[未校訂]江戸よりは東海道筋地震に付き、破損の場所見分取調べのた
め、御普請役北村栄三・高津儀一郎の両名が、十月八日岡部
から藤枝地方の御道筋を巡視し、当地方えも左の如き触書が
廻送された。
東海道筋地震に付、破損之場所為御見分、左之日割之通相
越候間、道橋等破損通路危御普請相願候宿村、其箇所附帳
半紙帳面に相認め、先前御普請被仰付候間、竿弐本用意宿
境へ張出、案内可致。他大名領分者相除、御料所は小給
所・寺社領宿間村々に候は、最寄宿方より無洩可申達候
此廻状別紙に宿名刻[附|つけ]相認請印之上、早々順達於箱根宿可
相返候 以上
御普請役 北村栄三
高津儀一郎
「我が焼津村においてはこの日朝五ツ半時頃より九ツ半頃ま
で大震動あり、入江神社之儀は地震之節拝殿及大破候」と当
時の古文書の一端に記せられている。城之腰村・[鰯|いわし]ケ島村・
北新田村では人命に拘わつた者はなかつたが、村内の家は過
半数皆潰れとなり、その夜は野宿せし者が多く、瀬戸川はそ
の節天気打続き無水なりしが、山間の谷々の割れ目〳〵より
泥水吹出してたちまち出水し、海水は拾六町も浜辺より引汐
となり、折返しの津浪に人心[兢々|きようきよう]として漁業の手段全く無
く、昼夜共に人々立騒ぎ途方にくれ、その上夫食買入に差詰
り、人気立ち、日を経れば漁業出来融通相付く事と考えて居
た処、数日間は大地震にて、海底は[悉|ことごと]く変地したので、釣
上漁業は云うに及ばず、地引網の漁業も更にこれなく難[渋|じゆう]を
極めたと云う。
なお当地におけるこの日の模様を、如実に物語つたものに、
石神家の記録がある。左にこれを掲げて置く。
嘉永七[寅|とら]年十一月四日朝五つ時、諸国大地震や津波が起つ
たが、当焼津地方における当時の見聞した大要を記述する
と、その日自分は光岳院隆全(石神学の父)宅にあつて、
母も在宅し、伜光弥(学の幼名)は外に出歩き、三男は病
気のため自分が抱いて寝て居たが、その日の五つ時、にわ
かに家中が震動し始めた。始めは小さな地震だろうと思つ
て寝た儘、地震だ・地震だと家族に注意する内に、家屋は
大震動し家を振い揺がすこと夥しくなつて来たが、自分は
帯を解いて寝ていたため急に起ることも[叶|かなわ]ず、しかして三
男文弥を早く戸外に連れ出さんとあせつたが、倒れては起
き、起きては倒れること四五度に及び、漸く一・二歩ある
かんとすれば、座敷内が揺れて足を踏むことが出来なくな
りまた倒れたが、物に当つた拍子に漸く外に出ることが出
来た。その時は地震も止んだので妻は戸外にあつて盛んに
呼ぶので庭前に出で地震の揺り返しの来るべきを待つ間ほ
どなく再びゆさゆさと大揺れが初まつたので、家の潰れる
[虞|おそ]れもあり、まず火の用心が第一と気ずき火を消し置くこ
とを手配するうちに、町の方々に煙おびたゞしく立ち昇つ
た。すでに焼津北の清七なる家は焼け落ちたりと言う評あ
り。かくして漸く三男文弥を抱いて庭に出たる時に、津波
よ津波よと呼声盛んに聞ゆ。これは後で聞いたことである
が、その時の津波は南から一うね高く、また北からも高い
浪が両方から来て川岸まで大浪がざわざわ来たのを、浜に
居た人が見て津波だと大騒ぎして呼び立てたのだとのこと
である。その時の大浪は焼津北村へも入つたそうである。
地震では新屋村の青木大明神の本社・拝殿ともに潰れ、禅
宗寺院松寿院も潰れたが、村方百四十軒の竈には格別の[障|さわり]
もなく、只鷲野武右衛門の竈、渡仲増右衛門・巻田久左衛
門の土蔵に破損あり。また城之腰六百軒の竈・潰れ家等は
なく土蔵のひずみ寺院の小破位にて到つて損害軽く、人々
は喜び合いたりとの由であつた。
焼津神社の拝殿潰れ、焼津村の普門寺皆潰れとなり、貞善
院の鐘楼も潰れた。塩津村の江月院は全潰し、中村の昌泉
院は半潰となり、同村牛頭天王社も半潰れとなり、焼津北
村の氏神三社大明神も全潰れとなつた。
津浪の来る前兆は地震後海水夥しく乾きその跡に居る魚を
拾い来てやいて喰べる程の間があつて後、津浪が来るもの
であると言い伝えられるので充分避難出来得る暇があると
のことである。
この時の震災は他の地方に比較し当焼津では至つて軽微な損
害で済んだが、その潰家の多くは神社及び寺院等であつてそ
の他は稀であつた。構造が不完全の結果と屋根瓦の重量に堪
え兼ねたことが原因と思われ、[爾|じ]後土蔵の外は一般に板葺・
杉皮葺が流行したが、その後火災防止の関係で再び瓦葺とな
つたのである。