[未校訂](地震道中記)
○序文にもあるごとく、宮負定雄は安政元年十一月四日伊
勢参宮と、紀州和歌山に参澤宗哲を尋ね、また神仙界と
自由に往来する島田幸安に面会すべく旅立った。丁度こ
の日は有名な安政の大地震の日で、定雄は家を出て数里
もゆかぬうちにこの大地震に遭遇した。しかし彼はその
まま旅を続け、その間道中で見聞した各地の惨状を記し
たものが本書である。
地震道中記 完
地震道中記序
安政元年甲寅霜月四日の大地震ハ、関東国々東海道筋五畿内
四国九州中国迄凡五拾四ケ国ゆりしといふ説にて、海辺ハ津
浪押上け地震にゆり潰て火災となり水火の為に人民の死亡数
ふるに暇あらず、前代未聞の大変なり、予伊勢参宮の志有て
霜月四日ハ一陽来復の吉日に付て旅立したるに、其日途中に
て地震に逢ひたり、されハ人家の倒るゝ程の事にもあらて江
戸を越して東海道も相州小田原迄ハ人家の破れも無く、筥(箱)根
より破れ始まり諸国の破損ハ辞に尽し難し、其が中に神の霊
験に因りて人の助りたる事多く有りて真に有難尊き事なり、
予其事実を聞糺し書集めて子弟にも読ミ聞かせまほしくおも
ひて地震道中記と号けぬ、安政二年といふとしの三月
下総国
弓道人識
地震道中記
宮負定雄記
甲寅霜月四日の地震ハ、東海道相州箱根山の内地震ハ須雲
川辺より山崩見えて、二子山ゟ大石ころび落ちて大道に数
々見えたり
一箱根宿御関所無難ニて本陣潰れ町家悉く菱形に曲りたり、
西の方ニて拾軒余潰家あり、爰より十丁計り上り相州豆州
国境なり
一豆州山中宿七八軒潰家あり、此所小田原北条家の旧臣間宮
豊前守居城の跡なり、天正年中太閤秀吉公の為に落城な
り、柳の井戸といふ古井あり
一三島宿東の入口新町橋跡先崩れ、新町長谷町伝馬町悉く地
震ニゆり潰れ、三島明神石の大鳥居燈籠倒れ砕けたり、二
王門回廊倒れ御本社御拝殿半破れ三重の塔無難なり、此時
御神馬木馬形見えす無くなりて、二三日過て其形あらはれ
たりとぞ何か故ある事なるべし、伝馬町所々の潰家より出
[ (ママ)]宮の前通り焼原となる、爰より西の方町家残らす潰
れ、寺院廿五ケ寺皆潰れ、町家都て千軒計り皆潰れて蔵一
ツ残らす、然るに死人壱人もなし、宮の前通り南の側に丸
屋甚兵衛といふ薬種店あり、雅名を義香といひて風流の哥
人なり、家ハ土蔵造りにて堅固の住居なりしが、四日五ツ
時地しんの騒に店の者ハ往還に逃出し家内の者ハうら口よ
り逃出たり、其(ママ)時其時同所問屋役朝日佐兵衛と申す人の娘
四歳にて其名ハおしげ、丸屋甚兵衛が為にハ孫なりけれ
バ、丸屋の見世先に遊ひニ来りて居たるに、地震の騒と成
りしが其小児を連出す間もなく其家ゆり潰れて砕けたり、
人々詮方なく歎き居たるに近所の潰家より出火ニて丸屋の
隣家迄焼来り、丸屋の潰家にて火ハ留りたり、其日八ツ半
時頃朝日佐兵衛丸屋に来りて、娘しけ女が死したるは是非
も無し責(ママ)て死骸計も掘出したしとて歎きけれハ、人々心当
りの所に往て尋るに壁際にて小児の泣く声聞えけれハ、其
所を切り開き掘りて見るに、其小児おしげ聊の怪我もなく
かゝミ居たりし事三時あまりなり、殊ニ少の恐怖の気色も
なく命助かり居たり、人々其子細を問ふにおしけ答て曰、
見世より向店の方へ逃たるに恐ろしき爺が来てこちへ来よ
〳〵といひて抱ひ呉たりと物語せし由、実に奇妙ふしきの
次第全く三島明神の御助にて有難き事なり、[ ]豆州一国
の内浦々津浪にて人家流失尤多しといふ説なり
一豆州下田霜月四日地しんの跡大津浪にて下田十八丁の人家
千軒余悉く流されて砂浜となる、残る家僅二十軒計り土蔵
七八ケ所、残る死人ハ六十八人出上なり、其外他国より入
込居し船人猟師の類死人の数わからすといふ説也、下田御
奉行より御救米并御粥を下さる御救小屋数ケ所立たり、壱
軒別に金三百疋宛御手当を下さる、江戸表より世帯道具鍋
釜雑具諸色千軒前大船弐艘にて積ミ来り町家江下さる、此
船霜月廿日に着船す、町中江御拝借金拾万両といふ説な
り、此処に尾州千(ママ)田郡の大船四艘津浪に押上けられて山の
中辺ニ有りて動かす事成り難く船主難義之由、地震津浪の
為に名のしれざる大魚三百疋余り陸に押上けらる、食て見
るに油少しもなく豆腐の如く味ひなし、此魚おぐすの浜
[ ]く上りしといふ説なり、此時オロシヤの軍船一艘下田
にかゝりて居たりしが津浪の為に其船痛ミ出来たり、船の
長さ三十六間船の名ハフレカツト五百七人乗り上官一人惣
大将にて大名也、名はフウチチヤン年ハ六十歳位、上官の
子息年ハ二十三歳其名詳ならず、通辞役の人至て賢才なる
よし、彼大船一艘に小船のハツテイラ七艘付てあり、是ハ
伝馬船なり、此大船ハ寅の九月中紀州熊野浦に来り其より
大坂湊近く来り又まはりまた小(ママ)田江来りし船なり、因て沼
津侯・小田原侯下田御固めなり、江戸表より応接方の御役
人下田へ御下り、霜月二日異国人上陸し対話相整へ饗応相
済四日に帰帆すへき筈の所、津波にて船を痛め出帆なり難
く同国戸田の湊にて船の修復御免になり、下田より戸田江
船をまはすに日本の小船百艘計りなり異国船を引き来る
に、霜月廿六日西南風にて異国船儀垢水多く入りて終に海
底に沈ミたり、荷物は十分の一も上らす皆水底に沈ミた
り、異国人五百七人戸田の湊に逗留しけり、新たに大船を
造りて帰国するなりとそ船を造るに三年かゝると云う、そ
れ迄沼津小田原の両侯御預りなりとぞ、異国人の咄に近年
オロシヤ江トルコイギリス其外三ケ国合集してオロシヤ江
責(ママ)入り五ケ国切りとられ、今年又トルコイギリス外十一艘
の船をオロシヤ船六艘にて打つふし軍勝利なるよし
一駿河沼津地震にて御城大破土塀悉崩れ落ち御殿向御蔵等多
く破れたるよし、町家大抵倒れて立家少し、爰より原宿迄
の間在々潰家多く大地も割れたり
一原宿痛ミ少し旅人宿もあり、土蔵の類ハ大かた崩れたり、
爰より北方富士の裾野の村々大破なるよし、富土山の形も
少し替りしと土人の咄しなり、浮島が原のあたり無難なり
人家ハ皆小屋住居なり
一本吉原村鎮守の神ハ毘沙門天神にて霊験殊にあらたなる神
なり、正月八日祭礼にて諸人群集するとぞ、此村数拾軒の
家々一軒も地震の痛ミなく無難なり、霜月四日五ツ時里の
小児共毘沙門天神の御社に遊ひ居けるに身の丈高き異人現
れ出て宣ふには、汝ら爰に居らば忽怪我すへし早く爰を立
去れと告給ふ、因て逃たる小児もあり逃さる小児をバ彼異
人捕ひて側の竹籔江投給ふ時に大地震となりて其御宮潰れ
たり、少児等少しも怪我なくして助かる、此神其頃里人の
夢枕に立給ひて告給ふにハ、霜月四日の地震に氏子の人々
を助けんがために宮を出て働きし故に我体に二ケ所の疵を
受けたり、我宮を出し故に我宮のミ潰れたりと告給ふ、因
之速に仮宮出来たり、神の御慮有かたき事なり、こゝより
吉原迄の間橋々落ちて人家多く潰れたり
一吉原宿八分通り潰れて火事となり丸焼なり、爰より西の方
本市場ふじの□酒の辺立家一軒もなく悉く潰れて哀れな
り、富土川迄同様皆潰れて立家一軒もなし
一富土川霜月四日五ツ時、甲州の小船弐艘岩淵より塩を積ミ
て引船ニ而上る時ニ大地震となり、東岸の山崩れて落其塩
船弐艘共に山崩の下敷となりて水底に沈む、壱艘ハ四人乗
にて八人なり、其内六人飛上りて助かり、弐人ハ死たり、
また川の西の岸高き所に往還ありて此近所松野村の人、馬
を引て通りしが其大道崩れ落ち人馬共に前の山崩落ちて(ママ)の
土の上に落ちて無難也、人馬共に東岸に渡りて命ハ恙な
し、斯て富土川此所にて埋まり爰より岩淵渡し場迄廿余町
の間河原となりて水流れす渡し場歩行渡りとなる、土人お
もふに頓て大水一時に押来るべしとて、人々山に登りて用
心せしに、其日の八ツ半時比山崩の土石一時に流れ出して
岩淵に来る、夫より川の瀬大きに替りたり
一岩淵宿人家悉く潰れ地形は崩れ見る影もなし、爰より蒲原
迄の間在々人家倒れ大路田畑のわれたる事恐ろしき事也、
富士見峠の茶屋無難なり、爰より西は大破なり
一蒲原宿人家残らず地震にゆり潰れ丸焼となる、山上の松の
大木根ごミになりて崩れ落て見えたり、爰より由井の間[薩|さつ]
[埵峠|たとうげ]の辺山崩なく無難なり
一由井宿一軒も破損なし
一沖津宿破れ少し、併内々ハ痛多き由、爰より江尻迄の間徃
々大破なり、清見寺障り無し
一江尻宿千軒皆ゆり潰出火にて残らず丸焼なり、死人は多し
町中なる巴川の児橋ハ残る、此西橋詰に東海道第一の楠の
大木有しが焼枯たり惜むべし、此宿の東の入口にいかめし
き立宿一軒ありしが、地しんの破無く聊の曲りもなくふし
ぎとおもひしが、土人の咄に此家は至て隠徳有て善行ある
家なる由さも有べし、とかく人ハ隠徳善行を心かくへき事
なり、爰より南の浜手清水の湊久能山抔大破なるよし
一清水八百軒の内僅弐十軒残りて、余ハ悉く地震にゆり潰れ
て出火に付丸焼となる、問屋の土蔵一ツも残らす死者多し
一久能山大崩にて其頃山を上下する事叶はず、山上より綱に
桶を付て下し麓より水を釣り上て呑たるよし、御修復金拾
八万両と云事なり、江尻より府中迄三里の間在々大破れ、
大地のさけたる事恐ろしき事なり
一府中東の入口より伝馬町江川町丸焼にて、土蔵一ツも残ら
ず御城の御堀際迄焼原となる、御城外郭の石垣七分通り崩
落ち、御矢倉四ツ落たり大手御門四ツ足御門破れ、其外御
殿向大破に而城内野原の如くなりと土人説なり、浅間宮ハ
少しも破れなし、二丁町遊女屋倒れ遊女の死人も有よし、
爰ゟまり子迄の間人家倒れ大地われたり
一鞠子宿破損少し、爰より宇都の山峠迄の間人家の痛ミ少
し、連歌師宗(ママ)祇の墓あり大道より六丁北の側にありて柴屋
と云享禄五壬辰三月卒と碑に彫りてあり、宇都の山蔦の細
道の碑あり、羽倉外記様の御撰文にて三亥米葊の書なり、
文政庚寅八月建此辺地しんの破少し
一岡部宿三分一の潰家なり、大地さけたる事甚し、爰より藤
枝迄の間倒家多く田中の御城御殿向大破のよし、殿様地震
に付急に御参府ありしとそ
一藤枝宿東の入口より四五丁潰れて火事となり丸焼なり、爰
より島田迄三里の間破れ少し、道中土橋悉く落ちたり
一島田宿潰家弐軒死人弐人家々破れ倒れ多し、大井川の河原
□たり
一金谷宿大かた潰て砕けたり、御救小屋七ケ所かゝる日々御
粥を下さる、大地のさけたる事恐ろし、道中上下の御大名
野陣を張て三日位野宿致せしよし、其節往来の旅人ハ皆野
宿也、爰より峠を上り下りて菊川宿無難なり、坂を上りて
佐夜の中山飴の餅の茶屋一軒も残らず皆潰れたり
一日坂宿三分の二破れて旅人宿無難なり、爰より掛川まて三
里の間大破、大地さけて家々大かた倒れたり
一掛川宿残らす潰れて出火となり焼原となる、死人尤多し、
御城ハ大手御門くだけ、御矢倉大抵潰れ、御天守の三階上
の一階崩れ落たるよし、人馬の継立叶ハず、爰より袋井迄
の間大破人家潰れ多し、又爰より秋葉山街道の入口銅の大
鳥居石燈籠も倒れ、秋葉道中森町半潰れ、村々破れ多し、
秋葉山ハ少しも破れなし、三州鳳来寺も地震ゆらず寺料千
五百石の村々少しも破損なしとぞ
一袋井宿残らずゆり潰れて丸焼となる、死人九十七人其内に
遊女を土蔵に入れて数多焼殺したるもあり憐むべし、此宿
に三州某の大寺の坊主当年御朱印御書替相済江戸より帰
り、此宿に泊り遊女を買ひて自分も焼死御朱印を焼たりと
ぞ、又壱僧ハ本陣に泊り他家へ遊女買に出たる跡にて本陣
焼失して御朱印を焼たり坊主ハ命助りたりとそ
一見附宿破れ家少し、爰より南浜の方在々村々大潰れ、相良
御城町方共地震津浪にて大崩、横須賀ハ御城町方少しは手
軽のよし、掛塚ハ大破にて人家潰れ多く、天竜川の堤悉く
大われ也、此近在加西といふところに家蔵共に地中にゆり
込棟計り少し地上に出たるもありとぞ
一浜松御城の御門一ツ倒れ、角矢倉一ツ落たるのミにて破れ
少し、寺院堂塔残らす砕て、町家ハ瓦屋根の家倒れ、其余
ハ曲りしのミ、十四日此辺大風にて家々破損ありしよし、
爰より舞坂迄三里の間津浪押上て田畑砂にて埋まり人家無
難也
一舞坂宿津浪押上て家の床の上に上る、死人流家なし、爰よ
り荒井迄船わたし浜名の橋の古跡なり
一荒井宿御関所地震にゆり潰、町家少し破れ、御船蔵津浪に
流されて往来留となる、上下往来の旅人ハ木賀の御番所に
かゝりて、山通り五里まわり道、見附より御油へ通るなり
一本白須賀津浪あげしが人家無難にて死人もなし、当所の鎮
守神明宮の鳥居際まで漁猟船一艘津浪ニ押上られしが、鳥
居の内へ浪少しも入らず是も神霊也と土人の咄し也、爰よ
り汐見坂を上り白須賀本宿よりふた川宿迄人家少しも破レ
なし、ふた川の西に遠州三州の境川あり、岩屋の観音左の
松原の内にあり
一吉田御城の内破損多きよし、町方ハ破れ少し在々同断
一五油赤坂藤川のあたりハ少しも破損なし
一岡崎御城町家共に表口に破損なし、[裏|うら]通りにハ破れもある
よし、矢はぎの橋弐百八間の内東より三十間目にて柱ゆり
こミたり、同西より四十間計りにて柱ゆり込ミ橋の姿替り
たり、矢ハき川の堤ゆり込ミ、船の通路あしきよし、爰よ
り西の方道中潰家多く大地さけたり、堺川の堺橋落て仮橋
かゝる、此川参州尾州の堺なり、桶狭間古戦場今川義元墓
のあたりも破家多く破れ、本陣弐軒たをれたり
一池鯉鮒宿多く破れ、本陣弐軒倒れたり、爰ゟ西の方在々破
家多し
一鳴海宿破少し笠寺観音無難也
一宮宿東の入口十軒はかり潰家見へたり
一熱田太神宮御社地震ゆらす少しも痛ミなし、町家同様な
り、霜月四日五ツ時宮宿の漁猟船壱艘海上に乗出しかは、
沖の方より山の如くなる大浪来るを見て、是ハ津浪なり今
逃るとも間に合す、若幸に彼大浪を乗越しなバ命ハ助かる
べしとて、乗組の人々熱田神宮を伏拝ミ何卒彼大浪を乗越
さしめ命助け玉ひと、一心に祈り奉り大浪に近つくと、忽
ち其大浪東西にわれて中ハ堀のことくになりしかバ、船ハ
其間を乗越し難なく沖の方に出けれハ、沖ハ浪静にて船人
共皆□□助りけるこそ尊けれ、されば津浪ハ宮宿に上ずし
てあまたの人々助りけるハ、誠に神の御恵ミにて有難き事
也ける、故に六日比ゟ諸人熱田の御神江御礼参りとして参
詣人群集せし事正月の的の祭りより賑ひける、其後も御か
ざり馬奉納なと有て見事なる事也ける
一名古屋御城の内ハ少々破れもあるよし、町家破れ少し、爰
ゟ津嶋迄の間人家の破れ少しハ見えたり
一津嶋牛頭天王御社少も破損なし、町家多く曲りたり、佐矢
川の堤ゆりこミしところあり
一桑名御城御矢倉向少々破れたるハ六月十四日の地震にて破
れたるなりとぞ、今度ハ至て手軽のよし、霜月四日海上沖
の方より津浪高く見へし時に桑名の産土の神多度山の方よ
り白雲一帯棚引来りて、彼津の上にかゝると見えしが忽津
浪ハ(わ)れて南北にちり、桑名へ上らすして諸人助りける、其
夜も海上に神火あらはれける、それより多度山江御礼参詣
の人々〔 〕せしとぞ、多度神ハ延喜式内の神社にて桑名ゟ
三里山手ニあり高山なり、爰より四日市迄の間破れ家数々
見えたり
一四日市六月十四日の地震に人家多く潰れ、火災となりて死
人二百人余といふ説なりしが、今度又々大地震ニ而三分通
りの破損なり、今度ハ死人なし、一年両度の大地震其難渋思
ひやられたり、爰より京都迄東海道の内ハ破れ少し、山田
街道〔 〕白子上野津の町辺破れ家多し、津の町ゑんま堂の
辺殊に大破也、爰ハ阿[漕|こき]が浦平次の古跡なりけれバ
伊勢の海阿漕か浦にゆるなゐも[度重|たびかさ]なれハ破られにけり
古語に地しんをなゐといふなり
一雲津近在長常神明宮の辺大地大われにて人家の破れ多く見
えたり
一加良須大神宮の御宮并神主家少しも地震の破損なし、其余
の家々多く砕けたり、此所の本村矢野村も人家多く砕けた
るに怪我人一人もなし、四日五ツ時地震の後に海上沖の方
に津浪高く見えしが、白張着たる神白馬に乗玉ひて海上に
顕ハれ給へしかば、其津浪忽われて南北に別れからすの浦
に上らすして、人々多く助りける、神の御出現ハ松坂より
よく拝まれたるよし、誠に有難き事なり、加良須大神宮御
神馬ハ木馬にて白馬に造りたるなれ共、津浪の後に見れハ
四足の蹄に海中の藻くず付てありける、又御本社の御厩も
同様に海中の藻くず付て□しよし、是全く海中へ御出現の
しるしなり、矢野村ハ前に荒海を抱き後に雲津川の高堤を
負ひて洪水の時ニハ危き所なる処昔より此所まて堤の切れ
たる事ハ絶て無しといへり、是も神の御守護なる事疑へ無
し、此御宮廿一年目式年の御立替にて内外両宮と同なり、
馬場の長サハ町之内両側桜の神木にて花咲く頃見事[ ]と
ぞ、からすの浦も松原絶景にて二見ケ浦迄見はらし[ ]
一松坂家蔵の破れ見えたり、地震に附て難渋の者ともへ紀州
様より日々御救米を下されたり
一本市場辺少々倒れ家見えたり、此所忘井の古跡なり、立碑
に古歌あり
立かへり都の方の恋しきにいざ結ひ見ん忘井の水 斎宮
爰より櫛田川辺宮川迄の間少しづゝ破損見えたり
一外宮少しも障りなし、山田の町家三分通りの破損也といふ
説也、古市町より内宮御神領少しも破損なし
一内宮摂社末社に至るまて少しも障りなし、宇治の里一統御
師職の舘町家共に悉く無難にて瓦一枚落ざるよし
一大港地震の時に人々川船に乗りしかば、津浪の為に大船内
川に押上られしかば、小船ハ下敷となりて皆砕け、七十余
人死たるよし、殊に川中に大船の帆柱とすべき大材木水に
ひたして有しが、津浪に押上られ家蔵につきふして家蔵ミ
じんに砕けたり、此辺に田地の中に大船津浪に押上られ、
動かす事なり難く其儘にありしよし、打こわすにも新たに
造る程の費かゝ(ママ)て云り、川崎辺も津浪にいたミ多きよし
一志摩国鳥羽の湊津浪六七丈高く押来り、御城の高塀を打越
して本丸迄大浪打こえ大崩、町方悉く流され死人尤とも多
く、猟場の小島悉く流れ亀島四百軒流され、尾州篠島も流
れたるよし
一紀州熊野浦九十九浦残らず津浪に流され死人千五百人余日
々御救米を下さる
一同国むろの郡一郡悉くゆり潰れ日々御救米を下さる
一伊せの松坂より紀州和哥山街道五十三里の内高見峠まで十
八里の間ハ地震の破れ少し、此峠伊勢と大和の国[界|さかひ]なり、
船戸より廿五丁上り四十町下れハ大和国吉野郡なり、峠の
上二又二十丁高き高見山といふあり、入鹿大臣が首を納め
たる所ニ而山上に二宮あり、高鉾大明神を祭る、此辺地し
んの破少し
一竜門の郷此辺も地しんの破少し、竜門の滝は八丁許り山手
にあり谷川にそふてのぼり往くまに滝あり、一町計り手前
に下乗碑立てあり図の如くにして古物也、
元弘三年
癸
酉
卯月日とあり
またの一方に竜門寺と云草書に書てあり、滝口六七間高く
滝つぼハ二三間四方にて汀の石滑らかにして、畳を敷たる
如く広き壱枚岩にて美しく実に仙境ともいふべき所なり、
竜門寺ハ今もいかめしき寺なれ共昔元弘の頃ハ七堂伽らん
も有しが今ハ無し、此滝川いもせ山は茂き山なり
一荒木神社うき田の森爰ハ名所なり景色よし浮田の森蔭ニ
古郷をひとり出にし草まくら旅ハうき田の森の下蔭
此辺地震の破れ少し、五条橋本の辺り同様にて破れ少し
一栄山寺木の川の岸にあり、此寺は大織冠鎌足公の御弟武智
麿の建立なり、鐘の銘ハ小野道風之書なり延喜十七年十一
月三日と彫てあり古物なり、弘法大師此寺に留学して川水
の音を止めて音無し山といふ、今に水音なし
一高野山は地震ゆらすといふ説なり霊場なれハさもあるべし
忘れても汲やしつらん旅人の高野の奥の玉川の水 空海
一待乳峠大和紀州の境なり、まつちの奥に戸たて山といふ古
城跡あり、紀伊殿の御歌とて
大和なるまつちの奥の戸たて山じようハなけれと鍵わら
ひ哉
一粉川寺観音下馬札下乗札立てあり堂塔町家少しも地震の破
れなし
父母の恵ミも深き粉川寺仏の誓ひたのもしき身や
花山院法皇
一和歌山御城少しハ破損もあり、瓦町辺潰屋少々あり御屋敷
寺院方の土塀多く崩れたり、和歌の浦へ往く道に根上りの
松といふ名木の松あり、林の内に芭蕉翁の碑あり碑の裏に
文あり
翁云無古人無古人有此人嘗伝神古池蛙嗟翁即是古人
塊亭風悟誌
一愛宕山秋葉山景色殊ニよし五百らかん寺の辺地震の破れ少
しもなし
一和歌の浦御霊屋天満宮破れ少しもなし
一玉津島明神地震のさはり少しもなし
立かへり亦も此子に跡たれん名も面白き和かの浦哉
御神詠
一和歌の浦松原の中に御台場七ケ所所(ママ)出来たり
わかのうらを松の葉こしに詠むれハ梢によするあまのつ
り船 よミ人しらず
一霜月四日五ツ時海上沖の方より山の如く津浪高く見えし時
に陸の方より何ともしれぬ白き鳥二羽海上に飛往き、津浪
の上に飛かゝると見えしが忽津浪われて東西にわかれ、わ
かの浦并御城下江も津浪上らすして人々多く助りたり、是
全く玉津島明神天満宮の御出現なるべくして有難き事な
り、其頃若山御城下在々よりも御礼参りの人々和かの浦に
群集せしとぞ
一紀三井寺観音地震にて山崩れ見へたり堂塔町家無難なり
一加田淡島大明神御宮并町家地震津浪の破れ少しも無し、四
日五ツ時津浪高く見へし時に海上に女体の神御馬に乗らし
め給へて御出現有しとぞ、故ニ忽に津浪割れて一方ハ大坂
の方一方ハ阿州の方別れ往て加田の浦に障り無く人々助か
りたりとぞ有難き事なりける
見渡ば淡路が島に笘か島あまの釣舟加田の浦波
一笘ケ島ハ加田より一里許西の海中に有二島なり、此島是迄
無人島にて大木茂り浦浜なくして天狗の栖なりしが、此度
此島に御台場数ケ所御取立ニ付、田畑を開発し人間界にな
し武家五六軒農商百六拾軒御取立なり、田地も少し出来た
るよし天狗とも夜々騒立といふ説也、領主様ニ而金六万両
の御物入といふ説なり、島の周り二里半余経り一里余中に
湖水も有とぞ
一大井村八幡宮海辺にて大社也、此所国境にて西は泉州日根
郡也、保嶋住吉宮浜辺にあり此辺地震津浪の患ひなきは神
々の加護なるべし、爰より佐野の辺地震破れなし
一湊村小栗判官袖掛の松といふ古木の松あり、昔小栗判官正
清紀州有馬入湯の古跡なり、爰より堺の町迄小栗街道とい
ふ古道あり、此道に小栗綱掛の松といふ古木あり、此辺地
震破レ少しハ見えたり、よしミの松原景色よし
一岸和田御城も町家も地震の破レ少しハ見えたり
一島田の松原海岸迄幅三丁余長十八町日本第一の松原といふ
也、田安殿より禁札三ケ所立て有絶景なり
一堺の町家破損もあり住吉の御社石燈籠倒れたるも少しあ
り、あつま橋竜神橋堺橋いさミ橋住吉橋落て死人ハ十人余
といふ事なり
一大坂地震ハ霜月四日大ゆり又五日七ツ半時大地震にて家々
多く崩れたる事其数しれず、人々六月十四日の地震の例に
[倣|なら]ひて地震凌の為に小船に乗て川に出たり、其跡にて海上
沖の方にて雷の如く鳴り出し津浪となり大浪高く打来り、
寺島辺□□島難波島天保山津浪にて人々皆屋根に上る、小
船を借て家□□人々をのせたる者ハ大船の下敷となりて死
人ハ何千人とも数しれす、北国の米船千石以上積の大船百
艘余津浪の為に内川へ押上げられ、道頓堀下日吉橋より唐
金橋幸橋住吉橋と四ツ橋落て大墨(黒)橋迄大船押上り、伝馬小
船ハ大船の下敷となりて船破れ死人数しれす、津浪ハ五日
の夜五ツ時皆落着たり、此津浪之時に味川口に其丈二丈余
の石地蔵の形なる化物あらはれ出て頻ニ浪を逆立て多の人
を殺せしとぞ、是ハ昔宝永四年亥の十月四日の大地震津浪
にて大坂の人多く死したる其菩提の為に石地蔵を立たる
が、其亡霊友よひせんとて現れ出て多くの人を殺せるなる
べし、宝永四年ハ今年安政元年地しんより少し[ ]富士山
焼ぬけて宝永山出来たり
一京都地しん破れなし併四月六日内裏炎上町家数千軒焼て難
の人多し
一四国土佐国百里浜悉く津浪に流され、四日五日大地震御城
の在々御城ハ勿論人家大崩れ死人数知れす、他国の人一人
たり共国内に入る事を禁す
一阿州四日の朝より七□□□方迄大地震七十度程ゆり、徳嶋
御城下大崩魚市場より出火にて御家老稲田様加嶋様御屋敷
焼け町家八丁四方程丸焼けとなり死人数しれず、海辺ハ十
三里の間悉く津浪に流され人家潰れ死人多し、土砂吹出し
て一面に泥海の如くなりたる所もあり
一讃州象頭山御宮を始御神領之町家迄一軒も破れす地震ゆら
ずと云、道一筋を境として御代官領の所ハ人家悉く崩れ潰
れて死人けが人多くあり、高松御城大破町家多く潰れ国中
の破損辞に尽し難し
一伊予の国ハ地しんの痛ミ手軽なるよし、四国ニ而第一番土
佐二番阿波三番讃岐四番伊予といふ説なり
九州豊前国小倉届書
一当月五日申の刻大地(ママ)ニて其夜五六度ゆり、七日の朝また
〳〵大地震ニ而人家大崩肥前肥後筑前右同断、豊後鶴岡別
して大地震人家過半の潰れ死人数知れす、同国府内人家四
五百軒潰れ死人数しれず、周防長門芸州皆大潰れ同様ニ御
座候、右之通御知らせ申候 以上
芸州広嶋届書
一当四日辰の時大地震五日申之時同断大地震六日七日も大ゆ
り五日より七日迄廿五六度ゆり申候、其後も度々ゆり、数
どり出来不申候、人々居宅ニ居不申皆野宿致し候、御城御
矢倉向大崩町家大潰れ死人尤多く往来御橋々皆落申候、此
段為被知申上候 以上
出雲大社地震聞書
一出雲大社神官白石遠江といふ人の咄に霜月四日出雲大社宮
中一向地震ゆらず、御社御番の社役人地震ハ一向しらすに
家に帰り候よし
一千家北島両国迄の御舘少も損しなし社中一統無難の事
一[五|い]十[狭田|さた]の小浜より三丁計り沖に沖の御前といふ小岩山有
て小社有之候処、其霜月四日は岩山迄俄ニ汐引申候、然処
十里許沖合に山の如き大高浪見えて、頻に陸に近付沖の御
前の岩山より十丁計沖にて其津浪折れて消失たり、是全く
御神助にて有難き事也、其後大社にて地震鎮の御祈禱あり
しといふ事なり
一江州大津三井寺の辺地震の破れ少しつゝ見たり
一粟津膳所の御城大手御門并土塀崩れたる所多くあり町家破
家所々に見えたり
一義仲寺ハ朝日将軍木曾殿の墓所也、木曾八幡宮有此処芭蕉
翁の墓あり
木曾殿とうしろ合せの寒さ哉
芭蕉堂にかけたる正風宗師の額ハ二条右大臣殿の御真筆
也、表芭蕉の額ハ丈草の筆也、左右の聯ハ高辻前大納言殿
の御真蹟なり、芭蕉翁の碑銘ハ其角の筆なり、粟津文庫の
額ハ呉越程霞の筆なり
一はせを翁は伊賀の上野藤堂家の臣なり、松尾氏又風羅初の
名ハ半七後ニ藤右衛門と称す、諱ハ宗房桃青と名つく、又
風羅房と号す、京師北村季吟に師事す、主人没して後に遁
世して江戸深川六間堀に庵を立、庭ニ芭蕉一株を植て芭蕉
庵と号く是ゟ世の人はせをと称す、元禄七年十月十二日寿
五十壱歳にて終り遺骨を爰に葬り今に芭蕉墓といふなり
一呼続の松ハ湖水の岸に在、爰より東に今井四郎兼平の墓あ
り、勢田の長はし地震のいたミなし
物の部の矢ばせの渡り近くともいそがはまはれ勢田の長
はし
一野路の玉川今ハ水あせて名のミなり
あすも来ん野路の玉川萩こえて色なる浪に月宿りけり
一草津森山辺ハ無難なり、爰より東海道伊勢四日市迄宿々地
震の破れあり、鈴鹿山は近江と伊勢の国境なり、田村将軍
の御宮あり、鬼神退治の古跡庄野より北の方に倭建命の御
陵あり
一江州彦根御城町家とも破損多く、美濃国ハ手軽のよし、信
州諏訪の御城半分崩れて湖水ニ落たるよし、松本の城下破
れ、善光寺辺今度ハ無難のよし
一甲州かぢか沢大崩、身延山町家破れ、其余府中辺無難のよし
一加賀国大聖寺御城并町家共ニ地震ニ而大崩れ、けが人多き
よし
一越前福井ハ六月十三日大地震ニ而城下の町家大崩丸焼ニ
而、同所両本願寺焼失のよし
右は予旅行見聞のあらましを記すのミ、諸国神明の霊験に
因て人民の助りたる事右に記すが如し、仏菩薩の霊験とい
ふ事更になし、然るに世の人多くハ神明を蔑し、仏を信す
るもののミ也、故にかゝる大変の災害降りて数万人の死亡
豈恐れざるへけんや
安政二年卯三月 弓道人書
尚古学室
(地震用心考)
○前掲「地震道中記」の経験をもとに書かれたもので、詳
しくは後掲の「地震用心録」参照。ここでは序文を写真
で掲げた。(注、写真略)
(地震用心録)
○これは前掲の「地震道中記」と姉妹編とでもいうべきも
ので、道中の見聞をもとに太神宮の霊験を強調し、地震
等の用心として敬神の心を説いたものである。ここでは
自序のみを収録した。この他に「地震用心考」(下段写
真)(注、写真略)と題する書もあるが、内容は殆んど
同じである。
地震用心録全
内書
地震用心録自序
輿地之円也如雞卵、有地中水火之坑穴而如蜂窼、二気和合而
蒸騰則土壌膏肥万物為之生育焉、苟二気不順相戦則在陸為地
震在海為逆浪山嶽崖崩城郭破砕民家人畜焼亡溺死可畏哉、
安政改元仲冬四日諸国地震、余当其日而独発足于伊勢神都
焉、直経東海道而南到于紀州上于京師粗畿内巡周而帰国焉、
諸州之破潰実見其状因人之善悪而所殊其禍福降神明之賞罸死
生存亡之現然、記之以欲備勧善徴悪、集其実事傍附其臨事用
心之術而、号地震用心録遺嘲於後世也、安政丙辰秋七月下総
州宮負定雄書
地震用心録
下総国 宮負定雄 記