文五郎・三
左衛門・四郎兵衛皆潰。藤屋・柏屋・京屋・小沢屋・市左
衛門本家半潰。その外宿中かたぎ又は、ゆかぬけ、柱折
れ、少々宛損候は一統(総体)。そのまま衣類諸道具は勿
論、金銭抔も其儘にて洞善院山大矢場といふ所へ逃行、又
は大藪(大覚寺藪)其外銘々藪山へ逃行、町中壱人も居不
申、其節ほうそうはやり手前子供ほうそう致候、弐人を引
下げ大矢場へ逃行。其日一日一夜野にて暮す。翌、早速藁
小家を作り、角屋(脇本陣金原家・今の本町金谷タクシー)
より小沢屋(旅籠屋)まで藁小屋にて十六日大矢場に仮住
居。四日朝より夜明迄(地震の起こつた四日朝から五日朝
まで)大地震五十四度。少々[宛|ずつ]はゆれながし、漸々十七日
に手前裏の物置へ家移りいた志、それより居宅繕ひ、十一
月下旬表へ出る(表の主家へ移る)。
中町・吉川五右衛門記録(現当主・砂糖店吉川修氏)
「嘉永七寅年十一月四日朝五ツ時大地震ニ付破損入用並ニ
所々ゟ見舞受納ニ控帳」より
一居宅間口五間弐尺 裏行六間 板ふき破損 作事(修理)
致ス
一裏エ弐間三間 二階作り新屋瓦ふき みじんニ破損 取
払ニ相成候
一新屋続キ雪隠(便所)瓦ふき 皆破損 取払ニ相成
一前土蔵 弐間三間 取払ニ相成
一奥土蔵 弐間半ニ三間半 家根ふき替大直シゟ作事致ス
一九尺三間 味噌蔵 瓦ふき皆破損 取払ニ相成
一奥差掛 塩置場 取払ニ相成候
(差掛=母屋に掛けて庇のように差し出して作つた
部分)
一九尺ニ四間 瓦ふき 奥物置 皆破損 取払ニ相成
〆 棟数八軒之内 皆破損 六軒取払
一右四日五ツ時地震ゟ 家内下女共ニ拾人 天王山大覚寺
大藪江集り六日迄居し 六日向井長左衛門殿前庭を借リ
小屋掛 ウツル 夫ゟ自家裏新屋跡を取払 又小屋を掛
十一月十八日 小家ニ入ル 夫ゟ居宅直シ十二月二日本
宅ニ入
同十一月(二十七日)改元有テ安政元年と成 同十二月
五日中 地震日毎ニ七八度宛地震やむ時なし 安政二年
卯二月廿七日夜中 地震ニ入(地震起きる)同三月中迄
地震百余ケ日 日毎ニ四五度宛いれし申候(揺れ申候)
又候 安政四年巳閏五月廿三日朝六ツ時(午前六時)中
大地震 土蔵かべ等破損致ス
西隣文作水ふき出し申候