[未校訂]委員会・九十九里町発行
その他の地震についての詳述は割愛して、前表の概要にゆず
るが、この表には記載されていない中・小の地震にともなう
津波は数えきれず、頻発したものと見られる。また夏から秋
にかけての台風のもたらす高波による被害も見過せなかつた
といえるだろう。
中央史料にはない、次のような記録も見られる。『九資・七
の下四五三』には、
(小川家文書「諸用留」)
恐れながら書き附けをもつて御訴え申し上げ奉り候
一御知行所、上総国山辺郡片貝村役人共一同、申し上げ
奉り候。当月四日朝四ツ時(一〇時)頃、近来稀なる
大地震にて、同九ツ時(十二時)頃□り、俄に大浪一
時に打ち揚げ、津波同様の儀にて、地曳網小道具は押
し流され、船網破損等多分に[出来|しゆつたい](おこり)仕り、尤
も溺死人等は御座無く候得共、御代官佐々木道太郎様
御繩打これあり候海岸寄の[方杭|ほうぐい]より、凡そ岡手へ十
四、五間程打ち揚げ候場所もこれ有り、別して北方[成|なる]
[戸川|とがわ](作田)筋は、人家御座候場所まで打ち揚け候次
第につき、格別の□□事にこれ有り、兼ねて御願申し
上げ奉り候通り、この上万一御繩打ちの場所高入に相
成り候程の儀にて、尤も天気平和の時節にても右様次
第に成り行き、実以つて安心仕らず候間、恐れながら
此段御訴え申し上げ奉り候以上
御知行所
上総国山辺郡片貝村
組頭 祐輔
嘉永七寅(一八五四)年 〃 長工衛門
十一月元名主庄兵衛
御地頭所様
というのがある。この文書は津波の事実にかこつけて、浜芝
地の開発を阻止しようといつた、政治的な意図があきらかに
読みとれるが裏を返せば幕末のこの時期には浜稼ぎの者たち
の居家が、享保期の開発の新田の地先に建ち始めていつたと
も思われる。政治通の顧問格の元名主庄兵衛が名をつらねて
いるのが注目に値する。
ともあれ、右の文書にある通り、天気の穏やかな時でも、い
つ何時、こうした天災を受けるかわからない不安さは、時代
が変つた現在にも通ずるものである。