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項目 内容
ID J1800313
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔下田日記〕S43・10・10川路聖謨・平凡社
本文
[未校訂](安政元年十一月)
四日 晴
今暁九ツ半時〔午前一時〕より[書物|かきもの]いたし、[明|あけ]六ツ時〔午前
六時〕前よりからす鳴くまで、再び臥し候て、支配向と御用
談いたし居りながら食事中、五ツ時〔午前八時〕過大地震(注一)に
て、壁破れ候間、表の広場へ出る。生れてはじめての事也。
寺の石塔、其外炯籠等、みな倒れたり。間も無くつなみ也と
て、市中大騒ぎ也。中村為弥来り、早々立のきの事申す也。
支配勘定上川伝一郎先立いたし、御普請役其外まで、書物を
携え、近習・中小性一同にて、六、七町ばかり逃げて、大安
寺山へ四分通り上り、見居り候処、はや田面へ潮押来りた
り。間も無く市中土烟立ちて、けしからず騒ぐ也。火事かと
みる間に、大荒浪田面へ押来り、人家の崩れ、大船帆ばしら
を立てながら、飛ぶが如くに田面へドツと来たる体、おそろ
しとも何とも申すべき体なし。其時居合せ候もの共大勢、お
もわずいばらをわけ、木を伝いて、道なき山をひら上りに上
りたり。絶頂へ参りみれば、手足をかき破りて、血の出ぬと
いうものなし。ここには、女其外逃上りて、みな念仏を唱
え、或は泣き居たり。やや静まりたるけしき故、下らんとす
るに、少も道なし。村人をして道案内させたるに、ここには
みちなし。安らかなるかたよりとて、案内したれど、これも
しらず、絶壁屛風の如く、画がける[鵯鳥越|ひよどりごえ]よりも甚し。いか
にして上りけんと、一同再び驚きたれど、いたし方これ無し。
漸く三町ばかり下りたるに(此間、何度もみちを替え、其苦
さいうべからず)杣のあとを見出し、夫より四、五町下りた
るに、松村忠四郎尋ね来りたり。逢見て、互に涙ぐみたり。
たち[附|つけ]にて立派也。これは、家来もちたるを着たる也。旅宿
はとくに流失したると也。そこにて、立ちながら御用(注二)状を[認|したた]
め、或は米を買いに遣し、又は近郷へめしを焚きに遣し、夫
々へ御普請役を遣したり(郡司宰(注三)助、はだか馬に乗り[駈歩|かけあるき]行。
[忽|たちまち]に六里ばかり歩行せり)。夫にて、漸く米はこれ有り候
得共、はしも何もなし。手づかみにて食事。夜具もこれ無く
候に付、支配向に、幸い左衛門尉夜具其外、共に別条これ無
く候に付、貸遣し、六畳の百姓(注四)家へ、為弥其外五人、まくら
もこれ無くふせり申し候。忠四郎の衣類其外共に皆濡れ、勿
論流失の品も多く候に付、丸やけ同前。去り乍ら、家来迄別
条これ無し。左衛門尉は家来のものにいたり候迄、少も怪我
これ無く、衣類其外にいたり候迄も、少も別条これ無く候(注五)。
御安心下さるべく候。大助家来壱人、官之丞家来三人、行衛
相知れず。御船手同心二人、下田手附壱人、并に子供壱人、
今以て行衛相知れ申さず候。筒井中間も、壱人はこれ有り候
由也。

一 俗に安政の大地震といわれる地震。震源地は紀伊半島
南端で、推定マグニチユード八・四。被害は九州から
東北地方の本州全域に及び、沿岸部の津波による損害
がひどかつた。とりわけ大坂と下田が打撃を蒙り、大
坂では流失家屋一万五千、半壊四万、死者三千と記録
されている。この下田の惨状も聖謨の記述で明らかの
ように目を覆うものがあり、正確な数字は摑めないが
『古賀西使続記』によると、下田全戸数八百五十六戸
のうち、全壊流失八百十三戸、半壊二十五戸、死者は
人別帳記載者だけで八十五人(一説に一〇一人)に上
つた。
二 「左衛門より、此の有様、直ちに御勘定奉行へ書状出
し候由。一同無事の段申し遣わし候旨、申し聞ける」
(『村垣日記』十一月四日条)。
三 普請役。聖謨の随行者。「同人〔聖謨〕より宰助を以
て、韮山へ遣わし、米廻しの儀申し遣わす」(『村垣日
記』右同日条)。このほか聖謨は罹災者の救恤に着手
し、夜中までのうちに部下を指揮して岡方村に[御救小|おすくいご]
[屋|や]を設置して焚き出しを始め、また市中に救米二十俵
を供出した。
四 これは中村為弥等の仮宿。聖謨は大安寺山中の大安寺
(下田町広岡東在、曹洞宗)という禅寺の薬師堂で仮
眠をとつた。「大安寺と申す寺これあり候故、それに
先々御座をすえられ、紫の御紋の幕を打ち、御槍・長
刀を立て、幕串なければ槍を直に用い、ちようちんを
立て、野陣を張り申し候」(『甲寅諸国大震紀聞』所
収、聖謨家来書翰)。
五 これは江戸の留守家族を安心させるための虚言。松浦
武四郎の『下田日記』によれば、宿所泰平寺は「根岩
の末より三尺五寸余汐つき、家財皆并びに御荷物も汐
にひたり、籠・狭箱等も流れ申し候。庫裏の方は余程
かたむき、潰れざる計に相見え申し候」との被害を蒙
つている。
十一月五日 晴
六半時〔午前七時〕出宅にて、所々廻りみるに、田の中に二
十町前後の所は、廻船三、四百石より千石の船、上り居る
也。きのう逃参りたる山麓には、逃損じ転びたるにやとみえ
たるが、死に居たり。二歳ばかりなる児の死したるが二人、
並居たり。或は火事羽織にて、帯刀いたし、屋の[梁|はり]へ上り居
たるが、其まま沖へ引かれ候て、死したるも有る也。夕がた
みれば、死人を掘出し居たり。夥敷き事也。魯西亜船も三人
迄助けたり(注一)。魯人のはなしにては、同船脇を百人も、其余も
通りたりと也。魯人は死せんとする人を助(注二)け、厚く療治の
上、あんままでする也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐
るべし。心得べき事也。

一 「新田町宅左衛門老母八十余歳。この者大浪に打引か
れ、湊の内を小船にとり付、漂流致し候処を、ロシヤ
人小船を浮かべ、この者を相助け候て、外に三州三河
船水主弐人」(『豆州下田湊地震津浪噺』)。
二 「(四日)夕七ツ時頃……プーチヤチン・和蘭通詞ポ
ツセツト・医師・外科、その外四、五人上陸し、川路
筒井の居る所へ見舞いに参り、プーチヤチン申すは、
この大変にて、定て怪我人等も多く有るべきに付、医
師・外科その外用立ち申すべき者共連来り候間、遠慮
無く用い候様との事也」(『浪後日乗』)。
六日 晴
六半時より、下田へ参(注一)る。下田は昨夜中に四度つなみにて、
二度は奉行等山へ逃上りたり。右の訳故、今に山中に野陣有
り。少々といえ共、黒川嘉兵(注二)衛宅へ床上二尺も上りたると
也。より合(注三)中も、つなみの注進有り、大騒いたす。去り乍
ら、逃げはいたし申さず候。下田迄、当時の蓮台〔寺〕村(注四)よ
り三十町也。[夫故|それゆえ]右の[患|うれい]なし。昨夕より、はじめて飯の手づ
かみ止めたり。されど、同村温泉場故に、湯の桶なし。より
て、今に湯遣いならず候。下田町にて、死人を他村のものに
申付け、掘出さする也。身寄へ引渡すといえ共、わずかに妻
一人など申す訳故、葬もならず、わずかに土をかけ置く也。
憐れむべき事也。四日・五日と、黒米かと申し候様なる粥、
其外握めしを[給|た]ぶ。粥も手桶に入れたるを、かけ椀にてすく
い候て、給べると申す位也。平日の食味といたく異なれば、
飢に望まざれば、十分に給べられず。右に付、今日は飯のう
まきこと、かぎりなし。平日[麁食|そしよく]をすべき事也。太郎・市三
郎・敬次郎等へ、よく御聞かせ成さるべく候。○今般衣類を
遣し候は、古賀謹一郎時服一ツ・袴、中村為弥野袴・時服一
ツ、菊地大助時服一ツ・袴、日下部官之丞・上川伝一郎小袖
一ツ宛、胴着一ヅツ、青山与(ママ)惣右衛門衣類一ツ・袴、永持亨
次郎(八丈一反・裏一反、綿共)、御普請役残らずへ衣類一ヅ
ツ也。森山栄之助は、別段衣類遣す。

一 「公〔聖謨〕は……今日〔六日〕よりは供人も減少し、
近習三、徒三人、用人ともに七人にて、公は[歩|あるき]行て行
かれたり」(『下田ばなし』)。
二 黒川嘉兵衛雅敬。下田奉行支配組頭。住居は下田二丁
目の組頭役所。
三 場所は伊沢美作守の仮役所稲田寺。デイアナ号の修理
場提供問題について討議がなされた。すなわち、四日
の大海嘯の際、デイアナ号は錨鎖を切断し、犬走島の
付近を漂流中に擱坐、舵機と副竜骨を破損して浸水は
なはだしく、早急に修理を加えねば沈没もあやぶまれ
た。このため、プチヤーチンは翌五日、ポシエツトを
上陸させて、下田以外の波静かな良港ということを条
件に修復場の貸与を願い出た。これには中村為弥がも
つぱら交渉に応じ、候補地として[長津呂|ながとろ]・[網代|あじろ]・[稲取|いなとり]
等を示して露国側の意向を打診し、説得に努めたが、
どれも賛意を得られず、交渉は行き詰つていた。そこ
でこの日、今後の対策について討議し、同件は一先ず
幕閣の指示を仰ぐことで意見が一致し、村垣与三郎・
中村為弥の二人が一旦帰府することとなつた。
四 いま下田町蓮台寺。聖謨は地震の翌日この蓮台寺村の
広台寺(蓮台寺下藤原在、曹洞宗)に移つていた。
「左衛門……今日相談の次第。当所〔下田〕に一同居
り候ては、窮民艱渋、且つ呑水もこれ無き次第、近村
へ立退き候積り……左衛門は蓮台寺村の寺」(『村垣日
記』十一月五日条)。
七日 晴
今日は、魯人へ懸(注一)合として、中村為弥遣す。○筒井肥前守用
人の忰弐人、供頭一人、四日には浜見物に参り、浪打際にて
烟草のみ居たるに、大浪来る故、少々の事と存じ跡へ下り、
[夫|それ]ともしらず居り候内、沖の方より、山の如くなる浪来り候
けしきにて、それ、つなみ、と申すこと故、磯山へ上り、助
命也。され共、旅宿へ行くこと叶わず、暫して帰り来りた
り。衆人皆死せりとおもいたる位の事故、親子うちよりて、
泣きたりと也。左も有るべし。

一 三日の第一回会商に基づく予備折衝。露国側からはポ
シエツトが出席、長楽寺で行われた。はじめ中村がデ
イアナ号修覆資材、及び食料等の必需品供給には、極
力便宜を計る旨、日本側全権の意向を代弁し、ついで
条約案件のうち、開港場選定問題について評議した。
しかしポシエツトがあくまで長崎・下田両港の代港を
希望して譲らないため、結論は出なかつた。同件は、
翌八日と十日の両日、重ねて評議が続けられた。
八日 くもり、又雨
中村為弥を魯人懸合として差遣し候て、宅調いたす。○江川
太郎左衛(注一)門[手代|てだい]来りて、地震は、東は箱根より、西沼津・
原・吉原にいたり、潰家多し、夫より西も[弥|いや]甚敷き風聞承り
候由、これを申す。下田近辺、太郎左衛門御代官所、地震つ
なみ強く、口野という所より[土肥|とい]村迄、太郎左衛門御代官所
十四、五里の所、流失家・死人多くこれ有り候由、これを申
す。○昨夜、四日に江戸より帰りたるものの咄にては、地震
江戸は子細もなきよし。去り乍ら、松村忠四郎・箕作元圃
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 749
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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