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項目 内容
ID J1800073
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔高橋景作日記〕○群馬県吾妻郡中之条町横尾
本文
[未校訂]高橋英夫家文書
(嘉永六年農蚕日記)
寅年附之
十一月(在村中)
四日 晴 昼四時がしら大地震家毎ニ火を志めし皆外へ出る
地震止て後雷の如き音西南の方に聞る事三四ッ
生来覚えさる大地震也夜又地震度々する
五日 晴寒し 薄暮地震夜又地震
六日 晴寒しされと昼ハ静也 昼過地震 おかの来る
七日晴暖也平丸元へ行おかの帰る察病論を写す
八日 晴暖也 四日の地震にて信州松代家百軒余つふれ、松
本つふれ、小田井岩村田辺もつふれし風説なり此風説は慥な
らず
九日 曇る寒し 喜平次婚礼 夜地震
十八日 曇る 今暁七ツ時小寒 信州売薬師増屋由手代助来話ス
甲州河鹿沢地震ニテ残らす潰れ焼けし由 其外東海道筋所
々潰れ伊豆国海辺四里四方計ゆれ込しよし 箱根権現も潰
れし由
廿二日 晴 勘定終る 江戸御屋敷ゟ御状到来遠州甲州駿河
相模伊豆武蔵大地震駿府御城潰れ殿様御乗物御用人衆乗物
其外御道具等不残損し候由江戸も御城御櫓御多門等破損い
たし其外神田辺ゟ浅草辺御屋敷町家共ニ余程損し候由され
とも火事はなしと也
伊豆下田津波上リ八百軒海に引こまれ人多く死たると也
□(隆カ)助帰宅後之話
伊豆国下田沖ニ懸リ在る魯斉亜船津波にて大損し帆柱皆折
れ帰帆成かたく 御公儀へ御願申上候ニ付材木調等を被下
置同国辺(戸)田の湊へ送り右船為修理候事ニ付下田を乗出し候
ニ難風にあひ相模国何とやらいふ所へ吹付られ無拠猟船を
出し魯斉亜船を曳かせ候所右船不慮ニ海中ニ沈ミ候ニ付ロ
シア人ハ不残猟船に乗移り辛き命を助かり上陸し夫より二
百五十人つゝ二組ニ分辺田へ御送り被遊候なり
十二月
十一日晴風ふく中之条へ行先月四日の地震にて大坂大
変人死する事甚多しと云 安芸広島つなミにて海に没した
りと云
十六日 晴寒し 安政元年と改まる御触来る当月六日改元
安芸国広島先月四日津浪にて海中に没したるといふ 伊賀
国地震にて地凹み湖水出来たりといふ
廿三日 晴 隆助殿宅へ行同人話す
駿府御城皆地震にて崩れ只御金蔵と焰焇蔵残りたるのミ其
外御小屋等残らす潰れ逃出し候処地のゆれはけしき故立て
歩行する事ならすはひて逃んとするに横にころひて動く事
ならす実に辛うして生る事を得たりと同国田本多豊前守様中城同時ニ潰
れ大(「太守」カ)主の御寝所もなかりし由凡べて武家町人共ニ野陣野宿
する事十日計也駿府潰家ゟ出火三口の火事と成十三町焼亡
したり駿河ゟ箱根迄之宿々皆潰れ或ハ焼失し大名衆御通行
相止甲州鰍沢不残潰れ焼亡す惣て即死怪家人甚多しと也
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 369
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 群馬
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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