[未校訂](安政二年五月一日)○伊勢
(前略)
殊に今日は朔日なれとて参宮人多く郡(ママ群カ)りよき日に参宮せしと
悦ひをなせり、天照大神宮の尊き事筆紙ニも畏れ多けれと
も、古よりその霊験昭らして昨年両度の地震の時は山田中神
主はしめ大破損に及ひ、殊に湊船付辺にては人死も多ありし
に、内外両宮の御境地はすこしも震わす、御境内に在るもの
はさらに大地震をしらさりしとそ、御境地前は不残ふるひし
なり、誠に尊仰すへき事ともなり(後略)
(安政二年六月廿九日)○大阪
二十九日
陰天なれとも逐はれ空となる、四ツ頃地震あり、昨年の大地
震にて上方は殊之外破損に及ひ、中にも坂部は尤ともきひし
くして破屋まゝあり、且津浪にて溺死せしものかきりもな
し、多くは富者のものはかり也、地震の時は船にてさくるか
よろしといふ愚俗の伝へを信し、不仕(ママ)用なきものはいつれも
船にさけ且多くの金を懐にせし□斗らすも、大津浪となり
て、溺たり死たる不便之事なり、地震の時船にてさくるは一
応の理なれとも、地震の時は、天地うこきて必らす津浪のあ
る事をこゝろつかぬは浅ましき也されとも忽々のうち故遂(ママ)深
く考へのいたらぬもせむへきにあらす、誠に古今の変なり、
橋々も多く靡き落候て、海船悉く町中に入込ミ屋のうへにと
ゝまるあり、橋上にかゝるあり、目もあてられぬありさまと
そ、然ル後坂部は申に及はす天下一統地震といふまゝ皆々胆
をひやしをそれをなす、是愚俗の風なり、深き禍を目に見さ
る中は如何程古より言ひつたへあるともさほとのをそれもい
たらぬるを、今度ハ自身にて目にかゝりたれは、衆の心何と
なしをそれ一致するや、外夷の来るも左の利久俗人ともはい
また其災を見さるゆへ如何程船のきたるともさまてをそれ
す、唯交易一通にて何事もなきものゝ様にをもへとも、従今
数年のう(カ)へ禍の是より起りて天下のうれひとなるをしらす
(後略)
(七月十九日)○新井
(前略)
新井は昨年の津浪にて大破損いたし、土堤もきれ番所もつふ
れぬ(カ)、海も五・六尺深く相成、潮も殊之外難義に相成けるゆ
へ、公義より万金の普請あれとも一向とゝまらす、今にいた
る迄舟の往来甚た難儀とそ、すへて女中をしのひ越にいたす
ゆへ何事も不法の言葉多く、呉松迄僅二・三里の所を五里ほ
とに申ふらし、壱艘にて壱分なとゝ、いろ〳〵高下にいたす
ゆへ
(後略)
二十日
(前略)
目(ママ)付の宿もよろしき所にて地震にも格別いたます盛なりき、
うなきの名物あり、是ゟ壱里半にて袋井宿にいたる、昨十一
月の地震にて失火いたし駅中残らす焼失之ところに、乞食同
前となりて死人も百五拾人もありしとそ、いまたに人家さら
に成就せつ、たゝまはらに立けれとも誠に目もあてられぬあ
りさまなり、土蔵とても悉く破崩のうへの出火なれは、中々
俄に普請の出来ぬも尤の事なり、是より三里はかりにて掛川
にいたり、暮かた捻金やにやとる太田侯六万石の城下にて随
分相応のところなりしに、袋井とおなしく大崩のうへ町中よ
り出火あり、過半焼失せり、即死人も百人余ありしとそ、我宿
の捻金やなとも随分立派にて、大勢召仕ひありしに、大変の
ため乞食同前となりて諸道具とてはさらに残らす、此節漸く
普請いたしけれとも、また柱立同前にて客座とては両座なら
て出来す、家内も僅三人余となりて一入憐れみにたへぬあり
さま、天地の変人力の及ふところにあらすといへとも、愍天
何と下民を顧みさるや、抑人民狡□にして終に自らまねくも
の歟、天道恢々としてさらにしるへからす、是理にていふと
きは富貴はいかほといたすともさらに頼むにたらす、身にあ
る宝こそ万古不滅といふへき、依てをもふに、人の親たるも
の子を大切とをもつて勧めて子に不朽の業をならわせへき事
や、如何ほと材をのこすとも一反(ママ)変にあふときは毫毛よりも
たのみにならぬものなれは、業をいとわす修業いたさせ度事
候て、我志や是我家のたからや、謹んて考ふへし
二十一日
(前略)
府中の入口なりき、阿部川餅の名物もあれとも暮けれ食(ママ)ふ事
もならす入口に弥勒堂といふ念仏堂あり、由井正雪の塚うら
にあるとそ、正雪切腹之うへ獄門にあひしを、かねて正雪の
恩をうけたる宮城野信夫の両女子、ひそかに正雪の首を葬り
て両人とも尼となりて此処に住し正雪を弔ひし所なり、正雪
ほとの逆心ものなれとも遺愛のために此処に葬られ今にいた
るとあとのあるハ、全く仁愛を加へしためのゆへなれは、人
間は仁愛をほとこすほと宝はあらさるや、堂は地震にて大破
損に及れけるも、府中も東照公隠居遊されたる所にていまた
九拾余丁の町数ありて、にきやかなる所なり、名物の竹さい
くあり、また浅間の宮ありて至る、きれひなれとも夜分なれ
ハ見物もならす、城も地震にて不残崩壊せしとかて、東照公
住居の処憐れむへき事也、夫より伝馬丁にいたるに、地震の
時出火にて旅籠やの辺より東外迄不残焼失せり、大万やなる
ものにやとるに、不相変普請のいまた成就せつ、誠に立たる
まゝにて逃去りしとて舎人万然として話されき、また給仕に
いてし女は是より二里はかりわきの清水というところとて、
大地震の時村の町八丁はかりの所一軒も残らす焼失、直さま
乞食となりしとそ、女中の風躰いやしからぬなれはさためて
随分相応の品の子なるへきに、大変のために奉公をなすもの
と見へたる憐れにたへぬ躰なりき
二十二日
天色くもりてさたかならす、されとも時々かゝやきてまたに
くむへからぬ空なり、未明にやとをいて小吉田村に休ろふ、
桶すりの名物ならは、此所より南にわつか拾丁余へたて海岸
にひ(ママ)あり、則久能山にて東照公鎮護の所府中より二里の道程
なり、山は直ちに海にのそみ、拾八丁の登り坂にて誠に峻険
なる事屛風をたてたる処なり、東照宮御廟所は則山の上にあ
りて寺院僧房も多くあり、但壱筋のとりてにて実要塞堅固な
る事言語に述尽しかたく、古く由井正雪のたてこもやらんと
せしも其理あり、柳原越中守とて三千石の幕下是を守る也、我
等も先年立寄てあり、母をいさなわんとおもひしに東都をい
そき格別□風もあらす、且昨年の大地震にて御廟所も大
破損に及ひし事世に聞へあれは、荒れたるを見るも本意にあ
らされはまつやめにいたす、府中より三里はかりにて江尻の
宿にいたる、海辺にてなかき駅なるを昨年地震の焼失にて、
袋井宿同前目もあてられぬありさまなりき、江尻より三拾丁
はかり海岸を歩み、興津前にて世にいわ(ママ)よる清見寺あり、山
の程にて三保の松原・久能山及ひ遙に富士を見落(下)し至而美事
なる景色、東海道にて勝れし絶地なり、寺も至而古る(ママ)く東照
大神君もいろ〳〵由縁のあるきひしき寺院あり、庭は神君差
図にてきつかれしとて方丈のをくにあり、其外宝物も多くあ
れとも禅寺にて利欲にあつからぬゆへ、由縁なくしては見物
をゆるさす、山門の側に制札あり、天正十年本多庄左衛門の
かゝれし筆にて至而くしきものなり、夫より山門下の府中や
なる店にて暫らく休ひ、三保の松原を顔前になかめ風烟のよ
き事近頃の快きにて、賄ひ酒情を興し、いまた朝天なから鮮
魚を膾として一杯をかたむけ、直様いつる、江尻より三里三
丁にて沖津に至る、格別もいたみもあらす、宿の外に川あり、
徒越なり、川の向ふは直に薩陀(埵カ)宿にせまる
(中略)
壱里にて蒲原、凡宿内半過地震にて大破損憐れむへき体なり
き、蒲原をはなれ小阪をのほり三軒茶店あり、暫らく休ふ、
此迄曇り天はかりにて富士山はさらに見る事かなわさりし
に、爰にいたりてはしめて雲表にそひへあらわれ、巍々然た
る事仰のいたるゝなり、 (後略)
二十三日
(前略)
原より壱里半にて沼津の宿にいたる、水野出羽守の城下にて
随分よろしき所なれしも、近年数度のわさわひにあひ、自然
さみしく相成けれとも、東海道の□なれ□よろしき事あ
り、且甲州より通用の川ありて用も便なる所なり、壱里半に
て三嶋宿にいたる、地震の時大破損にて旅舎なと悉く崩壊、
目もあてられぬありさまなり、中にも明神は池もあり山川も
あり、尤とも東海道にて応々たる美しきいけなるに、微塵の
如くにこわれ、わつか山川及塔のみ建あれとも危き事近よる
へからす、石壁石鳥井も迹かたなしと相成、回復の期何時に
あるへきや、尾州熱田なとは毛ほとも動かぬに、神威もかく
ほとへたてのあるこそ怪しむへきや、此所より伊豆・下田及
熱海のかたへ往来あり、下田には拾八・九里もあらん、あた
みには五里はかり、韮山には、二・三里なり、さくらんと思
ひしに語ひいまた其時を得す、伊豆の下田も去年大破損に
て、当時江戸表より職人多くきたりて交易場しきりに普請の
よし、時かわり世あらたまりて伊豆の下田も長崎同前の交易
場となる、天地の変いかんとや
(中略)
湖の端をすきて箱根の宿あり、人家連続してうつくしく、さ
れとも地震にて拾八・九軒破損いたし、本陣なといまたに普
請出来ならす、最早晩景に及ひとまらんと思ひしに、関所の
あるゆへ少しく越をかんとて宿引ともの袖をさりて関所にい
たる(後略)
二十四日
(前略)
昨々年の地(小田原)震にて破損に及しも昨年は格別の事もあらさりし
とぞ(後略)