[未校訂](注、宗学者善譲の教示文の本文は省略)
註 この教示文は、安政五年の大水害で多くの人々を失った
本宮、原方面の善男善女に、その後十年後の元治年間、真
宗本派の宗学の大家であった興隆山寺務善譲が、真宗の大
義をねんごろに文書で教示されたものである。
只今は本宮の山元徳次氏宅に所蔵し、たて一尺、横十八
尺の巻軸になっている。
(本宮)
下本宮は上本宮から早くより分村していたらしく、善右衛門
分家の文右衛門(現在北海道)があった。ここには室町時代
の五輪塔や鰐口が出土した。草高五十三石免一ツ五歩、一村
の戸数を四十三戸に限定している。何百年の後、安政五年の
大地震に際して、山側の「林の平」に亀裂を生じ、部落が危
険に瀕したので下本宮の現地に移った。立蔵神社は立山縁起
によれば大品山近くの高[崩|つぶれ]の地にあったらしいが、後に村中
に移された。(佐伯覚音、山元重信氏談)
安政の大水によって、それ以前芦峅側の段丘下まで広がって
いた村の農耕地が殆んど埋没し、昭和一二年完成の本宮堰堤
によって完全に埋ってしまった。その貯砂量実に五〇〇万立
米。
安政五年()(ママ)二月二十六日の晩大地震があって、大
鳶、小鳶山が崩壊して、立木土石等が湯川に落込んだため、
立山温泉で工事していた人夫五十余人が土中に埋没して死
に、湯川の水が溜って水溜りとなった所が三四ケ所あった。
この水が切出ると上滝村から水橋までの常願寺川両岸の村落
では田畠や家屋が流失するという大被害をみるので、上滝は
じめこの地方の人々は戦々兢々としていた。
上滝村の人々は大川寺の門前、中滝の者は中滝山の地内に、
中番花崎の人は熊野川沿ちのさいのかみに小屋掛けして避難
した。
三月十日 いよいよ常願寺川に出水した。これは溜の水が一
時に溢れ出たため、川筋の潰れた家が多かった。
四月二十六日 再び水が出て、このときは甚大な損害をうけ
た。「上滝野へ長サ八間余ノ大石流シ出ヅ」というように、
常願寺川は土に埋まり、川除土居より川底が高くなるという
始末であった。
このとき、中番村、両馬瀬口村、下番村では家屋が流れた。