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項目 内容
ID J1800379
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔島田六合大長大津郷土史稿 5〕○静岡県志太郡島田町
本文
[未校訂]S11・7・15 紅林時次郎著・発行
嘉永七年十一月四日五ツ半(安政元年陰暦十月(ママ)二日)空前の
大地震があつた(此の月二十七日安政と改元されたので一般
には安政の大地震として知られて居る)当日巳の上刻頃が主
要動で島田町では正覚寺本堂を大破され六丁目清水重左衛門
方の土蔵簷を落したのを初めとし宿内所々で被害を蒙つた。
六合村々内では倒潰家屋十八戸負傷者数名を出だし所々に亀
裂を生じて泥土を噴出し、東光寺山方面に於ては山岳の崩
壊・陥没など随所に見受けられた。大津村千葉区でも二戸三
棟を倒壊したが幸い人畜に死傷はなかつた。大長村でも数戸
倒潰し伊太村八倉山の西寄山腹へ大きな亀裂を生じたけれど
も幸い崩壊しないので村民も安心して居ると、翌二年二月折
柄期節外れの大雨に際し地盤がゆるみ、深夜俄然大崩壊をな
し山下にあつた農家一戸を埋没、家内五人枕を並べて土中深
く埋没圧死を遂げ、遂いニ発掘することさへ不可能となり、
然かも田代から流下して来る谷川を堰ぎ止めたので、此の崩
壊地の上は忽ち大きな池となり、八倉池と称さるゝに至つた
が順次治水が施行されて名残さへ止めざるに至つた。然して
此の震災直後は幾多の流言蜚語が盛んに伝へられ、剰さへ余
震が続いて起るので各村落の人達は非常に恐れをなし、家の
中に起居する者は殆んどなく、何れも竹藪の中へ俄作りの座
敷を設らへ、一週間から長きは半月も居外に起臥したと云
ふ。此の震災に藤枝宿附近では随所へ大亀裂を生じ泥水を噴
出し、田中城は大破、宿では失火の為め九十一戸を焼失し五
名の死者さへ出した。
農家では収穫した計りの米俵を亀裂の間へ振り落され、拾い
上げる事が出来ず意外の被害を蒙つた所もある。それが為め
に掛川藩では領民の困難を救うべく米二千俵を細島村外百四
十ケ村へ施米する事となり、困窮者に漏なく割賦配布し不穏
な流言蜚語を厳に取締り、農民に決して心配有間敷旨御触れ
を廻し皷舞激励した。
此の地震を江(ママ)戸の大地震と唱へ、江戸市中では遭難死者二十
万人に達した程である。又伊豆南端方面も被害が相当大き
く、当時下田港へ異国船が来て居つたので遠州掛川藩からは
家老職橋爪氏が部下を伴ひ警備の為め出張して居つたけれど
も、大震災に遭遇して滞在不可能となり夜を日に継いで帰藩
の途に就き、島田宿迄で来たが人足の継立なく途方に暮れ、
領地阿知ケ谷村へ依頼し人足を得て漸く帰藩した。人足依頼
の書面に曰く、
以手紙申達候就而は大井川明十三日越立に際し候処宿方人
足継立無之差支候間人足十一人明十三日四ツ時前島田宿旅
籠迄差出呉候様頼入候尤先々にも継立無之に付御領分下菊
川村迄継立之儀頼入候此段人足へも御申談有之度候 以上
十一月十二日夜 島田宿旅籠にて 稲崎重介印
阿知ケ谷村庄屋中
とあり此の書面の附記に、
右は当月四日大地震之節伊豆国御出張橋爪弥右衛門様外御
人数同地津浪にて武器多分流失 橋爪様には具足まで流失
の由 右大変にて異国船の下田港に掛り居るものは津浪に
て山間に打込まれ 下田町人家流失死人数知れず 公儀よ
り御出張御役人にも流死人有之 右に付諸家様とも御出張
の御人数引払に相成 御当家御人数は道中御休泊も無く夜
通しに藤枝宿まで御引取の処 中には疲労之方も有之 依
つて足軽一人当村迄差遣され御依頼に任せ人足十五人藤枝
宿迄差出し荷物継立候処 大井川継立難出来 当村人足差
出しの上菊川村迄継立申候
寅十一月十三日 阿知ケ谷村庄屋 直一
とある。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 1022
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 島田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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