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項目 内容
ID J1800164
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔市川大門町誌〕○山梨県西八代郡S42・2・1 市川大門町誌刊行委員会
本文
[未校訂]安政元年寅十一月四日四ツ時(午前十時)大地震があつた。
昼夜十数日間余震があつたので、戸外に避難、住居した。し
かし家屋、人馬等の被害は比較的軽かつた。その際、至る処
大災害を受けた。市川大門町はそれ程ではなかつたが、隣接
村高田は地盤が軟かつたので家屋は殆ど全滅であつた。その
時、同村名主より市川代官所へ届出をした罹災者は左の通り
である。
一皆潰 源左衛門
〃 惣之丞
〃 助七
〃 五郎左衛門
〃 治三郎
〃 勘之丞
〃 勘右衛門
〃 石尊堂
〃 左七
〃 文左衛門
〃 五兵衛
〃 藤七
一半潰 与惣左衛門
〃 仁左衛門
〃 秀宝院
〃 九兵衛
〃 多右衛門
〃 幸右衛門
〃 徳之丞
〃 治兵衛
〃 勘右衛門
〃 八右衛門
〃 五右衛門
〃 富右衛門
〃 新兵衛
〃 市四郎
〃 庄兵衛
〃 儀右衛門
〃 吉郎左衛門
〃 五兵衛
〃 三之丞
〃 文蔵
〃 健次郎
〃 惣右衛門
〃 利左衛門
〃 産左衛門
〃 金兵衛
〃 庄左衛門
〃 七郎左衛門
〃 宇助
〃 伊七
〃 実右衛門
〃 武右衛門
〃 半六
〃 定之丞
〃 要蔵
〃 儀左衛門
〃 柳八
〃 辰之丞
〃 佐十郎
〃 重兵衛
〃 弥助
〃 甚平後家
〃 善兵衛
〃 徳右衛門
〃 太治右衛門
皆潰十二軒
内壱軒 勘右衛門
半潰四十四軒
外二人 儀兵衛
新兵衛
外ニ怪我人壱人 梅右衛門
右三人ノモノ共儀身元相応ノモノニ御座候其外身元宜敷モ
ノ一人モ無御座候間此段書付ヲ以テ奉申上候 以上
市川大門村名主
甚七
寅十一月
市川御役所
右は居家の被害であるが、この外市川では土蔵、紙漉部屋、
長屋、釜部屋のつぶされたものも多かつた。代官所へ潰家に
は弐分、半潰のものには壱分つつ、小屋掛け料として借用を
願い出た、尤もべつに被害の程度を調べ救助金があつた。
その他富士川通の堤防大破したもの、堤長六十七間、小破三
十一間、同一間、三間、小破十二間、大破四十四間、三十三
間、大破五十五間に及んだ。
右のよう損所を生じたため、早速、見分の上普請を加えるよ
う願出た。名主甚七、長百姓彦之丞、百姓勘之丞の連名での
願書である。市川の被害はこの位であつたが、高田村は前記
の如く殆ど全滅の有様であつた。
荒井清兵衛顕道は嘉永七年、改元安政元年に市川代官所に代
官として着任して、その年の十一月四日に大地震に遭つた。
その時は各地共被害が多かつたが、高田村は殆んど全滅で、
人畜死傷もあつた。荒井代官は上司の差図を待つ暇もなく、
御用金を流用して一時の急を救つた。高田村民は代官の慈徳
を讃して郷社一宮神社の境内に生きながら祀つて生祠を建て
荒井大明神と尊称した。村民は過分の下賜金を得て、却て震
災前にまさる生活をしたものも多かつたとのことである。そ
の当時これがために、
地震さん私の代にもう一度
孫子の代に二度も三度も
という俗謡さえ流行した。それは隣村のものがうらやんで唄
つたものであろう。
この時、同村の大鳥居に秋山太郎左衛門という資産家があつ
た。里人は下大尽を呼んでいた。もと水害地であるために、
各家共石垣を高く積んで、その上に家を建てていたのである
が、この家は殊に高くしてあつたので有名だつた。
下大尽の高かついじお若衆
のぼるといのちやごいせん
という俗謡があつたくらいで、たまたまその地震の際、二人
の子供がその下で遊んでいたが、にげる間もなく、崩れて来
た石垣の下に埋没された。代官は不憫に思い、村民に命じて
直ちにこれを掘り出させ、代官自ら検視をして厚く葬儀を営
ませたとのことである。荒井代官は文久二年八月十一日江戸
において歿し、現にその子孫の荒井某氏世界的画家として有
名である。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 497
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 山梨
市区町村 市川大門【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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