[未校訂](表紙)宇田川記
下田はなし 全
(註) 巻頭の序文脇に左の如き蔵書印があるが、中間の
文字不明
勝俣○○蔵書
嘉永七年甲寅十月十四日魯西亜国の軍艦一艘豆州下田の港へ
渡来せり同十八日川路君ニ従て江戸を発し同廿一日暁下田の
港に達し稲田寺に宿る同廿九日故ありて泰平寺に転宿す十一
月四日巳の刻比大地震あり鎮るやいなや津浪山の如くに押来
り下田の人家尽く流失す古来未曾有の変災なり予其中に在て
危急の難ヲ免かる幸と云ふへし故ありて君に先ちて同十一日
下田を発し十五日江戸に帰る親疏(疎)に逢ふことに輙ち其変災の
物語を請ハれけれとも訥弁にして言尽すこと能ハず依て眼に
触れ耳に入し事共を思出し書記して下田はなしと名付是を取
て舌ふ代ふ故に唯吾見聞に預かる事のみなれハ万分の一にし
て全体を尽す能ハす見る人其浅陋を咎むる事なかれ
是歳嘉永七年陋(ママ)月記
下田はなし
十一月四日晴渡りて風もなく最(い)と清らかなる日なり今朝風(風様)さ
まんもよかりしにや船が六十艘も入津せしゆへ品物は沢山に
なりぬと土地の者の語りし朝飯も給べ仕舞次の間に侍り居し
が去る朔日ハ異人上陸して本郷の福仙(ママ)寺へ参り初て応接あり
二日にハ異船へ参られ三日にも亦福仙寺にて応接あり都合三
度も済しゆへ明日か明後日にハ定めし江戸への御便りもあり
なんと思ハれバ見聞いたせし事抔を内々申遣んと側なる用ハ
同勤へ頼ミ置ひてぞ本堂の客番部屋へ引取りてそこに認め居
たりしに俄に地震ゆり出し山鳴り海も答へしゆへこハ恐ろし
と帯掛けの巻紙其儘懐へ押込矢立を腰にさし刀おつ取り駆出
し公にはいかかと尋るにはや玄関を出られて側向残らす飛出
す宇田川家来の六郎が此節使に来りておりし小六か飛て出掛
しを見付て近寄あぶなひといふ中外へ出にけり猶又強くゆる
ならバ庭なる藪へ入るべしと皆一同に覚悟して居るゆれハ鎮
まれどまだ安心もならざれバ火の元気を付居たりしに又少し
ツゝゆれけれバ油断ハならしと覚悟して堂の前後を見廻れハ
石塔倒れ石燈籠竿石なんぞハ折てあり当(辺)りハ余程強かりしと
思ひなからに本堂へ戻りて居る中に外より津波だ津波だぞ早
く逃ぬとあぶなひと大音声に呼ハリたりそふいふ声に驚きて
津波の様子ハ知らねとも取ものも取敢へす公を初めに逃出し
我劣らしと裡の方山を目当と飛て行海山一度ニ鳴動し天地も
崩るゝ有様にて寺鐘つき立大騒き其時火事たと言ふ者あり見
るに烟も立上る跡にて聞バ津波にて人家の崩るゝ土烟り船ハ
前町家根の辺帆柱近く奔行小六爰ニて思ふよふ公にハ供もお
ゝぜひあり狼狽て事を仕損しな空手て逃てハ面目なし一品な
りとも大切の品物持退出んとて先ツ一番に御調処踏込見れハ
床の間に両掛あれハ取出して片付申と断れハ宜頼むと申され
て其後ニハ逃られたり当りに有合品々を押込錠前押おろし担
て飛出し裡の方寺たる脇の山岸へ出し置又々立戻り居間なる
処へ飛入れハ残れる人にハ根津肇田村与助と番人のミ諸道具
片付長持へ押込居たるを手伝て棒を通して出さんと金剛力を
出しても両三人てハ出しかたく小者を呼て来らんと裡なる方
へ走り行見渡したるに影もなし大音声に呼ハれど答もなけれ
バ詮方なく波ハ次第に押寄せて船や人家を押砕き後ろの方よ
り寄せ来る又其儘に立戻り両掛壱ツ引担き裡へ廻りて脇道へ
出んとすれバ山岸に小者壱人立居たり此両掛をそこへ出せと
言付脇を見廻せバ先より小者壱両輩来るを見付て声を掛け直
に戻りて有合の品物集めて一抱持出す中に長持ハ小者這入て
担出す此時波も左右前後ニ押廻す進退爰ニ極(ママ)らんと持出す道
具投け捨て跡へ戻りて根津田村早く逃んと危きそと言捨直に
元の路道具おつ取向峯飛か如くに駆登る此時又来る〳〵と言
より早く押来る波初手より勢ひ盛ニなり山岸つたひて逃路に
子供の死骸を引上て母親側に泣居たり不愍の事そと言葉を掛
け山へ登りて見渡せバ桑田変て海となり人家砕けて山をなす
最早旅宿も助かるまし詮方なしと思ひ切公にハいかがと尋行
公ハ此山絶頂と聞より路もなきところを押分蹈分攀登る手足
ハ刺にて疵たらけ爰にて途々見おろせバ異船は帆柱取縮め左
右へ傾浮沈みはや覆る有様なり峯に逃るゝ老若男女群り海面
見渡して異船のために此難儀ひつくりかへして下されと南無
阿弥陀仏南無阿弥と唱る声こそかまひすし又攀登り絶頂にて
公に峯にて対面し主従諸共無難にて廻りて会そ祝着なる公ハ
爰より山を越へ大安寺の後ろなる薬師堂へ仮住居小六ハ山下
へ飛下りて荷物を一ツにまとめんと夫〳〵手配致す中又波押
て来りけり荷物ハ山の麓なる小高き場所へ取集む追々潮も引
たれハ人の死骸ハ数しれす潮と諸共流れるもあり泥に埋て残
るもあり衣類諸道具皆しかり実に浅間しき有様なり宿処の寺
ハいかにやあらんと途に見るに森の中寺号の如く泰平にて是
此上の仕合なり残の荷物出さんとて其行筋の路端ニ流れて来
る上方酒薦蒙(被)りを取上て鏡を抜て呑むものあり是ハ奇妙と立
寄て飲ハ甘露の味あり寺の辺りへ到りしに人家や舟のこわれ
抔山の如くニ押込て入るへき路も無きゆへニ家根をつたひて
峠を越へ藪へ入庭へ出て椽より座しきへ(を)見れバ潮の痕ハ□を
限りて畳の上を浸さぬゆへ荷物少しも濡されハ是仕合と喜合
へり食時も余程過て空腹を覚るまゝ先ツ一番ニ庖厨へ到りて
見れハ飯櫃ニ朝飯少し残りあり茶碗に押付二三杯手早く食し
て諸道具を取片付て送り出す此時人手も多きゆへ乍ら山へ運
ひ出す本堂方丈厨共ニ流れハせぬと其廻りへあらゆる物共押
込て藪沢の如く成行きて人の住ふべき様もなく又の変義も恐
れあれハ今宵ハ野宿と覚悟して食料等をかき集め鍋釜抔も持
出す昼惣菜に用意せしさんま一籃見付出し是ハ奇たいと持出
し夜具蒲団迄持出すそれらを道すから行あふ人ハ様々にて親
を尋て来るもあり子供が見へぬといふもあり夫に別れて泣も
あり妻を尋て行もあり金をさがし銭を担ひ簞笥を荷て行もあ
り衣類諸道具泥の中より引上け居る人もあり目も当られぬ次
第なり日足も早く傾けハ山にハ野宿の支度をし目当に幕を引
張て地面掘て薪を焚き藁薦茵に縁(団)居して拾ひて貯置し薦蒙り
の物を土瓶へ酌焚火にかさし温て例のさんまを肴とし何れも
悪魔を払たり此山裾に百姓家両三軒も□らん津波ハ爰迄
来らねハ懇意の者やら縁者やら連れ来りし□□の世話にて混
雑の程に見へどさくさ致たり其一軒ハ□宿へ来りて世話
をする婦人の叔母の家のよし婦人もそこへ逃て来て能く深切
に世話をし飯抔焚て呉れハ都合ハ至極善けれとも多人数食す
る事なれバ度〳〵頼むも気の毒なり迷惑ならんと其後ハ山の
焚火て炊して只水斗りを貰ひたり其水さへも不自由にて米も
洗ひが届かぬゆへ糠の臭ひハ鼻を衝くなれとも賤に及ハぬ不
幸の内の仕合なりはや日も暮て夜になるにまだ□月の光なく
物のあやめハ分たねとも只山々の篝火ハ同し仮寝の草枕虎狼
野十(ママ)の住そと思へハいと物すこし我山栖の人々ハ用人給人近
習の士小六を加へて七人なり其余ハ皆々小者にて其群々に集
て今日の始(末)を物語る扨気になるハ箕作宇田川天方の三人
なり宿元は海に近けれハ危かりし事ならん早く様子を聞たし
と思へと尋る手寄なし其中人の申にハ命斗りハ助かりて別条
もなく逃たりと聞て少しく安心せり定めしけふの災変ハ早速
江戸へ聞へなん君父の案思いか程そ早く便りを致さんと昼間
の騒きの其中に地震の前の書掛へ書足し置て用人へ頼めと夫
にハ及まし同勢一同立退て一人も怪我のなき事ハ我より申遣
せり安否ハ直ニ分るなりと申に強ても頼まれす詮方なくも止
置て猶重便を待居たり追々夜も更けぬれハ山風峯より吹下し
寒気ハ肌に染(浸)渡り蒲団一枚おしかぶり焚火の側へ草枕しはし
まとろむ其中に雨の用意と言ふ声に驚き起て見渡せハ空かき
曇雨模様雨具取出し笘も掛け夫々手当致し置此上雨に逢ふ事
ハ因果の上の因果そと覚悟して待居しに難なく雲も薄ろきて
処まだらの晴間より星の光見へたれハ先ツ天文もよろしとて
夜の明るをそ待たりける
夜も明け五日となれハ四方の山々晴渡り穏なる気色なれと昨
日まて民の竈も賑ひしに今朝ハ煙も絶て磯のミそ残りたる其
あわれなる事ともハ譬ふるにものなかりける公にハ森山及一
両輩と同道にて此山裾を通り過き田畑の間をつたい行き村垣
君の旅館なる長安(楽)寺寺へぞ行れける此寺坂程高みゆへ津波の
難ハなかりしよし昨夜異人のポツセツト外に壱人召連て公の
仮居へ見舞しよし扨箕作と宇田川の在家ハいつこと尋るに本
郷と云村のよし尋て行て其序津波の跡も見度ゆへ山を下りて
田の路を行掛りしに田畑にハ浪打寄る人の死骸ハ数しらす引
取ものもなく其儘なるもあり薦など掛て置あり中にも三四歳
なるおさな子の頭並べて二人同し様に臥したるハいとと不愍
に覚へける其外眼の及ハぬ方幾百人か有らんと思ハれて物す
さましくなりにける夫より宿所の寺を抜け出んとせしに傍の
樹木の高枝に行燈の流れ来て掛るあり門前へ出て見れハ千石
船の帆柱が流れ来りて横ハる其辺人家の敗家棟梁縦横に打寄
て出へき道もなかりしを帆柱つたハり家根を越へ漸く広場へ
出て見れハ十八ケ町押流し聊残る家あれと只名のミにて住ハ
れす昨朝はなしの六十艘過半ハ難破漂流し其辺此辺見廻りて
親兄弟の行衛をハ尋歩く人もあり死骸を改め流れし家を探る
もあり砂をあはゐて求るあり思〳〵の挙動なり山岸なるある
寺ニハ門のミ流れて堂塔無難ニ存在せるハ案の外なる仕合な
りなれとも堂の廻りへハ破船倒家を押流し込て開くへき様も
見へず艪ハ不残破損せし内本郷村の田の中に植たる様に残り
し七八百石積の一艘計りハ損し多く見へさりし先一通り見渡
して両人の在家を尋しに知人なけれハ詮方なく帰りを急く道
なれハ又出直して来らんと立戻り来る途中にて不図も箕作方
の礼介ニ会ひ共々に命のあるを祝着す先生両人怪我もなく此
前村の百姓家七右衛門なる家にあり其外難なく立退きしが今
壱人見へされハ今朝より尋るに未た行かたハ知れさりしと聞
て何分心配ならん心当もあるならハ早速知らせ参らせん先生
両人無事なれハ帰りを急く事ゆへに又其内に尋ぬへし宜申し
て給ハれと伝言致して分れたり元ト来し路をたとりツゝ三丁
辺へ戻りしに徒三人に行逢しに彼人中より公ハ奉行へ行れた
れハ是より迎に参ると聞て小六も一緒に参りたり村垣中村諸
君たち寄り集て居られたり天方供にて識り居り爰にて囁を聞
たれハ昨朝公より帰り掛途中て津波に出会しが宿所へ帰る事
ならず其儘供にて立退きたり荷物ハ残らず流すなり金子も少
しハ流したりと互に始末を語り合せ公にハ爰を立去られ尋る
君ありて行れたりそこへ同勤三人来れ供ハ足れり山にも用事
もあるなれハ小六ハ山へ帰りけり山てハ食事の最中にて飯ハ
醬油を入れて焚き菜は大根を煮浸たり空腹なれハうまかりし
今日ハ旅館も定まりて蓮台寺なる村のよし荷物を運ふ様にと
ぞ言付あれハ此山を取片付て其支度今日も明日も野宿ぞと思
ひの外に住み所早くも極りて人々安堵の思ひをなせり荷物を
運ふも手入にて余人を雇ふ事ならすてんでに携へ押かつき思
ひ〳〵に出掛たり小六も包を背負ツゝ竹杖支へて山を下り山
に添てぞ行けるに此山岸へ人足とも人の死骸を荷ひ来て並べ
て置し其数已ニ十五也是ハ奉行の言付にて主なき主な(ママ)き死骸
を集る由なり夫より路を尋行き三十丁も行程に流川ありて舟
板渡せし橋を踏越て行ハ一村人家あり名ハ中の瀬と申由爰に
ハ農商交り住む此村端に又川流あり板にて橋を掛置たり爰を
渡りて七八丁向ふ辺に孤村あり名を尋るに蓮台寺村役人共出
迎あり公の旅館の寺なるよしを聞て尋行く玄関と堂に紋付の
幕打あり寺号を広台寺と云是も可なりの伽藍なり草鞋を脱て
洗足し堂へ上りて奥へ入る同勤稲吉某ハ我より先に来り居る
扨此地ハ偏僻にて孤村なれとも前町に温泉ありて見苦しから
ぬ家作なり寺にハ風呂も湧さねハ案内させて門前の新湯と申
家へ行き裡へ通りて別坐しき浴室ありしに投すれハ加減ハ調
度比合にて臭もなく味なし昨日の労を洗去り愉快を覚へて帰
りけり公も程なく来られて一度に同勢押込ハ元より偏土の村
役人世話人等も事馴れず狼狽騒く斗にて事ハ弁せす一円不都
合の事共なり日も西山に没すれハ夕飯なりとて差出す飯ハ玄
くて菜ハ芋大根汁に香物なれと昨日の苦を思へバ是も一段結
構なり夜に入地震起りしが間もなく津波と申にそ臆病神の付
居れバ何れも驚き狼狽す早速物見を出せしに全く根のなき言
のよし皆々腹を立れども誰か言出せし言共知れず咎むる事も
成ら(は)こそ跡にて聞ば此時下田にてハ頗る津波の打上しよし爰
に信濃屋直吉とて江戸にて人入の元〆なるが小石川の屋敷よ
り飛脚になりて此地に来り申様昨日箱根に掛りしに畑宿へ至
り(る)比地震大ニゆり出し石ハ峯より転ひ落歩行もならす四んば
ひ漸く峠に到りしに人家ハ残らす大損じ山中宿に到しに爰も
同しく大損じ三島の宿震倒し其上焼失致すよし沼津ハ御城大
損じ市中残らす震倒し失火も少々ありし由三島へ通行成り難
く山中より脇道へ廻りて爰へ着しとぞ扨明朝ハ御飛脚も立よ
しなれバ宿許へ一封の書頼ミて差出す白木ハ昨日逃道で懐中
物を落すよし寝前に一杯傾んと土地なる人に頼め共下田の変
後酒ハ一滴も参らぬよし各寝支度致せしに夜具ハ払底なれバ
とて弐人に一組当られて不自由なる事昨夜の山宿思ひ出し其
期の難にくらふれバ遙に勝りて寝心地よし
明れバ六日となり公六時の過るより下田奉行へ参らるよし少
々早く起き門戸辺江立出流れにて口をすゝぎ顔洗ひそこらあ
たりをなかむれハ氷も張りて霜も降る下田を去る事一里程南
を塞きし山間ゆへ其寒暖の殊なるハ余程なる事思ふへし夜も
明供も揃ひぬれハ公ハ直ニ出らるゝに今日よりは供人も減少
し近習三人徒三人用人ともに七人にて公ハ歩行て行れたり今
朝人の申せしハ昨夜三度ニ今朝一度下田又々津浪のよし阮甫
来りて初て逢ひ津浪ノ様子ヲ尋るに地震ゆり出し門口へ主徒
諸共駆出し程なく地震鎮まれハ川路君の機嫌聞に参るへしと
興斉と袴羽織を着し先ハ茶を呑てと茶を煎て居る処へ津波
〳〵の声を聞大小おつ取其儘駆出し山へ逃んと急けとも兼て
足元弱き故家来のものに助られ漸々あゆむ其跡より直に波に
追掛られ富士山へも登る心地して一勺も出ず息はつみて咽渇
く家来山下へ立戻り流れて来る酒樽より酒を少々汲来り主従
諸共木の葉にて漸咽を潤して夫より山を打越本郷と云村の庄
屋の方にて夜を明す荷物ハ残らす流失す地震の蔭にて此袴并
羽織を着て逃し夫ゆへ爰へ参られたり昨日も今日も家来共流
せし荷物穿鑿に手分をなして出したり津の藩の壱人ハ知れさ
る様子ニ承ハる出るや否やを尋るに無難に立退来るよし扨晩
景にもなりたれハ公ハ奉行所より御用も済ミて帰られたり村
垣菊地の両君と并杉山某と都城へ急の御用にて今夜発足致さ
るよし菊地の君ハ諸道具を残らず流失致さるゆへ駕其外の品
々を用立られて衣類抔譲られたりし様子なり是は何そと察す
るに異船ハ津浪に楫折られ底が破れて水か入る修覆に用る品
々と修覆を致す其場所と食料乏しき事なれハ帰帆の節の食料
と下田はアメリカ開きし場所別に一港開き度き其廉々を願よ
し又坂氏と云駿府へ出立致したり是にも垂駕用立たりこれハ
異船の廻へき一港等の見分なり扨菊地君の用人と川上氏の家
来と并比田某なるものとハ流死のよし菊地君の用人ハ実ハ君
の甥ニて其配偶も極りて取替せ迄済しよし其外あわれの死人
抔多かりけると聞へたり津浪の節に異人船覆へらんと右左り
傾き波に漂へバ両側にある大砲を其度々に左り右へと引移し
千辛万苦の働せし其時筒に敷倒され壱人即死のありしよし共
危急なる場合にて日本人流れしを余程助けし其中に老婆一人
流れ来て碇の繩に取付を引上け舟へ載せけるに最早性体なか
りしを温め抔し色々と介抱致し遣すゆへ命助かり帰りけれハ
辱なしと其後ハ異船へ向ひ日々に手を合せてぞおかむよし其
深切を聞ものハ皆々感服致けり下田表の人々ハ饑渇に及ふ場
合ゆへ川路中村両君より直様手当致されて救の米を出され御
奉行よりも命せられ救の小屋を建られけり夜も閑になりたれ
ハ何れも寝所に入此夜ハ持出す夜具蒲団にて暖に臥したりけ
るぞ有難き今日ハ娘の初月忌誰れにも語り知らさねと床の中
にて只独り袂を濡し夜もすから眠り兼而居る処へ少し地震の
致せしか夜明ケの頃と覚へたり
明れハ七日となりぬけふも晴たる景色なり例より少し早く起
き温泉あひて寒さを凌き帰り来りし折柄に用人共より達せし
ハ津波之節ハ骨折なり別して骨折なりしに軽少なから参らす
とて目録百疋賜ハりたり四時も過し比箕作宇田川来りたり興
斉津浪後初て逢ひ津浪之始末を物語り預り置し流(品脱カ)出致して気
之毒なり日々穿鑿致せ共今日迄さかし当らぬなり其余は昨日
箕作の語り事ニ類すれハ爰に言を省き置扨両人ハ御手当を金
拾両ヅゝそ拝領し川路の君よりハ羽織を壱枚ツゝ賜りし宿状
壱封興斉より差出し直様披きて見れハ平安なり去月廿日之朝
なりし因州侯の内長屋焼出したれと風もなく四半比にハ鎮る
よし其外別条なかりけり
七日も去りて八日になり今日ハ公の用向も閑なる様子ニ聞へ
けれバ箕作宇田川両人と流出の品物抔を穿鑿に下田へ参り尋
たく用人共まて申入レ五時の比宿を立出て中之瀬と云あたり
へ行し比折節雨降り出す雨装にて出たれは頓着なしと行程に
本郷村ニ至りたり先ツ七右衛門者の宅へ行阮甫興斉両人へ事
の子細を物語る両人共に悦ひて直に家来へ言付たり伴助佐助
早助と外壱人を召連れて稲田寺なる寺の脇谷の間へ流れ行潰
れて残る者の家尋て品を掘出せバ今日も其場へ趣ひて木柱取
除尋るに少し衣類を掘出せり時に早助悦喜の体しめた〳〵と
云たるが何をしめたと尋るに答もせすににこ〳〵と黒鯛壱枚
担来り悦事極なし此節調度昼時分宿より餉送りたり菜を忘れ
てめし斗何れも不平の体なりし幸早助得物あり此谷奥の民屋
へ携へ行て腹を抜き塩を致して持来り焚火に掛て焼きたりし
又壱人ハ此谷て菜漬をさかし持来る又壱人ハ桶を持泉を汲て
来りしが徳利のわれにて湯を湧し夫ゟ食事を始めたり是又苦
中の一興なり食事終りて雨も止ミ雨具を脱て身ハ軽し猶又砂
場を穿鑿す箕作所持の弁当箱宇田川秘蔵の地図一巻掘出たる
ぞ仕合なる小六か品ハ出もせず日も早や西に傾けハ今日は止
置重てと泥染たりし品々を一つに纏め召連し人に荷はせ立去
りぬ富士山越れハ道近し其山攀て本郷へ下れバ直に七右衛門
立寄り其由語りしニ両人大に悦び秘蔵の地図手に入しかバ興
斉ハ別けて悦極なし帰りを急く事なれハ又重てと言置て蓮台
寺村へ急きしに火とほ(も)し比に帰りたり先づ用人へ一礼し両人
よりの伝言も申おハりて次の間の同勤共へも挨拶す小六が声
の致せしを公はや聞れて逢わんとの御事なれハ側へ出て今日
の始末を語るにぞ又参れとの仰なり退き支度も取仕廻はなし
抔して居たりしに弐人語りて聞せしハ今日異船の大砲を陸へ
引上け居るを見物せしにバツテイラ壱艘に載せし大砲二挺ヅ
ゝ宇島と申処へ引上けけるぞ手際なる夜分になりて中村君来
られ側の御内談今日も異船へ参られし異人の噺しに申せしハ
昨夜山より火気上る火気洩れたれバ是からハ地震や津浪の変
なし御安心なさる様申たりとの咄なり又或人の申にハ昨夜飛
物致せしが飯程大きな玉なりと見た人はなしに聞しよし扨異
人より此方の御役々へと贈物荒増し聞に左の如し
阿部候(侯)へ時計付オルゴル 遠目鏡 ヱレキテル
筒井候(侯) 徳利 詳ナラサルユエ略ス
川路候(侯) 大鏡 劔 天球 地球 繻子手黒羅紗
村垣君 針箱 羅紗
古賀君 詳ならさるゆへ略す
中村君 蒸気車雛形 羅紗
森山氏 書物 羅紗
津浪に逢てよりはや五ケ日も過き今日は九日と云にそなりぬ
珍しく雨降りて四方の山々峯々に白雲掛り鬱々と最ともの淋
しき景色なり正九ツの時分より公ハ下田へ参らると触出しあ
り小六も供の順なるに内勤前田某が参り度しとの事なれバ替
りて留守を致したり扨昨日ハ大砲を陸へ上け方手際なり其仕
掛をバ見せんとて伊三郎と云へるもの大工の事にもあるなれ
バ中村君に従ひて今朝其場へ参りけり昼飯過にもなりし比物
淋しくもなりたれバ同勤中村某ニ誘ハれ湯場へ参り一浴終り
て帰んと前町辺を通りしか是まて菓子ハ見さりしに今日ハ町
家に珍らしく米の粉饅頭拵らへて商ひ居たる店あれバ立寄少
し手土産に調へ帰りて茶を煎し少し気鬱を散しけり津浪の後
ハ米穀も運送なけれハ村々にあり合米も食ひ尽し次第ニ払底
なりしゆへ御評議の上諸家共人数減少せられ御当家も其振合
に準せられ日勤八人申合両人ハ江戸へ帰るよふ用人ともより
沙汰あれバ心の中にハ帰り度思ひしものも出して申者もなし
其よし答て置たれバ小六を呼れて相談にケ様の余儀なき次第
なり帰りて不都合なる事ありやなしやと尋られ小六思案をめ
くらして不都合なけれハ御都合のよろしき様に致すへし御差
図次第に任せんと答を致して置けれバさらバ帰りて給はれよ
首途ハ明後十一日其用意をとの云付なれバ畏て承知せり帰と
なれバ名残惜ふも亦悦はし今壱人ハ森弁五郎と申人徒にてハ
吉田吉五郎其余ニ小者廿人これ等と共に帰るへし道中総ての
賄ハ信濃屋直吉致すよし日も夕暮ニ及ふ比公下田より帰られ
中村君も帰られたり伊三郎も帰りたり大砲上け方見て来り荒
増語りて聞せけり車の仕様ハ日本で致す仕方の様なれと何分
異人ハ一致して能く調ひて取扱ひ壱人無用なかりしを我国に
てハ百人も掛るものなら拾人ハ骨折其余ハ騒くなるへしそこ
が日本と相違なり車の仕掛ハ違ハぬよし夜分になりて中村君
其外役々来られたり異船の修覆に用ゆるとて釘を注文致せし
が其寸法の書付を横文字にて差出せり下田の変義の風聞のあ
るより直に御差図米二百五十俵積出し只今着船と上乗役より
届出す最早夜分の事なれバ明朝差図に及ふへし先ツ其儘に差
置けと差図致して置れたり上乗役の申にハ船ハ下田の沖合ニ
繫りて居れハ私ハ地理案内にあらされハ船に帰れハ夜半なり
今宵ハ此に一宿と申置てそ帰るよし最早此にも明日限り同勤
たちにも世話になる離別の酒を振廻ハん迚も珍味ハなけれと
も聊用意を致し置公寝られて其後に共ニ一樽傾てしハしの別
を惜けり
昨夜の酔に寝心もよかりし処を地震にてゆり起されて思ふに
ハ今の響ハ南より地鳴が致して来りたり此にハ少しのゆれな
れど遠の方ハ強かりなんとハ思へ共又眠りを催して夢打驚き
起きたれバはや東雲の頃なりし立出外の流レにて手洗口漱き
抔致して今日ハ十日なり最早此地もなこりなり朝より箕作宇
田川へ暇乞ニ参るべし公にも今日ハ六半の比より下田へ参ら
るよし折節江戸より箕作を尋て来る人ありといふにぞ小六出
迎て対面すれバ津の御藩廿二三の士なり箕作并同藩の安否ハ
いかんとあんしられ委しき様子も分らねバ過し七日の晩方ニ
江戸を発して今此へ来れるなりとの事なれバ何れも怪我ハな
きよしを荒増し語りて江戸ハいかかと尋るに猿若町ハ残なく
去ル四日焼失せり湯島に火事もありしかど阮甫宅ハ焼さるな
り外にハ変ることもなしと語り畢て本郷の箕作宿へと急き行
公へも其由言上す公其時にいはれしハ昨夜御用書到着し御懇
の 上意を蒙りて御羽織并ニ八丈島(ママ)賜りたるそありがたき為
弥ハ布衣より已下なれバ賜り等ハなかりしがあれほと骨折気
の毒なりそれに阮甫と興斉の家内のものより届もの慥に届け
申様書加へてぞ来なり米も着船致すなり此表にても救米をも
出たり是程迄ニ届事また知れさると見へたりと語れたりし其
中に供も揃へハ直様に下田表へ行れたり小六も夫より本郷へ
到りて阮甫興斉へ明日発足致すよし具に語るに両人ハ羨しく
ぞ申たり是ハ幸ひ好き序早介一人帰すへし度(ママ)連て帰りて貰ひ
たしと小六も承知せり最早時刻になりたれハ食事をせよと申
せとも小六ハ用意の握り飯携へ居れハ袂より取出しそれを食
して下田の土地の見納めにこれより徘徊致し且ハ異船の大砲
も陸へ上けたる様子なれハ見て帰らんと物語れハ両人も暫く
散歩も致さねハ幸天気もよろしき故同道せんと申ニより三人
共にゆるゆると津波の痕を見渡すニいまた其儘片付かず荒涼
たる景色なり福仙寺なる手前にて古賀君に出会たり此山の根
に人家あり一二軒程残りあり新田町のあたりに二三軒程残り
あり三丁目と申辺親舟壱艘流れ来て人家に接して大損し池の
丁辺通りし比天方来りて面会す中村君の供侍なり津波の後ハ
異船へハ供を致して参らずに海岸迄にて残るよし伊勢丁辺に
到りしに先生〳〵と呼ながら来る人あり医体なり阮甫興斉知
る人にて津波の様子を物語り彼の住む宅ハ海岸にて大工町と
申辺それ故波も一番に押上たれハ逃る間もなき程なれと漸や
くに逃出したれと我父ハ木柱抔の間にて危かりしが是も亦く
ぐり〳〵りて助かりたれとも半死半生の体ゆへ種々の手当し
命斗りハ助かれと今に居る身なるに服用致す薬なし今日始め
て人頼ミ三里も先へ薬種買遣す位の次第なり諸道具抔ハ蓙一
ツ残らず引れて仕廻たり叔父ハ今まて見当らぬと語り続て行
程に宇島の弁天と申処へ至りて見れハ五十二門の大砲を海の
方へ向け二行に成して押並べ其後へ台を並へて置てあり巣中
ハ蓋をし蠟を塗り火門も同しく蠟を塗る
廿四ポンド短筒
口径 五寸五分
長サ 七尺七寸 火帯まて六尺
〆十八門
廿四ポンド長筒
口径 五寸五分
長サ 火帯まて五尺トロイフまて一丈六寸
〆三十門
八十ポンド
口径 八寸五分
長サ 火帯まて九尺径り壱尺九寸
〆四門
筒を並へし其脇に蘆にて小屋を拵へて異人壱人内に居りかる
たを出し弄ひ日本かるたと申けり魯西亜のものと見へさるな
り燧を出して見せたればヲロシヤキセイトと申たり其方にて
も其の掛り番を致して居たりけり夫より跡へ立戻り海岸通り
を巡見す此節医者にハ別れたり海に沿て行程に洲崎と申処よ
り船にて渡しのありけるが爰には橋のある処流失せし故舟渡
し此を渡りて少し行く異人上陸衣類を洗濯致しシヤボンを用
ひて洗居るバンアイラ大損し大工集り修復せり松の丸木を引
割るもの板を削りて居るもの槖籥を据て銅鉄を鍛冶して居る
もの鋸の目立をするもあり様々なる様体を残らす覚へて帰り
度思へと手間も取るゆへ細工道具の其中を両三品程覚へたり
此を立去り少し行き小高き処に囲あり帆木綿様の類にて袋の
様に引纏ふてこにも異人集り居る又海岸を行程に柿崎村に至
りたり玉仙(ママ)寺といへるに至りて見れはアメリカの石塔三本建
てあり文字ハ更ニちんふんかん摺取たしと思へとも帰りを急
くことなれハ止め置元の道へ出又々異人上陸の其場へ戻り来
りしか異人の医者よしなるか興斉所持の三稜針を借り度由を
申にぞ出してそれに借したれハ異人の指の疵に立て膿血をし
ほり出しその三稜針を洗はせて又興斉へ返しけり小六も此節
手疵ありとがめてなやミ居たりしを興斉へ出して見すれバ差
したる事にハなきよしなり此こに久しくおるならバ面白き事
共数々あるへきなれと役人共の恐れあり且日も暮に及ひたれ
ハ残念なからも立去りて元の渡しを打越て定る路もなきゆへ
に足に任せて行程に本郷村に帰りけり直に暇を乞たれハ最早
別れの事なれハ送別せんと酒肴差出たるにそ留りたり津の藩
士来り居り賑々敷打寄りて酌かはしてそ居し折柄外の方にて
若旦那御着と申て騒ぎしが程なく奥へ入来る阮甫の悴秋坪な
り父を案思て来たり又跡よりハ常蔵と申男の来りたり是ハ秋
坪同道なり小六を尋ねて蓮台寺に至りて聞バ爰元に来り居る
との事ゆへ跡より後れて来りたり此常蔵ハ興斉と小六の宿よ
り差向けて安否を問との事なれハ具に子細を物語双方時(事)情も
能く分り嬉しかりける事共なり江戸と下田の物語混して益賑
々しく酔も次第ニ廻るゆへ帰りもおそくならぬ内名残ハ尽し
さらバとて暇を乞て立別る家来のものハ送り出村のはつれて
別れたり夫より早助召連れて蓮台寺へと急きしに今日ハ十日
の事なれハはや山の端へさし登る月ハくまなく冷へ渡り路も
はか行六ツ過に広台寺へ帰り先ヅ用人共に対面し一礼述へし
其時に明日出立致さるゆへ目録百疋賜るなり先刻木村へ渡し
置請取へしとの事なれハ謝して退き次の間へ行同勤へ挨拶畢
て側へ出公へ恩儀を厚く謝し次にてはなしを致し居る折節小
六を尋来る人のありしと告けしゆへ出迎ひ誰ぞと尋るに岡方
順助なるよしなり今度下田の危難により委しき様子も分らね
バ尋ニ参れと仰にて只今此に来れりと聞にうれしさ身ニあま
り斯まて君の御恩にぞ預る事かと身ニ染て覚へず感涙ニ及け
り箕作宇田川天方の在家ニ至りて同様に尋るなれバ其在家委
しく教へて下されと申ニ一々示し置江戸への伝言申置其儘直
ニ別レけり扨同勤と物語り今宵斗となるなれバ四方山はなし
致し居り覚へぬうちに夜も更けて公ハ寝所に入られたる其後
竊に送別の印をなさんと同勤が酒肴調へ待たれハ互ニ杯取替
し共に別を惜ミけり