[未校訂]安政五年二月十三日・二十二日(旧暦)と二度にわたる無気
味なうなりを聞いたあと、ついに二十五日夜、越中の天地を
轟かせる大地震が起ったのである。
この地震で、常願寺川の水源地大鳶山・小鳶山の西方が残ら
ずふもとからくずれ、土砂、岩石が滑川それに真川まで閉塞
し、いくつもの湖水をつくった。歴史に残る“トンビ山の
大崩壊”である。こうして数十日間を支えたこの深山の天然
の貯水池が、四月二十六日に至り、午後四時に一時に決壊。
とうとうたる洪水は大土石流となって、天をもおおわんばか
りの勢いで常願寺川扇状地に来襲した。洪水の本流は、町新
庄で、東西二つに別れ、町新庄から荒川へと西へきりこんだ
流れは、上富居、上下赤江、粟島、粟田、中島を埋没し、中
島村(現在の富山市中島地区)で神通川に落ち合った。
上滝から東岩瀬まで、やく四十キロ余りの間で、流失あるい
はつぶされた家屋千六百十三戸、流失土蔵八百九十六棟、溺
死者百四十人、負傷者八千九百四十五人という惨胆たる被害
であった。
山田敏一氏は『新庄史稿』の中で美女で次のように新庄の被
害を述べている。
「過去に、元和元年(一六一五年。新川神社を流す。その時
出来た川筋を中川といい、中川の東に向新庄村が出来た。)、
明暦二年(一六五六年。その時出来た川筋を荒川といい、
川の西に荒川村が出来た。この時、町新庄、向新庄、荒川
村に分れる。新庄に三っ名この時より始まる)と洪水があ
ったが、安政五年の大洪水は前後にその例無き大水で、二
月二十五日大鳶山(上新川郡大山町)俄然地震のために崩
壊し、湯川を閉塞し辛じて数十日間を支えたが、四月二十
五日夜(四月二十六日午前二時)に至り、深山の一大堰塞
湖の水が渓谷の一角を突き抜いたので逆巻く泥流は[宛|さなが]ら天
馬の空を[奔|はし]るが如く激流岸を嚙み、常願寺の左岸一帯の地
を怒濤の荒れ狂うに[任|まか]せ、十里の美田一朝にして[荒蕪|こうぶ](あ
れはてる)に帰し、人畜の死傷、家財の流失あげて数う可
からず。[酸鼻|さんび](いたましいこと)の状、[筆舌|ひつぜつ]の[能|よ]く[燼|つく]す所
にあらず、後世永くその惨況が語り伝うる所となった。新
庄新町が濁流の瀬先に当り、最も[凄惨|せいさん](非常にいたましい
こと)を極め、屋根の上に避難する間もあらばこそ、見る
〳〵うちに家財[諸共|もろとも]押し流され、[上富居|かみふご]村の[辺|あたり]まで溺死者
が多数あり、新町の寺子屋師匠盛田与右衛門の家も水難に
遇うた。命拾いした者は古城跡の百足山つづきの丘の上に
のぼり、辛うじて小屋を掛け一時を凌いだが大水が引いた
後それまで新町にあった正願寺を始めとし、黒川、橋本、
佐伯、宮嶋氏等が相次いで荒川の西に移転し、荒川、経堂
まで町家が軒を並べ、綾田、田中も元村から街道筋に家を
移し西町(双代)の武具師の家も城の南方の川端屋敷から
移転して来たので、川原の町並みが賑うに至った。」
なお、この大洪水のあとについて常川湜氏は、『新庄町史』
の中で、次のように述べている。
「洪水のため、広田川(林十作・三鍋良三郎の屋敷地はそ
の川跡なり)も埋没され、位置も改変(新庄役場敷地、現
在消防署跡)され、被害地一帯は泥濘(とんべどろという)
を以て敷きならされ、凹凸は平均され、浅きも数尺深きは
数間の土盛をされし如くで、現今稲田面の基礎を築き上
げ、[遉|さすが]に[磽确|こうかく](石多きやせ地)[卑湿|ひしつ](低くして湿気がある
こと)の[瘠土|せきど](やせたる土地)も、今日の美田と化せしこ
とは、驚嘆の外はない。
現に洪水以前、鍋田・中富居[辺|あた]りは、非常の[瘠|せき]地で、時の
人は、
鍋田中富焼けつけ所、嫁もやるまい、嫁も[娶|と]るまい。
といいはやされた程、[不味|まず]い瘠土であったが、洪水後は一変
して、今日の美田と化したる如き、その一事をもっても証す
るに足るであろう。
更に、『新庄町史』に載せられている高桑致芳・杉木有一の
記録を参考のため記載する。
一安政五年一月二十五日、夜の大地震に小鳶崩壊し、大鳶
[半虧|はんき](半分欠けること)して、温泉谷を埋め、四里の間、
一目に見るようになり、温泉未だ開かざるも、湯元より
[仕拵|しつらい]に[遣|や]りたる[杣|そま](きこり)三十三人、人足[狩人|かりゆうど]三人、
土中に埋む即死。
一同年三月十日、常願寺川出水、昨月二十五日の地震につ
き、堰止めたる上流、谷口の川等切れて、溜の水一時に
出て、川筋大変潰家多し。
一同年四月二十六日、同川出水、前条同断にて、此度は甚
しく新庄町泥に埋まる、川除土居より川底高くなり、上
滝野へ長さ八間余の大石流れ出づ
一同年七月二十二日、夜の大地震に後立山の内崩れ、黒部
の上流をせき止め、二十町許り水溜りたる旨、岩峅寺よ
り注進せり。(高桑致芳稿)
(注)
新町高桑致芳の先代、辰右衛門、辰之進までは、多枝原温
泉を所有したが、当時は湯小屋もなく川原に[露宿|ろしゆく]したもの
であった。
文化十一年(一八一四)弥陀ケ原より温泉に至る新道を開き、
浴場を設けたが、同年五月新川郡利田深見六郎右衛門新道
を開き、岩峅寺へ運上銀を渡し、湯元となった。
石割の杉木有一から、御郡所へ上った水害図面の附録文
安政五戌午二月二十六日、[暁子|ぎようし]の刻頃、大地震にて常願寺
川奥山山抜け、岩石砂にて堰止り候分、三月十日昼午刻
頃、山中振動して一時に流出し、東の方日置領より、入川
を致し、竹内村、無量寺より、白岩川へ落合い、数十ケ村、
御田地大凡二千五百、人家多く、岩石砂入り、相成り可申
候につき、
同月十二日、奥山の様子見届のため、芦峅寺村・千垣村杣
共八人、為指登見届させ候ところ、山口深雪にて悉く見届
兼候へども、多分此後の水難は有之間敷旨申聞、此段兵三
郎より、御郡所へも相達候処、同月二十六日に至り、奥山
は淀水一時に流出、先月十日に流出し置候、岩石砂等押出
し、十日洪水よりは強く、
西川上、横内用水辺より入川、これは三室荒屋辺、太田本
郷より富山御領清水村方面へ押付け、[鼬川|いたちがわ]へ落ち入り、富
山市大橋、裏の橋等々不残押切、神通川へ落合う。
又[上|かみ]に大場前、上丁場辺より、これは西の番村より、天正
寺村・東長江村・富山柳町・稲荷町・綾田辺、富山御領稲
荷村・奥川村辺より、神通川へ落入る。
又上中川口、御負請上下丁場、並に大中島丁場辺は不残押
切り入川、之は金代村、荒川村・新庄新町を押潰し、上富
居村・鍋田村・粟島村・中島村・南より神通川に落る。
又朝日村、御普請上下丁場辺より入川、これは朝日村・藤
木村・中間島村・向新庄村・一本木村・手屋村辺より常願
寺川[元|もと]川に入る。
[大凡|おおよそ]常願寺川西の方、南北は五六里、東西二里許りの間、
一面泥世界と相成、御田地御領二万石余、富山御領は不相
知、随って人命も表向は、二百人ばかりの溺死に候へと
も、そのうちには、一千にも及候と申沙汰。
これによって午五月六日、常願寺川奥山西方真川筋、為見
届山廻足軽佐野伝兵衛、奥山廻り太田本郷村覚右衛門、東
方湯川筋見届として、同足軽勝岡、同山廻り上市村五平
太、被指遣候。
西の方、佐野手合の見取図、御郡所へ上る(杉木有一)
前田(富山藩)家来にいう。
安政五年二月地[大|おおい]に震れ、城中石垣崩壊し、大樹倒れ、地
裂く、この時大鳶山崩れ、常願寺川[壅塞|ようさく](ふさぐ)し水流
通ぜず。四月十一日、怒流[暴|にわ]かに至り、大石を飛ばし、[淤|お]
[泥|でい](どろ)を[奔|はし]らす。上滝村以北東岩瀬に至るまで、人畜
死傷そのかずを知らず。余波[我邑|わがむら]、稲荷町、人家を没し、
柳町天満宮社内に入り、鼬川架橋尽く流失せり、これ大場
前堤防決壊せるによる。
尤も太田用水は、我封内に関する処なり、その修築費金千
四百両、人夫五万八千六百人余なり、罹災者を救して、一
万四百を免租し、その流産者を三等に区分し、一時白米一
升、二升、七升を給与せられ、窮者には百万を救恤し、別
に四月十六日より十二月晦日まで千五百石を給与す。
(注) 大場前堤は鼬川支流の水源地で、富山に取って要害の
地であるから、富山藩の主唱によって築造され、今尚同
堤防裏に広大なる松樹の水防林が存置されている。俗に
“殿様林”という。
安政の洪水に関する記念碑 今、地鉄本線をまたぐ陸橋の
下に、安政の大洪水のため溺死した広田・針原用水の関係
者、四十五名を記念する碑が建てられている。撰文・揮毫と
もに林周世民氏によるものである。
これによると、安政五年春二月二十五日地震があり、常願
寺川の水源である大鳶山が崩壊して川をふさいだため、下流
の村民らは田畑の用水が[涸|か]れたのをみて大変驚き、広田及び
針原用水の関係者は水を引こうと、荒川の堰入口である大場
(現富山市大場)で作業中、四月二十六日に山がゴウゴウ鳴
り響いて、濁流俄かにうずをまき、波をおこして流れ込ん
だ。
[役夫|えきふ]([人夫|にんぷ])はあわてて逃げ出したが、時すでにおそく、逃
げ場を失って見る間に四十五名の役夫が溺死した。明治二十
三年四月二十六日、三十三回忌に当ったので親戚が集って荒
川橋畔(今は陸橋の下に移されている)に一基の碑を建て弔
うた。
その氏名は次の如くである。
牧野四郎平 内山弥右衛門 牧野孫二
黒田四右衛門 森田安左衛門 富田鉄太郎
鍛冶三郎右衛門 富田猪次郎 鍛冶守三郎
真田太郎 楠三吉 鍛冶清兵衛
渡辺甚右衛門 鍛冶弥吉 酒井宗右衛門
曾根善太郎 金尾松次郎 山本勘右衛門
岸高紋三郎 吉田吉次郎 上吉佐次平
西野四右衛門 高見円三郎 力田伊左衛門
田中次三郎 広田甚右衛門 石田虎次郎
広田庄次郎 富田正太郎 越田竹次郎
能登部平八 今井弥次郎 楠三次郎
内田清四郎 草野与四郎 鍛冶政次郎
吉田宇之助 広田庄八 鍛冶小右衛門
鍛冶半三郎 横川勘次郎 水野仁右衛門
田添太郎 吉野兼次郎 三池三右衛門
なお碑には、
人生天地之間戴天寄地以寧苟遇天災
地変即失民所其寧矣于時安政五戊午
年二月二十五日地大震鳶獄為之崩壊
壅塞常願寺川而水不流旬余日是以川
傍之村民大恐愕焉同四月廿六日山獄
鳴動如雷濁流漲天俄然来勤広田針原
分水役者無所避水患溺没者数十名矣
今茲丁三十三回忌年親戚旧友相集共
計誌石為令往昔地変事実知後世噫吁
不悲傷哉
明治廿三年 四月日