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項目 内容
ID J1800320
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔浪後日乗苓両山房記〕早稲田大学図書館
本文
[未校訂]本郷邨
此主持 作佐本氏書用
嘉永七年甲寅の霜月四日は天気ことに晴朖なりけり今日大変
事有へしとハ後また思ひ合せたり八月去ル朔日は公儀より金
屛風蒔絵之書棚等数々魯細亜船に被下へしとて、魯細亜人行
烈(ママ)、正しく本船よりバツテーラ五・六艘ニ乗り来り、大河岸
より挙り了仙寺ニ至る、夫より使節ブーチヤチン・和蘭通詞
ポツセツト其外支那通詞書記役従者十人斗福泉寺に至り、応
接之事すみて夕刻帰る、二日は此方の御役人不残魯細亜船に
志(招待)をたいす、予も箕作先生に属して異舶江をもむく、九ツ半
時頃弁天より御用船二番ニ乗、即刻異舶乗る、予か小舟の舶
に近く頃種々の小旗ヲ上ケ、三本の檣はり出し共、帆けた三
段ニマタロス上り、手をひらき末に立て我人々の乗船ヲ待
つ、舶に上れハ音楽ヲなす、夫々御役人ヲ一段・二段・三段
の客房江請し、色々の酒肴出してもてなしけり、川路公初メ
二段なり、御普請役其外は上段なり、箕作先生初メハ三段目
なり、予も異舶へ入は初メてなりけれハ、上下見廻けり誠に
筆にも儘(ママ)兼れバ気(記憶)をくなすより外なし、エキセルシチー・音
楽・うつしゑなど有り、夕刻旅宿江帰る、八ツ時頃予か舶上
りて見る、大嶋の方に当りテおそろしき光出雷の如き声へ聞
へける、余之人々ハ心附ぬ様子なりしか、是そ変事の前誂(ママ)な
りし、三日は魯細亜の応接有り、今日よりは去年の掛合の未
ヲ相談なすとなり、予も応接所行夕刻帰る、四日は朝はよく
晴渡りて殊に暖なりけるに、人々業にかゝりて有けるに、五
ツ半時とも思し頃地震ゆり出たり、予も机に掛り有けるか、
人々と共に大小太刀ヲ取持、外の方江馳り出たり、家々今に
も披(破)れんとなしけるに追々静まりけれハ、茂(ママ)早さしたる事な
きと思ひけるに、浦の方より人々声を立テ津浪よ〳〵と云て
馳り来りける、初のほどハ仮言なりと思ひけるに、家主の男
女しきりに出而逃よと云に、予も馳出て半町斗行て観れバ早
後に大浪来りける
(中略)
下田記行
(頭注)
「米魯西亜人遠見之事此辺に入る」
(頭注)
「○をどりは下田ニ而足をどりと言て足をける様な事をし
又さかだちになりなどス」
寅十月
○十九日江戸出向、廿三日下田着.坂下町大黒屋へ宿、同廿
四日新田丁西川久蔵江移る月日(ママ)□魯西亜船下田江入る、我
等下田着之頃は日々市中江徘徊ス、或日外の方さわかしく
大鼓の音きこへけるに、いそき立出けるに、魯西亜上官
四・五人行き、次にマタロス一人さ(ママ、おカ)どり、其後より平らた
き大鼓を挙ケて打ち、立笛を吹き、哥をうたいて来る、後
より三・四十人追々に遊ひ打連て行ける、可様の事日々有
り、又彼の諸職の異人は畳・鍛治屋・石屋等見当り次第其
家江入て拭(試カ)ミなどす
○十一月朔日初めての応接にて魯西亜人上陸ス、其様子朝四
ツ時本船よりバツテーラ四艘下し、下田大岸と申処江舟を
つける内、白き舟壱艘はプーチヤチンの乗たる舟之使節の
旗を立てたり、岸よりへ先「ソルダート」一「ペレトン」
「コンマンド」一人、次ニ楽人十三・四人、次ニ使節之旗、
次ニ「プーチヤチン」、次ニ「ポセツト」・「ガスケウイチ」
両人並ぶ、次ニ書記役其外士官之者十四・五人程だいごを
立て坂下町了仙寺江入ル、此寺にて「ソルダート」楽人旗
等を置き、使節「プーチヤチン」、漢通詞「ガスケウイチ」、
和蘭通詞「ポツセツト」、書役「ペーローフ」其外「ソルダ
ート」マタロス四・五人にて冨士山の麓福泉寺へ来る、夕
刻帰る
○二日ハ御役人方不残魯西亜船へ御出有る、四ツ時頃下田弁
天より壱番・弐番より八番まて之御用船出る、浦賀の中黒
の印を立つ、川路公・筒井・伊沢・松本・古賀等ハ浦賀よ
り廻りたる赤塗りの船ニ御船印ヲ立て、紫の御文の幕を張
る、船岸をはなるゝと異船ニて半鐘を四ツ打と同時、中檣
へ色々旗五・六十流し引上ケ船中頃至る時、又々半鐘四ツ
打と楽人やぐらの上ニて楽を奏す、船異船へ近づくと「マ
タロース」三本の帆柱へかけ上り、三段の帆げた毎両手を
ひろげ立並ぶ、御役人異船へ御上り之時、三段のソルダ
ード前向きになる、夫より御役人方夫々上中下の房々江御
入りなり、其後小筒調練・大筒調練有り、うつ(し、欠カ)ゑは魯西亜
の都之図等なり、部屋〳〵ハ色々にかさり額花等いけ、中
ニ大なる机出色々酒肴をのせて馳走す廻りに腰しをかけて
食すあり、船の中にて珍物を見たり「ドイグルスゲレー
ル」と云ふ、此器は水中に入りてはたらく物なり形ち物ハ
白き革にて頭丸く大きく、ギヤマンの窓三ツ有、手足を包
……腰しと踏の裏に鉛の重り有り、頭に繩をつけ海中へをろ
す、別にいとを為す管有るなり、便利の器と見ゆ。八ツ時
頃我れ船の甲板の上へ出でたるに、新島之方へ当り遠沖に
て黒雲中より電さし、大筒を海中にて打たる様なる音一ツ
きこゆ、後に思に此の天変ハ津浪の前兆なり、日没して帰

○三日早朝より福泉寺にて応接ある今日より掛合始るよし、
異人の行列等前の如し
○四日終日晴ろうなり、箕作・宇田川、早朝より御用之訳に
かゝる、我も同じ、御用之図を引て有り、五ツ半時少し前
地震ゆり出し、追々強くなり、二階に居兼る程故、さし替
への大小之刀を袋のまゝとり、片手にかけさほの羽織を
取、外方へ出るに、市中不残さわぎ立、外方へかけ出ス、
やかて近辺之土蔵・かべなど落来り、家々は斜になる程な
り、瓦の落るなどは言ばかりなし、小半時斗ニて少しやわ
らきたるに、海辺の方さわかしくなり、津浪〳〵言て人之
群り、山の方へかけ行、例之盗人の為すわざと落付居た
るに、旅宿夫婦志きりに背をつき早くにけ可と云てやまざ
る故、町のはづれまでにげ行き、かへ里見れバ早や湊に有
りける大船共岡の上へ流れ入にをどろき、真事なりと思に
まかせて、冨士山の方にけ行に、先へ牛二疋引て行きにげ
行人の障になる故、我れ後より声をかけ、牛を田の中へ引
入れずはきりすつるぞと言て、刀の柄へ手をかければよを
やくにして道ひらけぬ、やがて田の中へとび入り、冨士山
へ取付頃は足元へ浪之来れり、我か一群の十一人は不残集
りて冨士山の頂へ上り、初て皆々落付しに、殊に寒けれ
バ、火をたくべしと云に、十一人の腰をさくるに火打道具
たゞ一ツ在るを取出し、落葉をひろい火をたきつけたる
に、誠ニ人々立のまゝあり其時酒樽一ツ流レ来るを取上
ケ、古きつるべに入山の上へ持来るを人〻少しツゝ呑て咽
をぬらし亀蔵と云ふ者麓へ下り水をもとむるニなし、山上
より市中の見ゆる所に至り見るに、一の浪少しかるくて海
辺の市一かわ斗流れたりる(ママ)、二の大浪来り下田市中一宇も
不残流しつくす、其さま砂烟りを立てすま(ママ)じきをとにて、
片端しより席(ママ、蓆カ)を巻く如く来り、湊之内に泊したる大船は木
葉のちる様に所々方々に散り、流レ、或ハ畑の上へ、或ハ
谷の間へ入り、又引浪に沖の方へ出るも有り、小舟ハめに
も掛らず山々へにけ上りたる人々は親を失ひ子をたづね、
又我か家の流るゝを見てなきさけぶ声すさまじくあハれに
聞へける、湊の内に有ける魯西亜船は大浪来るとやかて沖
のミさご島の内ち武山の麓の方へ流れ入り、今にも岩に当
りて砕くるかと見へ、又は木の葉の風に舞様にくる〳〵と
めくり、或は帆柱料(ママ斜か)になりて既にくつかへ(ママ)と見へ、其漂は
くさまきわむへからず、下田の町はたゞ一浪に流れ失セ、
後より来る浪はたゝ干(ママ)方を潮のさし引する様なり、狂浪の
(頭注)
「魯西亜船
此位に
たをる
 」
来るハ絵にかける浪の様にさかまきてきたるにあらず、次
第ニ高くなりて来る其高サはしかと見留る間もなけれど
も、大方斗り見るに、湊の内に沖のミさご・地のミさごと
て二ツの島あり、其沖のミさごは岩山ニてか様形ニ
て頂きに森有り、高サは十丈斗ニ見ゆ、浪来る時は其嶋の
三分の二ハかくれたり、引時は湊の内十五・六尋の深さの
処干方となりて海中の岩なとよく見へたり、又泥浪之内に
銀の砂子をふりたる様海岸より、浪之行処まで一面に見へ
けるが、後にて思ひ合すれバ、大魚の泥によひ浪にうたれ
て浮きたるなりかくて山上に有りける烟か□服ふりたる冨
士山ハ常は人上らぬ山なれバ水もなく食物はもとよりな
し、△(ママ)△ぬるに人々うへしにセンかたなし、我れ勘太郎と
云小者を伴ひ山をくたり見るに、市中はもとより近所の民
家も不残流レ失セ、たま〳〵残りたるも中々食物の有るべ
き様にもなし、麓に昨日まで魯西亜の応接所になりて有り
ける福泉寺と云寺に、岩をつたへ、樹を乗り越へ、本堂へ
上り入らんと為るに、雨戸しまりて有を漸々こじはなし入
るに、食物様のものさらになし、くり方へ行に浪之入りた
りと見へて、床の上へ泥壱尺斗り上り、台所の大戸の内に
四五間斗の芳(ママ)屋根流入りて有り在るを漸々歩……食物をさが
すに、戸棚を見付ケ明けて見れバ、飯櫃二ツ有、蓋ヲ取り
て見れば二ツ共飯半分有るにうれしく思ひ持ち去らんとセ
し時、寺僧来りて其飯取去ば此寺の者どもうゆるなり、な
らん〳〵と言に、我等もうへてこそ是を持去ルなれさらバ
一つの櫃を給ふべしとてからくしてこいうけ、余の物うつ
し下部に背をわせ、又山上に水なくて人々くるしむにより
水少し持上らんと近所をもとむるになし、かくする内又
々大浪来るとわめく声へ(ママ)聞へける故、裏の方へ出、岩山つ
たへに山に登るに、途中に逃登り居る人々、下部の包を背
をひたるを見て、食物ならばくれと人毎に云へとも中々分
けあたゆる程もなし、其中ニ三ツ斗の小児と十三・四之女
子と母親三人ニて有りけるが、袖にすがりて余之者ハうへ
をしのびて有べけれども、小児先刻より食物を乞ふにセん
かたなし。御慈悲たゞ一にきり給ふへしと云ふに、小児の
なくさま見るに不(ママ)便に思ひたゞ一にきりをあたへ、山上に
登り、我等も各々食しける、此近辺之僧群集の中に交りて
有けるか、其飯を少し賜ふべしと乞にいなむ事も叶ハで、
あたへけるに多分取分ける、我れ見てさ様に多く取りては
余の者之食くたらずと云ふを耳にも入れず持行て、頂上に
逃上な□(ムシ)、群集の内に小児斗へあたへて己れハ食セずして
在を見て心に恥じける、かくて七ツ下りに成るに、此上に
てはセん方なし、里在る方へ行べしとて見下すに、山の麓
は皆水にて行方なし、たゞ西東の方山つゝきにて里の見へ
ける故、さらバ此方へ下りよとて皆々下り掛り、見るに誠
にさかしく大岩なと所々在て、木立ひまなし、されども下
りでは叶□(ヨゴレ)事なれバ、藤かつらに取木の枝をよじてからく
して麓に下る行付き、本郷村名主権兵衛方へ至り、初而人
心ち付けるに、夕七半時頃なり、初めより大浪ハ十四・五
度も来るよしニて、次第ニよわくなり、此時刻はかるくな
る故、我か群の皆々無事なるを夫々につけんとて、山の腰
しをつたいくずれたる家を乗越へ、漸く下田ニ至りて日暮
て後帰る
○川路・筒井・伊沢・松本等皆寺々旅宿ニて、市中よりハ少
し高けれバ、狂浪之難なし、中にはくりの方流れたるも有
り、されども皆山へ立のきニて、幕を打ち、其夜は野陣ニ
て明されしよし、其外市中に旅宿の人々は皆我等と同様な

○夕七ツ時頃は浪少しかるくなる、魯西亜使節プー(ママ)チヤチ
ン・和蘭通詞ポツセツト(ママ)」、医師外料(ママ科カ)其外四・五人上陸
し、川路・筒井之居る所へ見舞に来り、プーチヤチン申
は、此大変にて定而怪我人等も多く可有ニ付、医師外料(ママ)其
外用立可申者共連来候間無遠慮用ひ候様との事なり、誠に
行届し者也、其時此方の人通詞ポツセツト」(ママ)に、此如き大
変に出合し事有哉と尋ねしに、ポツセツト云、プーチヤチ
ンは外国へ航海せし事二十六年、我は十八年なり、然ルに
如斯変事ニ出合し事此度初而なりと云ふ、又問如斯き大変
出来の前何歟前兆有し哉と問、ポツセツト云ふは少しも前
兆なし、津浪来る少し前海中大渦巻き出来し故、定而大な
る変事出来と思ひ、船の甲盤の上に大鎖りをはり、船中之
者不残其鎖に取つき居たるに、間もなく津浪来り、船を流
し大岩へ当る斗りなりしか、三尺斗手前にて引浪に流レ出
シタリ、又凡来る浪ミにも前の如くなりしか、六尺斗手前
にて引出れたり、其外船廻り或は漂ひしが浪を横にうけて
船半分倒よろふなり、既にくつかへる斗なりしか、柁と竜
骨をれて直になりたり、其時船中之者不思帽子を取り不残
天を拝せしと云ふ、左も有るへじ
(ママ)○下田同心今西孝蔵と云ふ者津浪少々静まりたる頃、下田市
中不残海浜となるを見て、此さまにては市中は飢事を察
し、浪をくゝり早々山ヲ越て隣村なる本郷村の庄屋の方へ
至り、近郷五里四方へ白米玄米共有合之分早々持来るべ
し、高値ニて御買上ケになるよし振(ママ)れヲ出し、焚出しなし
所〻の山々辻(カ)々江紙のぼりを立て、本郷村の名主江来ると
飯をくわせるぞと云ふ紙のぼりを立てたり、是ニ而下田市
中之者壱人も飢る者なし、大功と云ふべし
○御役人の家来某なる者主人の留主をあづかり旅亭ニ在りけ
る所へ浪(ママ)津来るに、旅亭の婆々女房と共に倉の屋根へ上り
たるに、はや浪にゆられて、たちまち倉くづれたり、其身
は兼而む称へまたかり居り、旅亭之者共は其下の方に在り
而屋根両つに分れ、目前に両人ハ浪中へ落てけり、其身ハ
はりに乗り在りけるに、沖の方へ四度まで引出されたる
に、うんよく榎の下に流れ付に、其枝へとりつき上りて助
かりしとそ、我も知る人ニてしたしく聞ける
○豆州は有名の石を出スの地なり、去るによりすべて家々の
出(ママ土カ)台・石橋等は言ふにをよばず土蔵の腰し台等廻り・なが
し、其外雪隠・かき、すへふろに至るまでミな大石ヲ用ゆ
るなり、津浪の時其石どもみな流して、浜の方は四・五町
の間少しも石なし、四尺五尺と云ふ大石の山の方へ弐・三
町も流レよりしも有りける、真事に津浪の勢ひしるべし
○津浪の後は日々下田へ出て流失なしける書物、其外大切の
者少しは取上る事も有るべきかと、稲田寺のわたり又冨士
山の麓なるしきねのほらと云ふを人々手わけしてさかしあ
りしに、二日目に稲田寺の辺にて我が物のはしを少し見出
したり(ママ)り、此に流レよりたりとてうちより出さんとする、
数百の家も蔵・諸道具ハさらになり、大木・大石あるとあ
らゆる者一所に流レより山の如くなり、掘出さんとするに
なに一ツ道具もなし、いかゞわセんと人々ためらいて有り
けるが、かくてわセんかたなし段々取りのけよとて
(以下欠)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 775
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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