Logo地震史料集テキストデータベース

西暦、綱文、書名から同じものの一覧にリンクします。

前IDの記事 次IDの記事

項目 内容
ID J1800204
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔因信日記〕○飯田市佳気野北原家文書
本文
[未校訂]一四日 ○○(ママ)同断五ツ半時大地しん少シ前ニ少々ゆるト云、
升屋三階土蔵外かべ上かハ落ル、上の板屋の右切ル、庭の大
釜の上江土蔵かべこけ□り出火ニ成行、水をかけ足仕度而
堀端通中ノ丁御代官熊谷茂夫様両御手代衆始御家中町家中
不残見舞候処、松二西上角一軒平潰レニなり、本三上大横
丁角家三尺程かたき、番匠町堀はた角近江屋虎之介之家土
蔵作りも三尺かたき、其外角屋敷三分一ハかたき候土蔵の
かへ江三分一きつつきわれ又ハ落申候、右ニ付て又々ゆり
候へ共少々也、然共飯沼村の運吉と云気違、御嶽様ト云は
やり神故又候大ゆり何時〳〵にはありと云、母と妻ハ家を
不出と云事を申とて、町中海(ママ)道江出居堀端なとハ一めん
出、并寺方の庭御家中御屋敷裏を頼妻子を外ニ置亭主ハ内
ニ居、町中半分程ハ畳立具を遠方江はこび出シ、折々小ゆ
り一日ニ十二三度もある事ニ、性わるき人をそりや来たと
声をあけた故女小供ハ大きにおそれ之故、我等申聞ニハ其
様ニおそるべからす、地しんハ元ゟ一度大イなれハ跡々一
月半年ゆれ共小なるもの也、と昔より承り候間不可弱と申
聞候へ共不聞入、御家中方迄も皆々外江出居事ニ御座候、
帰宅致候処我家ハ少も無さわり、溜り二本斗りゆりこほし
た計り、石垣も崩れ不申候、都而在ハ無事なり、然共石燈(マ
路マ)は所々半こけ、本堂のかべ少々落候、土蔵ひさしハ所々
引たをし申候、追手石垣・御本丸石垣・谷川橋石垣崩れ申
候、夕飯前頃一ツ又中ゆり有之候、我家内ハ内寐候へ共、
皆々外ニ小屋かけ寐しもの八九分通也
伊右衛門ニ仲人城光寺吉右衛門之夫婦也、伴はん恵介と豊
三郎・八郎左衛門ニ其外女中四五人也、夜五ツ時開ク雨ふ
る泊り
一九日 ○○(ママ)同断、所々地しん咄シ四ツ時帰り、筆子川原水
かけニ行見るに、入江の砂原所々ニ二三寸之きつ・長われ
其外所々て地割れ有よし聞少々也、山本村庄屋源右衛門坊
主ニ成り泊り咄ス
一十日 ○○坊殿と咄ス、八ツ時御帰り、筆子地しん小二ツ
計りゆる(中略)
一十一月四日大地震五十ケ国程、南海津浪・大荒船大流、ロ
シヤ船あ(ママ)かたニて海にしつみ、人五百人ハ上り悪年也、十
一月安政ト改元
下男年内八介・銀之介・下午牧あき
安政二乙卯正月元日
民右衛門 六十六才
森右衛門 三十一才
森太郎 七才
内ニて大地震しらべ六十三ケ度
森右衛門村年礼山方八組ハ□不承知ニて足止ニて相渡り年
礼無シ
年内立春江いふ事を元日にとしの内ニ春を幾日も過ぬれハ
春をかさぬるけふのめてたさ
一二日 ○○(ママ)大しんしらへ
一三日 ○○同断
一四日 ⊕⊕同断
一五日 ⊕○同断
一六日 ○○同断、今日同昼ゟ村田屋田中氏江行やけと薬も
らひ升屋泊り
一九日 ○○大しんしらべ
一十日 ○○同断
一十一日 ○○同断
一十二日 ⊕○同断
一十三日 ○○同断
二月朔日 ○○河原坂道作り、昼ゟ如来参りせつたゐ場建、
地しん五度中ゆり
九月
一廿九日 ○○、同稲こき泊り、昼七ツ時中地しん、又小夜
二度
十月
一十五日 ○○同断、森三役人地震ニて御上ゟ金三百両御領
分中江被下候ニ付、村割合壱俵ニ付て五十文ツゝ、□(市田原)原町
泊り
一十七日 ○○、筆子江戸ゟ弥二右衛門之帰り、南山尊衆五
人同道、帰り之地震之咄シ并書附しらべ書、昼頃小西篤五
郎迄御出、樋口ゟ仲人引合書御持参色々咄合夕方御帰り
(中略)
凡此年ハ天気七分・雨二分・風五分・曇り三分、江戸大地
震ニて御用金三千両被仰付候、尤先達而去年大地しんニ
て、殿様江金千両御以裁ニて三百両御領分中江被下置候、
小地しんハ折々あり悪年なり
石川除切御普請始り我等ニ黒鍬頭被仰付、十六間高弐間計
出来、山手貫不出無ふんへつ也、松樋口江遣ス
下男銀之介・八介年内、下女たけ仕着せ
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 555
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 座光寺【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

IIIF Curation Viewerで開く
地震研究所特別資料データベースのコレクションで見る

検索時間: 0.001秒