[未校訂]安政元年一二月四日の大地震については、松本町笹井新介の
記録(むしくら日記記載)によると次のようである。
一朝五ツ半時頃地震、焼失家凡本屋・借屋共百五拾軒余
一半潰家二百五拾軒余
一潰家百軒余
一焼死人三人
一家々破損員数取調中ニ付不相分
一火鎮り候ば、上より金百両、米百俵・炭千俵、焼失潰屋
之者へ差向御手当被下候
一全久院ニ而四日・五日竈建兼候者共へ焚出被下
一怪我人取調中
一土蔵物置取調中
一村々欠付人足へ上より、御賄被下
また松代藩側の資料としては次のようなものがある。
松本大変災の趣ニ付穿さくとして、差出したる御徒士、佐
藤小左衛門・土屋常左衛門・両角三太夫帰りて申出
当四日朝五ツ半時頃、松本御城下大地震、其上大火之由、
内穿鑿被仰渡左ニ申上候
一御城内二之丸石垣二十間程大崩、御櫓二ケ所大破、御家
中十七八ケ所程も潰、其外大潰も御座候得共、聢と不相
分、取調中之由、御家中死失・怪我無御座由
一町家中町通、一橋、新小路、右三ケ所ニ而、凡百軒も潰
候上、焼失仕候由、土蔵物置等までにては、六七百も潰
候上、即死四五人も御座候由、其外承候儀無御座云々
以上により両者の記録は大体符合し火災を伴つた二重被害と
なつたことがわかる。なお麻績町村の被害は家数六五軒のう
ち、居宅全潰四軒、大破七軒、小破五四軒で、潰家へは金壱
両ずつ、半潰の家へは金五分ずつの給与があつた。