[未校訂](七)の一 安政の大地震のこと 巷間伝わる安政の大地震と
は、安政元年十一月四日と翌安政二年十月二日に起きた江戸
の大地震などで、この地震を中心に、この頃方々に起きた大
地震を一括して安政の大地震というが、蒲原地方に大被害を
出したのは前年の大地震で、蒲原の記録では嘉永七年寅(一
八五四)十一月四日の大地震となっている。それは安政の十
一月二十七日に改元されたからで、この地震は改元の二十三
日前に起きているのである。志田家所蔵の神沢村の記録によ
れば、左の通りである。
嘉永七年寅十一月大地震破損家書出帳
覚
海側西から 山側西から
半潰 善八 半潰 彦兵衛
半潰 善助 小破 庄七
半潰 土蔵一ケ所皆潰 小破 利八
長兵衛 大破 作右衛門
半潰 長次郎 半潰 吉郎右衛門
小破 久兵衛 半カ 伝七
小破 勝右衛門 半潰 平八
大破 太吉 半潰 小左衛門
大破 平吉 大破 庄兵衛
大破 七郎衛門 大破 利右衛門
半潰 与七 皆潰 長五郎
大破 弥次右衛門 半潰 彦左衛門
小破 庄右衛門 半潰 甚兵衛
半潰 権右衛門 半潰 幸八
大破 半七 半潰 半兵衛
小破 藤右衛門 大破 与八
半潰 八兵衛 半潰 八左衛門
大破 惣次郎 小破 吉兵衛
大破 佐七 半潰土蔵皆潰
小破 幸右衛門 安平
小破 弥七 半潰 直右衛門
小破 浅尾一 半潰土蔵半潰平左衛門
大破 彦七 大破土蔵大破市郎右衛門
小破 松兵衛 半潰 源七
大破 伊兵衛 小破 定吉
半潰 作左衛門 半潰 八十八
小破 長右衛門 半潰 清右衛門
大破 政七 半潰 善蔵
半潰 藤七 半潰 和七
小破 忠左衛門 小破 源八
半潰 嘉兵衛 半潰 政右衛門
半潰 伊左衛門 小破 清八
半潰 久右衛門 小破 土蔵大破
半潰 惣七 徳次郎
小破 善右衛門 小破 庄七
大破 藤蔵 合計七十四軒
小破 儀右衛門 皆潰 三軒
皆潰 与三右衛門 半潰 三十五軒
皆潰 茂吉 大破 十六軒
半潰 弥兵衛 小破 二十軒
半潰 権四郎 高札場 大破
半潰 八郎兵衛 海宝寺氏神社 大破
百姓代 小左衛門
組頭 徳治郎
名主 安平
名主 市郎右衛門
この地震の発生は十一月四日四ツ時とある故、昼十時頃であ
る。異常な大地震に驚いて宿、村人たちは逃げ廻っている。
堰沢、中村、小金もほぼ同様な被害であったろうが、今のと
ころ記録がみつからない。唯小金の白泉寺の倒壊の話があ
る。付近の手習の子供が習字中ガラガラと来て逃げ出すと同
時に、寺は崩壊したという。
蒲原宿に報告書様のものはないが、種々の見聞記や、多くの
伝承は残っている。蒲原宿の渡辺退平翁の日記によれば、
「十月四日晴五ツ半(午前九時)頃地震ゆれ出す、追々強く
なる趣に付病で寝ていたが片手に足袋を持ち表へ出る。つい
に大地震に成り大声にて家中の人を呼びながら向ひの藪に上
る途中、地がゆれて転倒しそうになった四方の震動する事は
大風のようであり、大濤の音の如くで気は遠くなってしまっ
た。(中略)我が家は皆潰れた。土蔵は元蔵、奥蔵、三階
蔵、穀蔵、味噌蔵の全部、隠居の長屋も残らず潰れた。(中
略)大地の亀裂は幅五六寸位長さ二十四間、その亀裂から煙
りが吹き出した、田畑では水を吹いた。処によると砂を吹出
した。水の甚だしき処は湖沼の如くになった。大地に凸凹が
一面に出来た。この地震の有様は、折々雷鳴の如き響きがす
ると、雉子鳴出し直ちに地震になる。幾度も皆々是の如くで
あった。すぐ火事が出たのであったが、山裾沢西側から焼始
め火勢が盛んになり、折悪しく東風が吹いていたので西へ延
焼して行った。柵の七兵衛宅にて火を消した。この家は長坂
沢の川から東側へ六軒目の南側の家で間口五間三尺の家であ
るから南側四~五軒が焼失したことになる。北側のことは不
明であるが焼けていないらしい。この時丁度雲助が四、五十
人居ったので、米をやるからと火消を頼んだら、此者の働き
で火を消すことが出来た。この夜は旧暦の十月で殊に寒く霜
が雪のように降りた。その後も余震は数十度もあり、夜も雉
子が鳴出すと直に地震になること前の如くで、世界も今を限
りに一変するのではないかと思うばかりであった。その夜は
そこここに仮家を作って寝た。小供は地震の度毎に泣叫ぶ声
止まず悲しき事はとても書くことが出来ない云々(中略)
五日朝より地震数十度、即死人の数八幡町忠助妻逃出す時打
たれ死す。西古屋敷源十の母打たれて死す。本町文左衛門女
房打たれて乳児と共に死す。新田かじや金右衛門母打たれて
死す。東漸寺過去帳には、即死者十一名当山諸堂皆潰れ鐘楼
のみ残ると、又柵、本町二町炎上とあり、城源寺過去帳に
は、同年十月五日新田三左衛門死亡、同和尚手習の足の悪い
子供と共に逃げおくれて死亡したという伝承あり、和尚の死
亡は十月四日となっている。
同日御普請役北村半蔵、同高津儀一郎、検視に出張、本陣脇
本陣等その他に拝借金を許す。
内訳
金百四十二両二分 本陣 久兵衛
金七十一両一分 脇本陣 久右衛門
金七十一両一分 脇本陣 忠左衛門
金七十一両一分 丈助
金八両二分 問屋二人、年寄四人分
問屋木瓜屋蘇助、長兵衛 年寄八幡屋次左衛門、谷屋平
吉、新田丈左衛門、
金百四十二両二分 馬役百人分
金七十一両一分 歩行役百人分
金四両三分 問屋場へ
金百四十七両 西の旅籠屋連中へ
金二十八両 東の旅籠屋連中へ
金十六両二分 大破旅籠屋へ
一人に一両一分宛
計金七百七十五両二分、拝借許すとある。
即ちこれは代官所から宿機関に対し災害復旧資金が貸与され
たもので、例により死人や庶民の家は対象となっていないよ
うである。
同月二十四日、富士川此度大変にて岩淵より、新開の川へ切
れこみ加島大危難になり、我方の地高三丈程高くなり、下方
の加島の人たまりかね此節五六百人人足出て我方へ切落す也
此段捨て置けず、中淵、中の郷、蒲原の三ケ村(以下切断不
明なり)
この記事にて安政元年の地震により、富士川岸は三丈程地盤
隆起し、下流の加島地方で大騒ぎして蒲原分に富士川を切り
落す工事をしているのを発見、関係宿村は直ちに抗議し対抗
したものらしいが、以下の記録は中略にて詳細は判らない。
いずれにしても古郡孫太夫以来二百年来の富士川本流直撃か
ら免れ、水流は一変して公平に富士川を南流し、さしもの水
害から蒲原田は救われることが出来た。しかし洪水は蒲原田
を肥沃にし、蒲原宿を支える唯一の経済基盤を築き上げたも
ので、その余徳は現在に及んでいるが、安政の頃までの洪水
災害そのものは、言語を絶した飢餓と苦痛をもたらしたので
ある。富士川右岸隆起と本流の移動は、この洪水災害から蒲
原を救済することになったが、代って灌漑用水の利水に困難
することになった。
天保の頃はすでに堀川筋御廻米の船路が開かれており、この
水路は明治七年開発された塩輸送船路の前身となったが、甲
州方面の廻米船、船繫場が馬灌洲東側にあって、長さ五十間
もの工作物を有していたというから、相当量の輸送船を収容
でき、水量も豊富であったことがわかる。
この水路は安政の大地震後利用価値を失い、現在一部遺溝と
して残存するかっての堀川水路が、明治七年に再び開発され
る基となるのである。当時の御廻米船路堀川筋仕立書上帳に
より、水路、船繫場等の工作物の規模を知ることができる。
御廻米船路堀川筋仕上書上帳 蒲原宿
字小桝形向より馬間洲迄堀川筋
長九百五十間内
一堀割長百七十五間、平均深二尺、敷一丈五尺、上口
一丈八尺
一堀割長(別口)五十間、平均深二尺、横八間
人足 千四百六十八人
但砂利捨坪五人と見る
内訳 二十間 小枡形向分
十間 大枡形留出下
五十間 外堤六番向
五十間 同所築留下
十五間 同所下
三十間 馬間洲下東
五十間 船繫場(船囲場ともいう)
小計約二十両也
天保九戌年閏四日
江戸(ママ)代官所 蒲原宿
この記録によると、船繫場五十間とある。この位の大規模な
船繫場であれば、相当数の廻米船を、富士川より積替なしに
蒲原浜の高浜船溜りに直接導入出来たであろう。
又「富士川通り下荷物当所賄の覚」という当時の川荷物賄所
の文書に、重要に扱われている記事があるので紹介すると、
どぶ川下り堀通して大堰を築き、ここに溜江を作り筏一組銭
五百文で留置き、筏の藤つる直しは時により五貫文も取って
海上清水湊へ出したとある。水深のある溜江を作り、海上輸
送の基地として活用していたようだが、宿文書に多く取り扱
れたとこから、当時は重要な輸送機関の一つであったのであ
ろう。
二 安政の山崩れのこと 世にいう蒲原の山崩れのことで、
安政元年(一八五四)の地震で地盤のゆるんだ所に安政四年
六月二十四日朝来雨降りつぎ山崩れとなったもので、宿内の
神社仏閣をはじめ人家百余戸埋没したという蒲原史上最大の
山崩れであった。渡辺家日記によれば、渡辺退平金暸の嫡子
同名利左衛門の時である。
安政の山崩れは二年に渉りひき起こされた。はじめは安政四
年七月八日のことで、同日の項に「近来にない大雨で昼すぎ
からながし風甚だしく雨降り止む時なし。夜に入れば益々大
雨にて街道は大河の如く、自他共人家へ水流入り川の如くで
あった。五ツ時(午後八時過)頃恐しき響して雷鳴の如くで
あった。此音二度した。此の時竜雲寺山が峰より崩れ落ち、
同寺は埋没した。夜の八ツ時雨やみ静かになった。竜雲寺の
本堂は山に押出され七八間前ににぢり出し、柱は全部折れ
て、屋根ばかり地に座っていた。庫裡物置は跡形もない有様
で山よりは松、雑木が根こぎとなりころげ落ち水風呂桶より
大なる石から百貫位の石は数知れぬ程であった。(中略)竜
雲寺は地震の被害は軽く済んだが、山崩れで皆潰れとなっ
た。寺僧大雨の節過去帳其の外の書類持参り、油屋利助方立
退間もなく山崩れがしてきたと物語られている。山居沢は長
野屋裏にて切れ、嶺の大松数多縦横に重り恐ろしき有様な
り。小泉の裏大洲留が崩れて街道に流出する。長野屋より西
方は街道が川となり、軒別に洲留して防いだ。近来稀なる大
荒れであった。」と記されているが、これ程の大災害ではあ
ったが、一人の死傷者も出なかったことを伝えている。とこ
ろで翌年の安政五年の頃では「六月二十四日雨であった。早
朝山崩れの報に、早速下男善吉をして見廻に出した処、町内
氏神社が埋没して漸く大鼓を掘り出したといってきた。又も
や朝五ツ時(朝の八時)に俄に山崩れとなり町内油屋作右衛
門宅が皆潰れとなり、それから追々あちらこちらが潰れはじ
め皆潰れあり、半潰れあり半時位の間に人家十軒余皆潰れと
なり恐ろしき有様なり。私は病中にて裏の所好堂の座敷から
この有様を見ていた、」という。
皆潰の家は長蔵、由兵衛、新兵衛、伊右衛門、なかの内利
十、平右衛門、金七、百姓代作右衛門、組頭格源助計九軒
半潰の家は松蔵、亮太郎、政右衛門、扇屋市郎左衛門、さく
や弥右衛門、計五軒
寺では東漸寺、前地震後本堂なしにて庫裡ばかりにてありし
を又山崩れにて皆潰れとなる。城源寺は山崩れにて皆潰れと
なる。
山裾沢大荒にて長野屋皆潰、柏屋、三度屋皆潰れ、皆仮屋で
あった。小金、中村、堰沢の寺々も皆潰れとなるこの夜大雨
大雷に付老母子供江戸屋に避難す。
二十五日、各処で死人掘出す。中の内おなか。伊右衛門娘の
両人を掘出す。
二十八日、昨日代官山崩れ検分皆潰の家一軒に付見舞金三
分、半潰一軒に付二分、男子一人付二合女子供一合日数三十
日間拝借すとあり、今にいうところの災害救助法適用の如き
ものである。
この災害は時期的にみて梅雨明けの豪雨によるもので、昭和
三十年八月三十日当町を襲った向田川災害の局地的大雨に類
似したものであったろう。