[未校訂]安政元年(一八五四)には十一月四日、五日と本州に大地震
が起り、各所に大きな被害を与えた。(この日は正確には嘉
永七年になるがこの年安政と改号したので「安政の地震」と
いう。)その被状害況を日本地震史料第四巻は次の様に報じ
ている。
「十一月四日東海・東山・南海の諸道地大に震ひ、就中震
害の激烈なりし地域は伊豆西北端より駿河の海岸に沿い天
竜川口附近に達する延長三十里の一帯にして、伊勢国及び
松坂附近、甲斐国甲府、信濃国松本附近も潰家やや多し、
地震後房総半島沿岸より土佐湾に至るまで津浪の襲ふ所と
なり、特に伊豆下田と志摩国及び熊野浦沿岸は被害甚大に
して、下田の人家約九百戸流亡せり、当時下田港若ノ浦に
碇泊せる露国軍艦「デイアナ号」は欖を切断せられ、大破
損を蒙り、七分傾きとなり、後ち遂に沈没したり。震災地
を通じて倒潰及び流失家屋約八千三百戸、焼失家屋約六百
戸、圧死約三百人、流死約三百人に及べり。」
翌十一月五日には五畿七道にわたる大地震があり、西日本地
方に大被害を与えた。
三島地方が被害を受けたのは前文でも明らかなように四日で
ある。このときの様子を御園小林宰兵衛氏は次のように記し
ている。
四日朝五ツ半時(午前九時頃)頃より大地震、三島宿皆家
潰れ申候、当地なども昼夜外へ出居る、地鳴甚し。三、四
日かずかぎりなし、凡五、六十日の間ピリピリこわき事
三島町は全町ほとんど満足な建ち家はないほどの被害を受
け、加えて火災が発生して市ケ原と伝馬町の一部が類焼し
た。大社では境内の樹木の大半が折れ、建物も全部倒壊する
うきめに会つた。(町誌)
このような大惨事を被りながらも宿場は公用の継立てを果さ
なければならない。ようやく十八日から一般人馬等往還の継
立をしたのである。(役場)
幕府は三島宿へ一、○八三両一分永二二五文(坦庵全集下)
の手当と他に家作料として九三三両三分、(役場)米一三〇
石を七カ年乃至十五カ年賦にて貸付けて復興を助けている。
(町誌・役場)
三島町の被害は、問屋世古六太夫から道中奉行本多加賀守及
び柳生播磨守宛に提出した報告文の控によれば次の通りであ
る。(三島市所蔵)この数字によつてもこの地震が如何に激
烈なものであつたかがわかる。
一宿内惣(総)家数千七拾四軒
内焼失家数四拾五軒内六軒は御休泊相勤居候分
皆潰家数九百八拾六軒内問屋場壱ケ所 本陣弐軒
脇本陣三軒 旅籠屋七拾五軒 半潰家数四拾七軒
一土蔵弐百七拾四ケ所 内焼失弐拾六ケ所 皆潰弐百廿参
ケ所半潰弐拾五ケ所
一裏家、物置、小屋共七百三十三所 内焼失弐拾ケ所 皆
潰五百八拾ケ所 半潰百三拾ケ所
一御伝馬置場厩 三拾九ケ所 内皆潰拾五ケ所 半潰弐拾
四ケ所
一郷蔵 四ケ所 但何れも半潰
一寺院 弐拾三ケ所 内皆潰弐拾弐ケ所 并境内場内諸堂
不残、半潰壱ケ所
一堂庵 七ケ所 内皆潰六ケ所 半潰壱ケ所
一三嶋大明神 境内本社 末社皆潰
一宿内大小神社 廿三ケ所 内皆潰十八ケ所 半潰三ケ所
一□共家数 拾九軒皆潰 石蔵四ケ所 物置四ケ所
往還通り新町
一板橋 壱ケ所 大破
一石橋 弐ケ所 破損
一横町石橋 六ケ所 大破
新町川通り
一御普請所 破損
一往還通道、筋割 拾弐所
一宿場馬 内拾五疋怪我
一小々宛怪我は之有候得共かたわに相成候程のもの一人も
御座無候
一人馬死失御座無候
御高札難無く御座候
なお記録にはないが二日町鈴木幸次郎翁の話によれば、この
とき二日町田福寺南側(今の関紋屋東横道路上)と大社境内
馬場先薬師堂辺(今の裏門附近)及び田町奈良橋北端の三カ
所の地割所から熱湯が湧き出て三日ほど続出した。殊に二日
町田福寺南側の所は湧湯の量が多く、同時にたとえようのな
いきれいな砂が出たという。