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項目 内容
ID J1800188
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔東筑摩郡松本市塩尻市誌二 歴史下〕東筑摩郡松本市塩尻市郷土資料編纂会編・発行
本文
[未校訂]安政元年一二月四日の大地震については、松本町笹井新介の
記録(むしくら日記記載)によると次のようである。
一朝五ツ半時頃地震、焼失家凡本屋・借屋共百五拾軒余
一半潰家二百五拾軒余
一潰家百軒余
一焼死人三人
一家々破損員数取調中ニ付不相分
一火鎮り候ば、上より金百両、米百俵・炭千俵、焼失潰屋
之者へ差向御手当被下候
一全久院ニ而四日・五日竈建兼候者共へ焚出被下
一怪我人取調中
一土蔵物置取調中
一村々欠付人足へ上より、御賄被下
また松代藩側の資料としては次のようなものがある。
松本大変災の趣ニ付穿さくとして、差出したる御徒士、佐
藤小左衛門・土屋常左衛門・両角三太夫帰りて申出
当四日朝五ツ半時頃、松本御城下大地震、其上大火之由、
内穿鑿被仰渡左ニ申上候
一御城内二之丸石垣二十間程大崩、御櫓二ケ所大破、御家
中十七八ケ所程も潰、其外大潰も御座候得共、聢と不相
分、取調中之由、御家中死失・怪我無御座由
一町家中町通、一橋、新小路、右三ケ所ニ而、凡百軒も潰
候上、焼失仕候由、土蔵物置等までにては、六七百も潰
候上、即死四五人も御座候由、其外承候儀無御座云々
以上により両者の記録は大体符合し火災を伴つた二重被害と
なつたことがわかる。なお麻績町村の被害は家数六五軒のう
ち、居宅全潰四軒、大破七軒、小破五四軒で、潰家へは金壱
両ずつ、半潰の家へは金五分ずつの給与があつた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 538
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 長野
市区町村 松本【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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