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項目 内容
ID J1800041
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/12/23
和暦 嘉永七年十一月四日
綱文 安政元年十一月四日・五日・七日(一八五四・一二・二三、二四、二六)〔関東以西の日本各地〕
書名 〔大平年表録 二〕茅ケ崎市柳島 藤間雄蔵家文書
本文
[未校訂]十一月四日四ツ時頃相州真鶴湊より先々豆州下田土津呂妻良
子浦戸田之湊々水戸浦辺迄一面大地震ニ而民家大半破損□過
剋再津波ニ而海中へ引出シ家財等流失いたし中ニも下田湊は
同日同刻地震にて立さわく次第〳〵に強盛になり老弱婦人逃
さらんとすれとも腰たゝす起は転び〳〵やうやう家内を這出
たる者は倒覆の棟梁ニ圧れ或は蹴つまづき或地之裂口に落入
一命を没するもの数志らず九ツ過少々地震やはらきたれハミ
なと内干潟となること凡壱丈余また希昊のおもひをなしいか
ゞならんと驚き歎くうちに老人之いはく海水乾潟となる時ハ
津波来ると伝へきく急速山に登べしといひ□けれハ親は子を
負ひ若きハ弱きを助け家財雑具に目をかけず我も〳〵と高丘
によぢ登り[後|アト]見渡せハ楼の如く高サ五丈あまりの大津なミ湧
がことくに襲来り家居倉廩は不及申立木迄もみる間に湊へ引
出し又湊ニ繫ぎたる元船四艘山の半腹へ押あげ〳〵有様は今
ぞ世家(ママ)が滅するかとおもふばかり更に生たる心地なく漸く夕
かた津波静まりたれども反し波来るといふて麓に下るものも
なく一連其夜を明しける翌五日こは〳〵麓に下り見れハ住馴
し里にハあらずたゞ広野とハなりにけりそが中にも平地いけ
を成し田圃に打よせたる障子床襖屛風夜着其外雑具のかさな
る中に溺死之もの数多見ゆるハ眼も当られぬ有様なり依之下
田御役所ゟ御急状浦々江御廻し被遊候写し左ニ
今日大津波ニ而下田町過半流失右ニ付出役之面々旅宿ニ差置
候御用物其外武器諸道具等多分致流失候間其村々海岸へ流寄
品々も有之候ハゝ取集置其段下田奉行御役所へ可相届もの也
寅十一月四日 駿河印
左衛門印
豆州従下田相州神奈川宿迄
前顕大変之下田湊に魯西亜船五百人乗一艘居合候処高大之津
波なれハ岸頭へ打あげ又反し波にて引出したるかゝる海城の
大船も余程破損□(ムシ)□其後下田御奉行所へ取繕方願出けれ共市
中広原となりて不自由なれハ同国戸田浦へ場所替被 仰出候
(書込)
仍之豆駿両国浦々漁船凡五六百艘取船となり下田湊より引出
しける其日田子仲(ママ)より俄ニ波立起り□□□(風カ)
吹来りけれハ引船
之漁船凌ぐに度を失ひおもひ〳〵に散乱すされハ異船□いよ
〳〵損処より水入是非なく水主はバツテイラ八艘へ乗うつし
戸田口さして漕よせかたき命をたすかりけれ共元船ハ乗捨と
なり駿州小須浦仲(ママ)にて終に沈湮し海底の滓屑となりにける此
辺千尋ふちと唱へて至て深海なるよし右ニ付下田御奉行所よ
り此段上達ニ相成候ニ付早急に長屋を舗(ママ)理扶食を下されたり
然処上陸之異人共破船之次第本国へ通達いたし度何卒長崎ま
て陸路を御通セ被下度段願出けれ共無御許容乍去彼地迄廻船
にて送り可遣趣被 仰出俄に新造取立
五六□□□□御手配り□□
尤大工は異人と日本人ニ仕あひにて造立いたすよし
(上部欄外書込 注、判読不可)
「□□□
□□□」
又駿州清水湊は前件之地震起りて千軒之町場一時に破壊し災
火いちゝ六□□□□眼たゝく中に焼亡し凡横死人百余恠(怪)家人
数しらずたま〳〵無事にて遁延候ものも野に仆山にかくれ過
し初て蘇生のこゝちすれ共食ふべき穀種ハなく炊器もなし無
余儀焼灰之中より鑿出ける破鍋瓦欠之類にて野園之蘿畐(ママ、蔔)を其
まゝ煮て食ひ飢渇をしのぐ計也かく国中一帯のことなれハ誰
在て食物を送る考なく府中之公庁へ助命之義を願ふといへと
も一列の急難上下の差別なし追て公儀之沙汰あるを待べき
との下知也此地一円広野となり廓外の公廩のミ残りたる有様
ハ目もあてられぬ憐也又湊中ニ繫ぎたる商船陸上之如くニ相
成三保ケ崎にてハ一村こと〳〵く地下に沈ミ家居立木も其す
がたなくたゞ湖面之如くなりたるも不思測なり按ずるに地の
ふるひ動揺するにしたがひ頑(ママ)頡して陸となり湖となること可
恐可怪哉富士川も地震後かゝるはげしき流水とゞまりて自然
砂漠之変をなしたること前代未聞の珍事也
又遠州掛塚浦も前条清水湊に似て多人命を没す処々地裂て進
退することあたはず終にハ黒砂をふき出して白昼暗夜の如く
となり再倒家をうづむ所謂宝永年間富士山焼て関東へすなふ
り出したる例に異ならず時天地転覆して艀鯤飛来り世界あら
たまる哉といふて諸人恐歎せぬはなかりけり其中に地之裂口
より長七八寸位なりける小魚を最寄〳〵に吹出したり此魚漁
父(ママ)も見ることなしたとヘハ池沼に生るゝとぜうなまずの類に
似たるとぞ全く地下に魚すむとすれハ地ハうき物なり俗に世
界を浮世と唱ふるも宣哉按ずるにむかしより地震を描く時は
なまずを書出せしもこゝらをとりて証ニするか
前記地震後風(ふ)と異婦壱人小船にて渡きたり下田湊へ参著致候
ニ付此地之御奉行所にて寺院を旅屋に被仰付境内へ矢来を張
廻らし巌(ママ)重に取囲罷在候然処異婦人は身に錦繡をまとひ瓔珞
をいただき紅粉の粧ひをなしたる有様実に異国の后宮にもあ
らんかとおもはる折々児女を引つれ雲廊にいでゝかゝる□粧
を怨情を含ミて滂(ママ)々たる東海を□むる由也一躰此異婦ハ当春
中神奈川浦にて率去し横浜へ葬りたる亜墨利加人の妻なるよ
しを専下評せりといへとも信しがたしさて先立て駿州小須浦
沖にて沈湮したる魯西亜船之水主戸田浦に留りありけるが本
国へ通達のためかく異婦の乗来りける小船を借うけて三四十
人乗組勢よく下田湊を出帆いたしけるが途中にてフランス船
乃来るよしをきゝ驚怖して戸田浦へ北帰し夫より天城山へよ
ぢ登ける故急速其由を下田奉行所へ訴出候ニ付最寄村々へ厳
しく尋之儀被仰付候仍之村々百姓数多いでゝ昼は貝太鼓もな
らし夜は松明を焚て両三日さがしやう〳〵尋出し子細承り候
処まつたくフランス船に驚怖して身を幽谷にかくしけるよし
申之ニ付如元戸田浦仮住被仰付候左候得はヲロシヤの為ニハ
フランスは敵国なるかしらん
下田表渡来之魯西亜船津波ニ而破損ニ及候処同所は浪荒ニ而
修覆難相成候間此度豆州君沢郡戸田村地先におゐて右船修覆
之儀差免し明廿四日頃出船同所へ相廻候積ニ付右之趣不泄様
相触可申候もの也
寅十一月廿三日 美作御印
豆州従下田
相州浦賀迄
(上部欄外書込) 「十一月五日夜□(判読不可)□□□」
又摂州大坂表も大地震後大津波天保山安治川口へ押来り退人
之乗船を覆し即時に溺死七千人余国々より出坂いたし居候も
のとも彼是一万人程流命のよし一体往古津波之節川辺通りは
やく船に馳来候ものハ一命つつがなく市中逃走り候者はこと
〳〵く波に引出されたるとのこと聞伝へありし故此度は水涯
野国の差別なく我も〳〵と船にのりかく溺死となるもの也却
而外へ逃去候ものハ一命恙なし実に天変の時節なるか其大変
に臨てハ古今ひとしからずといへども大地震後津波の来るこ
とハよく符合せり可恐可驚哉又四国之大変もかく大坂表に劣
らず中にも阿州撫養辺のあれたること夥しく浦々塩焚浜等は
一円海となり其所の人々六七日之間山住いたしたるよし此変
ありてより塩相場急に引上高直(値)となるさて此度之大地震は関
東やすらか奥筋一向震はず関西駿遠三より尾勢州夫ゟ紀伊和
泉摂津播磨は勿論四国九州甚しく北国中国はやはらかにて国
により地震しらずもあり察するところわが日本東ゟ西へ中
央をさかひ南の手をふるひ通りける様子なりされハ東海道南
海道山陽道西海道の地しんなるかとおもはるそが中にも薩摩
大隅抔は格別にて琉久国迄過半人家破壊いたしたるもの噂な
り惣して異国等を大地震のよしおひ〳〵伝へ聞といへども万
里の波濤を経たれハしるすにたしかならず
前文略 去十一月四日大地震御地も余程御痛之由伝承仕誠ニ
奉驚入早々御機嫌可奉伺候処当地儀も翌五日七ツ時より大地
震ニ而其後彼是混雑いたし御見舞大ニ延引仕候段真平御免可
被下候扨又塩相場之儀右地震ニ而赤穂酒井出野崎等之浦々大
痛且江戸表も拾弐俵迄引上候得共此処弐匁五分富(とんだカ)田商ひ仕候
併天気宜敷候ハゝ少々引下ケ可申と奉存候右相場ニ而は余程
よき御運賃ニも相成可申此処早々御用向被仰付候様奉願上候
一五日大地震撫養地損家弐百五拾軒津波七八尺人命無失
一南方海辺八ケ村流失是又人命無失
一城下町分四千軒焼失
一桑島町不残同断
一撫養地五日夕方より十一日迄山住居
右之通ニ御座候
桑島町 中島屋喜左衛門
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻5-1
ページ 352
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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