[未校訂]聞社
地震墓
富士川沿岸の災害といえば、すぐに洪水を思い出すが、実際
には水害ばかりではなかった。山ふところ深く人間が入り込
んだ地区では、山津波とよぶ山崩れが何よりも恐ろしいもの
であった。
日本列島をタテに真二つに裂いているフォッサマグナの大断
層は、日本海の糸魚川から東海の静岡県までその爪跡を残し
ており、大雨が降ると土砂崩れを[頻発|ひんぱつ]させ、現在でも富士―
甲府間の身延線をストップさせ、富士川に沿った県道は慢性
の土砂崩れで工事費に悲鳴をあげている。
そこで道路をトンネル化して、頭上を土砂流が通過して富士
川へ落ちこむように大工事を施し、一応の成功を収めた。だ
が一方で、東海道由比町の地すべりは山麓住民の移転を余儀
なくさせ、豪雨のたびに不安を与えている。
そのような大自然と人間との災害、闘争の歴史は、今に始ま
ったわけではなく、宝永四年(一七〇七)に富士山が爆発し
た時、その前後に大地震が襲って、富士郡芝川町の白鳥山が
崩壊して付近の村落を押しつぶしている。その時の様子を古
老の伝承によってまとめてみると、この年一〇月、[橋上|はしかみ]の住
民が「屋根[替|が]え講」のために集まって、白鳥山へカヤ取りに
入った。屋根替え講とは、昔屋根をカヤでふいていたころ、
多くの人手と費用を要したので、村民相互の協力でカヤを刈
り集め、屋根ふきをするまでの費用と人手を出しあう講であ
った。
村人たちはそれぞれ手弁当で白鳥山にわけ入り、カヤ刈り作
業をしている最中、突然ぐらぐらっと地震がきた。その途端
に白鳥山の山腹がガバッと大きな口を開いて、頭上から土砂
が崩れ落ちてきた。八人が生き埋めになり、かろうじて生き
残った者は、運良く首だけ地上に出ていたため救出されたと
伝えている。生き残りの子孫、森和一さんの談である。
この時、白鳥山の直下の[長貫|ながぬき]村では、村の半分にも当たる二
二人が死亡するという惨事となった。古文書には、「このた
び地震につき、白鳥山富士川へ崩れ落ち申すに付き、本村の
通路いっさい御座無く候」とあって、陸の孤島になってしま
ったのである。長貫村は富士川をへだてた対岸の村であるか
ら、崩れ落ちた土砂は富士川を埋めてなおあきたらず、対岸
の村落を埋め尽くした。そうした惨状であったから、近隣の
村々も大被害をこうむり、山口村や大嵐村でも山崩れを出し
ている。
この時の死者を供養するために、長貫では明治一一年(一八
七八)に墓をたててやり、橋上では安政二年(一八五五)に
供養塔を建て、土地の人はこれを「地震墓」と呼んでいる。
村の入口に建つ小さな供養塔には、三面に何人かの戒名が刻
まれ、しかもそれは江戸時代における三度の地震の被災者た
ちであることが判明した。
要訳すると次の通りだ。
▽寛文一三年(一六七三、二人) 宗興・法興
▽宝永四年(一七〇七、八人) 妙観・円心・妙智・妙在・
妙通・妙行・妙泉・妙行
▽嘉永七年(一八五四、六人) 玄受宗達・玄了宗蓮・聞法
宗順・蓮上宗秀・一乗宗仙・是則宗勇
以上のような合同慰霊塔であったわけであり、富士川砂利採
取場のかたわらに、ほこりをかぶって、ぽつねんと建って苔
むすにまかせている。
宝永四年内房村の「田畑山崩改帳」によれば、旧田畑のうち
九反余が埋没し、新田畑一反八畝が荒廃、そのため六石八斗
七升の収穫がふいになったと報告されている。この数字は、
あまり田畑を持たない山間の村人にとって、たとえようもな
い被害であったろうし、その故にこそ「地震墓」の持つ意味
も大きかったのである。
ところで、それら被災地とほど遠くない[塩出|しよで]村で、これに先
だつ二年前の宝永二年六月一六日に、山津波による死者三五
名を出した災害がある。
この夜、祭典で手製の濁酒(どぶろく)などを飲んで就床し
たあと、一大[轟|ごう]音とともに集中豪雨のあった[榧|かや]の木沢上流か
ら山崩れが発生し、同時に境川をさはんだ対岸からも土砂崩
れが発生して、川を埋め、人家を埋めた。せきとめられた境
川は濁流を狂奔させて人家を襲ったので、溺死者と圧死者と
が出る、二重の悲劇となった。
この時被災した家は七軒といわれ、被災者三五名を供養して
建てた石塔が村はずれにたたずんでいるが、塩出部落は現在
でも家数は九戸の村であるから、その災害は一村全滅に近い
ものであったろう。
ところの遠藤源治氏によれば、その後、嘉永七年に死者の百
五十回忌が行われ、その時の古文書から六名の施主がわかる
という。その中の三名は塩出、一名が尾崎の人で残り二名は
不明ということから考えると、家によっては全員死亡して子
孫が絶えたり、そのため系類の人が年忌に加わったり、ある
いは転居していったことまで考えられるという。
なおこの日は祇園祭りの晩であったと伝えられ、この痛まし
い犠牲者たちのために本成寺の日瑤上人が記した供養塔はこ
れも村外れにあって、破損、剝落したわびしい姿で、二七五
年前の災害を物語っている。
地震山
地震がくることを望む者は、おそらく世界広しといえども、
誰一人いるまいと思っていたが、例外はあるものだ。富士川
下流部に伝わる[俚謡|りよう]にこんなものがある。
地震さん、地震さん
私の代に今一度
[孫子|まごこ]の代には二度三度
石川静隆さんから聞いたこの俚謡は、地震に向かってもう一
度きてくれと呼びかけ、子孫の代には二度も三度も起こって
くれというのだから、ちょっと理解できない事である。しか
し理由を知ってみれば、なるほどと思う歴史の事実がひそん
でいるのである。
富士川河口に近い西岸の蒲原町に、「地震山」と呼ぶ土地が
ある。ここは昔、富士川の河原だった所だが、安政元年(一
八五四)一一月の大地震によって、むくむくと異常隆起した
場所である。そのかわり東岸方面は低下して川水がそちらへ
移動したため、富士市の西南部は大洪水に見舞われるという
被害を発生させた。
安政の大地震は史上有名なもので、東海地方はいきなり大音
響とともに地面がふるえて、メリメリッと地が裂けたかとみ
るや水を噴きあげ、居並ぶ家屋は前のめりに倒れていき、砂
塵が舞い上がった。外に飛び出した人も、とうてい立ってい
られなかったというほどの震動だったので、建物が倒れて下
敷きになった者の悲鳴と救いの声が、四方から聞こえてすさ
まじい光景になった。
この時、駿府城や沼津城が崩壊して、地震に伴う火災が発生
したため、市中は大混乱になった。府中(静岡市)では町家
の大半が焼失し、沼津でも火の手が四方からあがったし、清
水では全焼、蒲原も本町から出火して柵町まで燃え移り、町
の半分を焼失するという有様であった。火災にあわない人家
も、ほとんど倒壊するという大被害であったから、その他の
土地もまったく同様の地獄を展開していた。
ところで問題の「地震山」はどうだったろうか。当時の古文
書によって土地が隆起した様子を見ていこう。
「河原の義は、水面より場所により山の如く、又は一丈(約
三メートル)余も石砂が[震|ふる]い上り候に付き、東側富士郡松岡
村[字|あざ]三番出し御普請所へ、本瀬ひとまとめに逆落しと相成り
……」とある。
つまり水面から三メートル以上も隆起して、ところによって
は小山のように高くなったというのである。文中「石砂が震
い上り」とあるのが、いかにも河原がゆれ動きながらムクム
クと盛り上がっていった様子を示している。この荒地をやが
て掘り起こし、石を除いて次第に田畑に変えていき、現在で
は立派な水田になっている。
そこで付近の人はここを「地震山」という以外に「もうけ山」
とも呼んで、こうした事が自分にも起こってくれないかなと
願ったのが、前記の「私の代に今一度」という俚謡になって
歌われたのである。
だが地震による被害は各地で相次いで報告され、そのすさま
じさは目をおおうばかりであった。
対岸の岩松村では、三八九軒が全壊。前田村(富士市)では
つぶれなかった家は二軒あっただけであり、精進川村(富士
宮市)でも無事なのは二軒にすぎず、一七八軒が全壊してい
る。それは村全体の六〇パーセントにあたっており、残りも
半壊という惨状だったわけである。
死者については、精進川で五人、蒲原で十余人と書かれてい
るが、詳しく調べればさらに多くの追加があることだろう。
また後遺症も例をみないほど大きく、宝永四年に崩れた芝川
町の白鳥山が再び大きく崩れて、富士川をふせぎ止めてしま
った。そのため何日間も水流がさえぎられて、下流部は枯渇
して魚が手づかみ出来たというほどだったが、やがて溜りに
溜った濁流がドッとばかりに下流を襲った。水は五貫島と宮
島をつきわけ、つぶれた家を流し、海へ突入していったが、
西岸も無事ではすまなかった。
「ここにおいて、岩淵・中之郷・蒲原一帯の西岸は、茫々た
る河原に変じたり」と『庵原郡誌』がつづっている。
更に大きな変事は、蒲原の御殿山に発生しつつあった。この
地震で山肌に大きな亀裂が生じて、それが三年後の七月に大
雨が降り続いたあと、たちまち地すべりを起こして山麓を襲
い、民家二〇〇余戸をアッというまに飲みこんでしまったの
だ。しかし幸いなことに、この惨事が昼間に発生したため、
死傷者は三〇余人ですんだ。
こうした様々な話題とともに、地震山は暗く悲惨な災害史に
特異な一頁を加えて、今もひそやかな羨望をこめて語りつが
れている。