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項目 内容
ID J1800314
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔阮甫〕は類焼いたし候哉に相聞く。水火のたたり、扨々気
本文
[未校訂]の毒也。○九ツ時〔正午〕頃、船便昨日御届きの由にて来
る。江戸の地震、いろ〳〵と申居り候処、委細相分る。御両
親様御別条在らせられず、おさと御介抱も相替らずの事なが
ら、行届き候様子、大慶。おさと持(注二)病案事居り候処、起き候
由に候得[共|したため]、認ものも出来候由、安心。孫共無事、是又安心
也。○今日初て並の白米の飯を給ぶ。シユンケイ塗の[飯櫃|めしびつ]を
みる。今朝迄は桶等へ入れ、家来も主人も同じ桶とみゆ。○
下田の町、盗賊夥し。御勘定方、其外の衣類、泥沙の内より
出るに、多くは紋附也。具足櫃も、金あるかたは出ずという
類、[挙|あげ]て数うべからず。我故に、此騒動をみるや否、早々御
固の大名の家来と、下田組のものとを合せて、[〆|しま]り〳〵へ人
を出し、これを改め、其外、町町をよく見廻らせて、盗人を
召捕えたしといいたれど、組のもの、子供の如きを合せて十
人、其上盗賊を召捕え候ても、跡にて仕かたなしなど云う類
か、奉行一向に身に染まず、其姑息甚し。江戸にても、大
火・大地震有らば、用人共等よく心得べし。公儀にても、町
奉行其外へ、厳敷く仰付られ候て、然るべきもの也。

一 江川太郎左衛門英竜。担庵と号す。伊豆国韮山代官。
また勘定吟味役格で、海防掛を兼ねた。兵学者・砲術
家として著名で、聖謨も一時師事したことがあり、以
来昵懇の間柄。
二 聖謨が「ゲロ〳〵」と呼ぶ、嘔吐を催す病気。佐登子
は生涯この持病に苦しんだ。「この女、けろけろ、奇
病也……胎内妙合の時よりある病なるべし。それ故
に、薬もきかず。死するかとおもうばかりに煩いて
も、即座に平癒して、つかれず。一滴の薬を用いずし
て直る」(『寧府紀事』)。
十一月九日 くもり、又雨
下田より流失残のつかり桶をもち来りて、今日初てゆあみい
たし申し候。御てらの客殿の[椽頰|えんがわ]也。○魯人より、一昨夜伊
豆の山より火気上昇したり、もはや地震・つなみの気遣はな
し、と申来る。御安心成さるべしとの事也。これは西洋の説
に、元来地震というものは、地中に有る火気の動く也と申す
也(硫黄の気と申し候)。夫故に、火気もれて上昇したれば、
地震なしと察したるなるべし。其夜光り物の飛びたるは、土
地の人もみたるよし也。○つなみ後、はじめて[浴|ゆあみ]してみれ
ば、手足に小疵殊の外多し。みな山へ上るとき、いばらに破
られたる也。家来みな同じ。○浴して、客殿の椽にある鳥の
糞、おのずから洗わるるをみて、
板敷は浴みながらに洗われて
中々清くなれるふるでら
○女などの奇麗ずきに、此節のことみせたし。畢竟、恐れ乍
ら東照宮はじめ奉り、この百万倍の事に逢わせられて、天下
を治め玉える也。それをしらず、宮嬪《ゴ(傍注)テン女中》立派。
憎むべき事也。
十日 晴
御めぐみの御金・御米来(注一)る。魯人はや知りて、食料のこと申
越したり(注二)。下田は葬るに土かたければ、土をかけ置く也。故
に冬ながら臭気有り。○よめの死骸は、孫を抱きしめながら
死して、手を離れず。[夫|それ]を泣く〳〵老人の土を穿ちて、漸く
に死骸をかくすなど、憐むべきものかぎり也。昨夜もつよき
地震二度也。○遠州の方を見せに遣し候御普請役より、吉原
宿よりみちふたがりて、旅行のならぬよし申し参る。あたみ
の湯場は、五日に大地震にて、湯の穴より火を吹出し、地形
変じ、村落みな崩れたるよしに付、内々心得として、伝一郎
差遣す。○きよう、村々にて濡衣類を乾し居るをみて、
わたつ海の浪かけ衣家ごとに
干せどかわかぬ袂ならまし
○去る五日、あたみの温泉より火を吹出し、其上地震にて、
変地いたし、湯場潰れ候由也〈此(頭書)こと偽の段、追て相分る〉。
○富塚順作来る。しかるに、面談のひまなし。臥り候節、漸
く江戸の様子承り候。

一 「今日、都〔江戸〕より運べる米一千五百石、及び金
二千両到斉す。災民を[贍|にぎ]わすなり。衆議し、壊甚しき
者の戸三方、次の者二方。中村建議し、死者は名毎に
銭一貫を給い、[埋瘞|まいえい]の資と為す」(『古賀西使続記』十
一月十日条)。
二 「魯人共、右船♠入にて、貯えのパン多分に相損し、
食料至て乏敷く相成り、この上十日も相立候得ば、殆
んど食料も相[竭|つ]き候に付、小麦の粉多分に買受け申し
度く候間、然るべく御用意下され候様相願い候」(『豆
州下田港魯西亜船』所収十一月十一日付、露使応接掛
書状)。ちなみに、露国側の食料要求量は、デイアナ
号修復日数を四カ月と考慮して、たとえば白米三百五
十俵、小麦粉二百五十俵ほど。これは幕府の許可を経
たのち、十六日以降に逐次支給された。
十一日 晴
昨日、御用状来る。然るに、伊勢守殿御直河内守へ御渡し、
十一月八日の御書付に、下田表地震・津波等容易ならざる天
災の処、何れも怪我もこれ無き段御聴に達し、先ずは御安心
遊ばされ候。併し不意の災患、難義為るべしと思召され候。
これに依り、出格の訳を以て、御内々拝領物これを仰付らる
とこれ有り候て、筒井肥前守・自分へ羽織并に八分縞三反、
伊沢美作守・都筑駿河守へ同断、松平十郎兵衛・村垣与三
郎・古賀謹一郎へ同断二反これを下さる。先ずは御安心遊ば
さるとの御事、落涙いたし、有難く候。
十三日 晴
柿崎村玉泉寺にて、魯人と応接いたす。ここも村方はつなみ
にて、家居大に損じたり。魯船のかかり居る海岸を通る。帆
ばしら其外に、番人居るけしき厳重也。
十一月十九日晴、風
昨夜江戸御用状にて、摂・泉其外大つなみ・地震、四国、伊
勢・志摩弐国も同断の由。驚入る。此末のこと、御勝手其外
の義心配、寝られ申さず候。○蓮台寺村は九十九石の山村也。
しかるに、左衛門尉はじめ、支配向迄俄に引越したれば、米
さえに食べ尽したり。此節がら、売所なし。幸いに公儀より
の御廻米にて、米は差支なし。右に付、厳敷き所[有合|ありあわせ]にて、
一菜限の令を下したり。きよう昼は、しわんぼうの[名折|なおれ]より
小なるあぶらげ只一切に、[菜|な]のひらにて、汁なし。夜食はゴ
モク鮨[計|ばかり]にて、めしも、汁も、ひらもなし。其鮨、サンマを
焼き、人参を切りこみたるもの也。何分食うべからず。より
て、頼みて、ひやめしの茶づけにて仕舞なり。宅にて太郎・
市三郎等、此ことをおもいて、食味のこというべからず。
廿日 くもり
日本所々、地震・つなみのこと、魯人ポシエツトというもの
に咄したるに、かかるときは、又しもあるもの也、油断なら
ず、と申したり。しかるに、十八日夜九ツ時〔午前零時〕頃
に、大砲にても打払いたるがごとき音、遠く聞えて、家よほ
ど動きたり。菊池大助は、九ツ半時〔午前一時〕頃にて、打
臥したるが、驚き起きたると申す也。いず方に、又しも天災
はあらずや。蘭医元圃〔阮甫〕の説に、西洋の新説にては、
地震・雷共に、エレキテルの気の動く也。よりて至て深き穴
をうがち、夫へ銕鎖を下ぐれば、地震は其所にとどまり、雷
は屋上よりくさりをはれば、もれても、くさりを伝い落て、
人を害せざるよし也。
安政元年十一月
廿六日 雨
魯船、いまだ出帆ならず。かじの補いに繩を下げ、夫へから
樽を結び附けたるよし。大綱を以て船を巻き候由。この体に
ては、いかに思うとも、大洋は乗られぬなるべし。○魯船よ
り、出帆いたす上はフレガツト船へ招くこともならずとて、
筒井と自分へ花毛氈を一枚くれたり(一畳敷ばかり也)。
(中略)
異船今辰ノ刻〔午前八時〕出帆いたし候旨申来る。
○戸田へ遣し候支配向より、昨九ツ時、同村暫時ながら大地
震、山より大石落ち、牛并に人死したるよし申来る。昨夜、
二度地震有りけれど、右の地震はしらず。十七里を隔てたる
場所也。
十二月朔日 晴
異船事、故無く候得ば今日は帰府、[御目見|おめみえ]もいたし候積りの
処、十一月四日のつなみ、又々今般の難船にて、中々一寸の
事には参らず。今日の体にては、年内の帰府に候わば大出来
也。
ほどもなく春は帰ると聞きながら
果しもしらぬ旅寐するかな
異人、中村為弥へ、魯人の不運、夫に付御かかりの御人々も
御不運とも申すべき哉、段々御帰り遅く相成り、恐入り候旨
申越す。○夜四ツ半時〔午後十一時〕江川太郎左衛門より急
状来る。魯西亜船、原と吉原との間にて破(注一)船に及び、異人胴
を繩にてくくり、一人ヅツ水中へ飛込み候を、大繩にて引揚
げ、助命いたし候旨申来る。右に付、即刻寄合とも存じ候得
共、旅宿差隔り候に付、支配向一同・御徒目付・吟味方等呼
寄せ申談じ、夫々取計方差図に及び、即刻中村為弥出立いた
させ申し候。羅紗并にモンパの衣類五百人前下されず候ては
相成る間敷き旨、江戸へ申遣(注二)す。江戸にてもかかる騒はある
まじ。只有難きは、日本の[手抜|てぬかり]少もなし。そこは大悦也。
いかにせんこと国船のいとまなみ
よるひるかけて立騒ぐ也
これはいかにといえば、みな大に笑い申し候。[下手|へた]歌も、か
かる時の一興也。歌の[序|ついで]にしるす。村垣与三郎新規召出さ(注三)れ
候時、父左太夫範行のうた、
きようかかるめぐみの露をわけ初めて
[事|ツカ]うるみちに身をなおもいそ
此節、筒井の述懐、
中々に命なくばとおもいけり
わが身ならざる身をば忘れて

一 デイアナ号が坐礁したのは二十七日の午後八時頃。二
十六日夕方から吹き始めた烈しい東風のため海上大
[時化|しけ]となり、操舵の自由を失い、駿河湾上を二日間も
翻弄された挙句のことで、正確な坐礁地点は、駿河国
富士郡宮島村三軒屋浜の沖百メートル。
「風は依然として静まらず、浪は愈々以てフレガート
を弱体化させるばかりであつた。即ち、漏水がひどく
なつて、やがて四〇吋に達し、船底部まで浸水する場
合を予想して乗組員救助手段を講じなければならなか
つた。日没前に漕艇吊索から一隻の十丁撓カツターが
下ろされてフレガートを曳航し、激浪を乗超えて航行
した。そして集つてきた日本人達の援助によつて海岸
へ曳揚げられた。最後に七人乗快走艇が派遣され、そ
の乗組員達は救助されたが、しかし快走艇の方は非常
な苦心の末に海岸へ曳揚げられた。このため、地震の
際に負傷して吊床に臥していた二名の遭難者の運搬が
予定されていたが、翌朝まで延期となつた」(高野明訳
『一八五四年の下田湾におけるフレガツト・デイアー
ナ号の遭難』)。
二 「先ず厚く御手当行届き候様、取計い申すべし。附て
は、使節布恬廷その外の衣類等大濡れにて、寒気凌ぎ
難き様に候わば、差し懸り候儀は、如何様とも一両日
は取計い申すべく候得ども、その余は公儀より相当に
御手当これなく候ては、後日外国への聞え其の外共、
御国威に拘り候間、その節はずかしからざる様にこれ
なく候ては相成らず候間、たとえば、使節并びに上官
のもの四十人計りの衣類は羅紗、下官は染モンパ等に
て、衣類下され候様にこれなく候ては相成らず……天
災にて、格外の手数御入用等は相懸り候得共、始末に
寄り、公儀の御仁恵に異人共相なつき候も、此の節に
御座候間、右の御含にて御同意に候わば、然るべく御
取計い、伊勢守殿へも御聴に入れられ下さるべく候」
(『豆州下田港魯西亜船』所収、十二月朔日付、勘定奉
行宛て聖謨・村垣与三郎連署書状)。
三 「天保二辛卯年七月十八日、孫二男にて新規召出さ
れ、小十人格仰せ付けらる。御広敷へ罷り出で、御天
守台下御庭番相勤むべし。これに依り勤め候内、御扶
持方二十人扶持下し置かる旨、躑躅間に於て大久保加
賀守〔忠真、老中〕殿仰せ渡さる」(『村垣範正履歴明
細書』)。村垣十九歳の時。
三日 晴、風
魯船フレガツト[弥水|いよいよ]船となりて、上川伝一郎、漁師・廻船等
をあつめ(原と吉原の間の浜也)、[戸田|へだ]へ引きよせ候積り、世
話をやく始末申聞ける。其勢い、勇気勃々別段にて、且つ行
届きたり。伝一郎は五十日野宿して、カラフト百五十里の分
見ン図を作り、スメレン・ヲロツコなどいう夷に逢て、対話
いたし帰りたる男也。今度の働、さてもこころよし。○今般
の御用には、天変によりて、却ておもうこと、いすかのはし
となる也。いたし方なき事也。さて、御入用も夥し。しか
し、日本の[手抜|てぬかり]は少もなし。○中村為弥参り候時は申すに及
ばず、昨日一寸菊池大助を遣し候(注一)ても、酒食を異人方にて出
す也。右故、余義無く、右の挨拶として、粕漬并に重詰を、
田村与助使者にて遣したるに、ポシエツト罷出で、相招き候
得共分らず(両手にて、水をかくがごときことをなしたり)
候処、手を取りて部やへ通し、椅子によらしめて、親指を出
し、アリガトウ、ヨロシク〳〵と申したるよし也。与助の
体、いかに有りけん。樽をみて、サケカ〳〵と申しける故、
漬物の手まねいたしみせたれば、直に開きて、さじを出し、
取出し味い見て、喜び候由。

一 「今朝、菊池大助を玉泉寺へ遣わし、本船破船、使節
始め別条無く上陸の段、急注進これあり候間、為弥急
出立いたし、手の届き候丈は、不自由なき様取計らせ
候段、尤もポツシートにも参り度くば、附添のもの差
し出し申すべき旨、肥前守・左衛門尉口達の趣、ポツ
シートへ大助相達し候」(『村垣日記』十二月二日条)。
四日 晴
今日は、つなみの初忌日とて、人々恐れ候得共、何事もなし
(われ奉行なれば、寺院へ申しさとし、今日下田の浜にてセ
ガキをする也)。 ○一昨日、魯船フレガツト、駿州江之(注一)浦と
申し候所にて、牽船にて参り候節、大風に相成り、ほばしら
も相見えざる迄に沈(注二)船に及び、使節其外上陸、恙無き旨等、
夜をかけ候て、櫛の歯を引くが如くなる注進来る。右に付、
役々寄合等いたす。され共、此末の見込、いまだいずれも空
論也。此体にては、帰りも遅く相成るべく候。

一 いま静岡県沼津市。伊豆西海岸の小漁港。当時は貢米
回漕船の寄港地でもあつた。
二 デイアナ号が沈没したのは、十二月二日の午後二時
頃。プチヤーチンが提案して、漁船を駆り集めて戸田
港に牽引中のこと。「日本人達は事実、港に百艘に及
ぶ小舟を寄集めてきて風の凪いだところでフレガート
の曳行に着手した。フレガートの内部は船室甲板の三
分の一の高さまで水が上つていた。三時間に亘つて、
彼等はフレガートを約五哩ほど曳航したので、私は成
功の見通しをつけ始めた。ところが、突然、全く驚い
たことには、且つ何の理由もなしに、日本の小舟が不
意にフレガートを置去りにしたまま目的地の方へ進む
のを目撃した。彼等を引留める術は皆無であつた。し
かし、やがて彼等の不意打の原因が判明した。十分ほ
ど後に、南から我々に追ついてきた驟雨は、忽ち強い
大浪を捲起し、小舟に乗つていた我々は苦心の末一片
の帆を頼みに、江の浦港の方へ退避することが出来
た。風はフレガートを逆の方向へ押進め、元の位置に
進んだ。間もなく、我々は、巨浪によつて顚覆させら
れ、海上に船腹の上部が裂けたフレガートを目撃し
た」(『一八五四年の下田湾におけるフレガート・デイ
アーナ号の遭難』)。江の浦に上陸したプチヤーチン以
下露人三十人は、当夜は附近の寺院に一泊し、翌朝宮
島村に戻つた。
六日 晴、風
昨夜もよほどの地震也。
(安政元年十二月)
九日 晴
円融帝の天延三年八月より、貞元二年二月迄、十九カ月の
間、天変地妖。天延三年秋八月、彗星東北にみゆ。空中怪異
あり。貞元々年四月、大地震。五月、禁中出火。京師及び近
江、大地震。死者甚多し。秋七月、雪ふる。六月より七月ま
で、屢地震。九月、大地震。二年春、大地震。○筒井肥前よ
り詩を寄せたり。其[韵|いん]を和して、
[潞公矍鑠|ろこうかくしやく]として驕夷を服す
説破す神機[妙宜|みようよろ]しきを得たり
[鳳闕方今将|ほうけつはうこんまさ]に再び築かんとす
君を[麟閣|りんかく]に画くは是れ其の時なり
十二月廿九日 晴
修善寺のドツコ湯の前を通る……夫を過て戸田峠にかゝる、
三里の上り也、四方に石多き山なるに、この頃の大震にて、
小家位の石、所々に落これ有り候て、其節のおそろしさいう
べからず。夫より五十町の下り、さながら屛風を立てたるが
ごとし。こゝは谷の埋りたる所、道の潰れたる所あり、みな
地震也。
(安政二年)二月十二日終日風雨
○九ツ時〔午後零時〕過よほどの地震也
十四日 晴
○江戸より御普請役来る、十二日の地震はよほど也と申す
也。
(安政二年)三月十一日 くもり午後より雨
○三島の本陣は地震後初て旅客を引受け候由をいう也、普請
は新になれど、土蔵は骨ばかり也地震の時は竹籔へ逃行きた
るに、途中地われて、水を吹出したるよし等かたる、いとあ
われなる体也。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 752
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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