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項目 内容
ID J1800278
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔安政二乙卯年八月十六日ゟ吉葛園日次之記退隠後二年四拾六歳〕竹川竹斎著
本文
[未校訂]松阪市史編纂室
八(安政二年)月廿一日
(前略)鳴海の宿の家々も海よりミゆるニそのほとりまで汐
ミてるさまなり、宮に船はてゝみるに浜にむきて立る家々は、
高きは内の庭ひくきは床にも水のぼりぬ。去年霜月の津浪ゟ
三・四尺も水高しという。(中略)
廿五日 天気よし
(中略)舞坂のかたの海際の松原去年の地震の大浪ニ流ての
ち湊口ひろく成し(中略)
廿六日 天気ははれたれともいと寒し
去年の冬の地震ニいたミし家々も段々家ことに木もてめくり
を囲へる多し、天竜川は堤を半道はかりのほりて舟にてわた

(中略)
見つけ
天竜川
このすくより東光駕いたさせてのる、天竜ゟこのかた去年の
地しんニて所々つふれし家あり、見付もあれしさまなれと大
かたはもとにふくしたり、袋井まての間ははそんしたる家多
し、廿九日の水も高かりけん、往来にも水あかりて家にも入
たる所多し秋葉の道四十□の末(まてカ)々にて、わたる橋のあとさき
も水入りてあらす、並木多く、植ゑいりし米も穂の出ぬ田□
も多し、袋井のすくにいるに家といふ家皆つふれたるを古木
もて仮ニ立たるなり、橋より東はこと〳〵く焼たるなり、壱年
にちかく過しかは新出き立しもあれと、十のうち四ツ・五ツ
ツはその時の仮やのまゝ膝をいるゝ斗の家にて、大きニ立た
る家といへともとのさまハなく表のかたのミにてひとの四・
五十人もとゝめし家へ十人、十四・五人とゝむるはかりの家
立たるもあり、地震の後ハ箸かたしもなき家のミなりしなと
やすらひし家の嫗のいふ、かたるをきけはいたわしかきり也
けり
○かけかハ
○地しん
久津辺辺もおなし事ニ家〳〵障りなきはなく、多くはくず
家のやねのミふさりたるかことく見えにけり、出入した
るあれと、十ニ七ツ八ツはくすれたり、まれ〳〵立直しぬ
る家もあれと、さるはまれ成ほとなりけり、原川なとおな
し、此里の橋からはおたもしきけるや事なし、その外ハ
宮々の鳥井寺々の門崩れぬはなし、天竜川より東は風もさ
のみニもなかりしにや、倒の木ともに青柴ふりて来に白き
穂波も見えす、そののちに穂いて可給し、田は先月の廿九
日の大水のひたりて穂ニいてぬまにくちしなりといふ、
か(掛川の宿)け川のすくも皆つふれて、その上に焼しに、此仰申より
こかねかし給ふことのありしかはわれも〳〵といそき家ゐ
(居)立しを、ある夜女ありてこの昼の頃にや風あるか火さしぬ
るにて又やゝ立し家々も皆やけたり、その後は皆力つきて
たつる家も稀な事先つとし通ひし時にくらへては大きなる
家ももとの半にも及ハす、まして小家ともは雨ふせきて躰
いるゝ計いそのなと建たれと尚もとの半の数にもやとおも
ふほとなり、城のへもいとふさまになりて役所なといふ所
もいまにそのまゝ成所も多し、このさをすきて東のかたは
つふれし家もあれとやゝかろきかたなり日坂すくに入さゝ
は中過るころなり、此すく(宿)には大坂番士てふも(武士)ののふ家こ
とにやとりありて、かねてとまるへき家もそれにてつかし
けれは、あるさかなやにやとる、この家はさかなてりして
いたす家にて、いとよきかつをのあると東光かめはやく見
つけて刺身にしてふ調せさせ、またこのほと松たけいてし
とて、それをもやかせなとして夕飯くらふ、われは例のそ
はのミてくひてふしぬ
廿七日
暁とく起いて見るニ、星きらめきたり朝飯調けるかねを
つ(連して)れして立いつるころハやゝ東之空たり、あめつけて餅いひ
うるゝ家ニやすらふニ朝日花やかにさしたり□(ムシ)番の人く引つ
ゝきてのほり来ぬ、そこより菊川の里に向たる
菊川の南の岸に露と消しむかしおもへはいきてほろしも
かまくらのものゝふ□の有し世をおもへしやにも心くるし

北条のものふ声まかすさをきためん人のなき世かなしも
此た(峠)むけよりめつらしくふしの山を見る、大井川はふもとを
流るゝことくニ見えたり
金(カ)谷をすく
かなや

大井川の川辺にいたる、駅より一里はかりも川下のかたな
り、きのふ巳の刻はかりニ安起之川の人通りしけかりけれ
は、川瀬あれて又々やとゝめしかはさしも越立したけり料
八九十四文といふれ(連台)んたいてふものニのり物ニつかりてわ
たるを、川越のものゝかたを越たり、し(嶋田)ま田ニいたるころ
雨はら〳〵ふりきぬ、きその夜 (水ハ)の鳴しきりも今(けふぞカ)うそしる
ゝ雨ふりぬ
しま田
嶋田ニ出てやゝゆけは水上村、右ニ入道はこれより久能山
ニゆく道なり、城の越より大崩ニむけ出はいとちかくゆか
るゝなり、瀬戸川を越て藤枝のすくをすぐ
ふちゑた

いとなかきす(宿)くなり、町のなからニ田中の土手てふ所あ
り、田中は本多某殿のさとなり、此藤枝も地震にていた
み、東のかたはやけたる家ゐ皆あらたなり、岡部す(宿)くを通
るに、こゝもそんしぬる家見ゆ、此す(宿)くよりのぼる山路は
宇つの山也けり、やゝのぼる所左へ石ふ(碑)ミ立たり、そこよ
り右にいる細道あるはむかしの道なりといふ蔦の細道な
り、たむけニ至るところはやゝけハしき坂路なり、くたり
はててやゝゆく、道の左へ地震後いてきし温泉あり
おかへ

従者なるものそこにゆきてみしニ、山の崩ぬる所より水の
したゝる処、竹の樋して取れるにて、温泉ニはあらん、冷
泉なり、されとそはい(硫黄カ)はうの濁りぬれとい(硫黄カ)をうの気もな
く、その水をわかす也といふ、丸子のすくニいたりしは申
の末のころにてやとるへきほとなれと、風は東にて雲あつ
くいていまにも雨降ぬへきけしきなれは、従者か遅くもけ
ふわたらはいと心やすくありなんといふニ、むへ也けれは
このすくを過く
川辺ニいたるほとはくれはてたり、夜こしはあらずといえ
と、東光を先ニやりしかは事なく越したり、五□のとい
ふくれはてゝ宿中の大前といふ家ニつきしは酉の刻ころな
りき、此所も地震つよく家々倒しうへに火いてゝ之伝馬
[(かすれ) ]り、東かた皆焼てやとるへき家も十二三軒なら
てハなしといふニ、御番士てふ武士のやとりにて一軒もや
とる家なきを、なん〳〵東光か入□してひそかにかたへら
の所にやとる事とはなしたるなり、此家にも番士二人まて
やとるニあり、夕川(カ)其の殿の内へもいと□にてここにし
のひしかと、やとる家なきゆへ、夜をこめて江尻に越候と
いふ やとりに入ぬると雨はら〳〵降きてつゝきていたく
降ぬ、今一あし遅からハ此雨ノ降へきをいとゝよかりけ
り、いたく降りつけて丸子にやとりあらハ川は水増ほとな
らすとも心やすかるべきかは、また川もわたる瀬はふから
ねと、東の際二すしの川はいたくふかくわたるべきにもあ
らぬほどを、橋わたしたり、いさゝか降るは此橋流れは又
もやとまるへきさまなりけへれとも、渡りしもの心やすい
をとも〳〵ニいふ計□(けりカ)、尚よもすから雨ふる 高松
二八日 いまた雨やます、あくるころは一入降しきりぬ、辰
過るころ番士はいてたちぬ、われは久能山をいまた詣ね
ハ、けふはその道ニとおもへ(ママ)は道もたかへは明□(はカ)てゝ此や
とりを出たつ、やゝ東ニゆきて右ニをれてゆく所その道也
けり、此宿もこその地震のつよかりしてさこ(わカ)かやてふ家潰
て火出て東のかた大かた焼たりとて、今も尚三ツがひとつ
ならてハ立し家もなし、常□の火ならましかは物もい(出)たす
へきを、大成ないなれは或は家潰れ或はゆかみなとするほ
となる故命ひとつたすかるべきをむ(旨)ねとすれば、何ひとつ
持出ることもなく、扨々家も焼、ぬか・こめもひとつだに
残れるもあらねハき(着)たるものの外ニあらぬゆへ、身のたつ
き失ひさまよふてかさねて家立へき力もなきが多けれは、
かくあき地のみなりけり、やゝゆきて久能道にいまた松な
み木あり、帝(カ)松てふ里は道半の所なりそこにてしばし休ら
いそこより、平松ニいたれは海辺の道となりぬ、久能の御
山のもとニ彦太夫てふ名主の家ニいりて休らひ、案内のも
のをいふニそは別当の使い人なるがいとよき翁にて、
(中略)
かくて清水の湊を見とてそこにゆく、こゝはわきて地しん
つよく、つふれも立たる家なくつふれしうへに、火いてき
て残らす焼失したり、よき湊なれはかまと八千ニもあまり
ぬへく[ ]言つみし所と聞とてはわらもてふきて、廻
りもわらニて囲へる丈のふし□如き家のミにて、よく立
しとおもふ家はまれ也、江尻のすくニいつるニ此辺々も残
なくつふれ焼ぬる也、されとさすかに駅路なれははたこや
ともは建し家もあり、されと地震とは何壱ツもち出る事な
き候へ、ぬかこめのひとつたに残れるもなければ、たつき
を失ふ家多くしあれば、いつの代かもとの如く建候んほと
のはるけさに、また家々こわれ火ニやかれて死し人のことなと見るニ聞ニいたましき事のかきりなれはさ
しおきぬ
エシリ
御(只カ)はかやな磯の松か枝しりぬらん幾夜になりぬ三保の大神
シミツ
高波のよたゝせはあやうしミつ汐にこゝろしてすこけめ三保の浦人
(中略)
おきつ川台ニてこゆ[三三原へ原へ]岩城山をかちより越るニ、所
々二十間三十間計つゝも或ハ高地より或は道よりして崩落
たる所十所ニも崩れり、此山のふもとは[ ](浅井カ)限にて、い
にしへ宝永の頃まてハかちより通ひしか、汐ミちぬれは行
なやみしかは親しらす子しらすの道もありしか、宝永地震
に海底と成しに山岸ニ汐満来て道もた(絶)えしと、去月の六月
の地震よりして汐みつることすくなく、海際を通ふともや
すく成しといふに、心をつけてみるにけふは明前のうち汐
なれはいさゝか引しも、いまたかいぬほとなるニ、いかに
も通ふやすくみゆ、山の崩れし所は或は二段三段ニ石垣し
て道つけし所なとあり、岸のかたにも石垣高くつみあけ
て、あやまちあらせぬためニなし候所も有候、六月ノ三日
四日も人の通ひ絶しといぶかしとおもひしニ、今みる所ニ
てはよくも三日四日ニ通ひのつきしとおもハるゝはかりな
り、くら沢ニくたりて望岳高ニやすらふニ、空雲多くて
ふ(富士)しハふもとだに見えず、此横ニふたつ立し石あり、もと
みなれぬさまなれハと(問)ふニ去年まてハかく高くあらハるゝ
事ハなかりしと、地震の後汐ひくゝなりぬといふ、つら
〳〵みるニ満汐より四・五尺もいてたるに、もと汐ニ入し
ほとは貝などつきてしろくみゆ、これぞうみのひくゝ成し
かしる(ろカ)く見ゆる、いせしまの海は満汐の二・三尺も高く成
しは、国のひくゝ成しならんとおもふニ、こゝいたりてお
もひさためぬ
油(ユ井)井のすくに入る所の川も水いとはげし、されとはしわた
したり、きのふハこしつかはし所也
蒲原をすく
ふしみ峠てふ所は十年計こなた新ニ越る道いてきし山也、
そはふじ川のふきしもと水ニ崩て往らふ道崩落しかは、十町は
かりこなたにて山を越、岩ふちニいつゝ新はか道つきし所
也、此高き所よりふじが根いとよく見えり、空もはれて雲
はふもとに入てたなひけり、かねてこぞの地震ニ岸のさま
のかハりしことを中井様成がいひおこせしかは、心をとめ
てみるニ西のかた岸の所崩候さまにてそのかたちくぼみて
ゆかみしことミ(見)ゆ、いとをしき事にてハ是そ玉のきずとや
いふべき
(中略)
けふ過し宿のうち蒲原は多くの家も潰やけもせしあと見
ゆ、岩ふちは一軒もつふれぬ家はなし、されとほふ(多くカ)くハ立
たり、焼し所は立かたく見ゆ
九月朔日 天気いとよく雲もなく心地よき日なり、けふは熱
海ニいそかんと聞へは、丑過るころやとりをおこして朝飯
のまうけなさせて、調度ともとりしたゝめ、卯の刻にやと
りを立つ、此すくも地震はつよかりしとみゆ、沼津ニいた
るニ天みるニ東のかたやゝ明そめたり、このすくも大かた
つふれし上にやけぬれは、家ゐもまばらなり、別て城のう
ちはあれしこと甚しといふ、殿にも十日はかりはいたふけ
るか(仮屋)りやニ起ふ(伏)しなし給ひしよし、喜世川より[ふなとひ ]
ある所まてはさのみいたみもかくほと、三しまニ立入は立
残りし家一つもなく明寺も廿九軒皆つふれしといふ神の御前わたりは焼ぬれぞいとあハ
れ成家多し、されと此駅は新家の家並今まて過し所よりは
よく立たり、明神ニ詣てしニ石の鳥井をはしめ宮内の燈
籠・石の玉垣にひとつも残るはなく崩れて、本社もあとか
たなく潰れて、そのしりへにしかたはかりの仮宮立たり、
山門はほゞゆかみなから立たり、瓦は銅なれハそんしも見
えす、三重の塔もいたみはあれと立たり、されど瓦は四方
とも多く落たり、末社も一つあるはなし、鐘も堂の潰しに
や仮殿のかたへに木を立て□り置たりいと音よくかたちよ
き鐘鐘なり、寛永に鋳しよし記したり
(中略)
安政二乙卯七月晦日
駿州蒲原岩淵之間
新道富士見坂
眺望
西ノ方峯
去月六月大地震
之節形ヲ損スト云
七月廿七日夜
初而雪降たり (後略)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 624
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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