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項目 内容
ID J1700140
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔大山史稿〕S35・5・31 大山町史編纂委員会
本文
[未校訂](注、宗学者善譲の教示文の本文は省略)
註 この教示文は、安政五年の大水害で多くの人々を失った
本宮、原方面の善男善女に、その後十年後の元治年間、真
宗本派の宗学の大家であった興隆山寺務善譲が、真宗の大
義をねんごろに文書で教示されたものである。
 只今は本宮の山元徳次氏宅に所蔵し、たて一尺、横十八
尺の巻軸になっている。
(本宮)
下本宮は上本宮から早くより分村していたらしく、善右衛門
分家の文右衛門(現在北海道)があった。ここには室町時代
の五輪塔や鰐口が出土した。草高五十三石免一ツ五歩、一村
の戸数を四十三戸に限定している。何百年の後、安政五年の
大地震に際して、山側の「林の平」に亀裂を生じ、部落が危
険に瀕したので下本宮の現地に移った。立蔵神社は立山縁起
によれば大品山近くの高[崩|つぶれ]の地にあったらしいが、後に村中
に移された。(佐伯覚音、山元重信氏談)
安政の大水によって、それ以前芦峅側の段丘下まで広がって
いた村の農耕地が殆んど埋没し、昭和一二年完成の本宮堰堤
によって完全に埋ってしまった。その貯砂量実に五〇〇万立
米。
安政五年()(ママ)二月二十六日の晩大地震があって、大
鳶、小鳶山が崩壊して、立木土石等が湯川に落込んだため、
立山温泉で工事していた人夫五十余人が土中に埋没して死
に、湯川の水が溜って水溜りとなった所が三四ケ所あった。
この水が切出ると上滝村から水橋までの常願寺川両岸の村落
では田畠や家屋が流失するという大被害をみるので、上滝は
じめこの地方の人々は戦々兢々としていた。
上滝村の人々は大川寺の門前、中滝の者は中滝山の地内に、
中番花崎の人は熊野川沿ちのさいのかみに小屋掛けして避難
した。
三月十日 いよいよ常願寺川に出水した。これは溜の水が一
時に溢れ出たため、川筋の潰れた家が多かった。
四月二十六日 再び水が出て、このときは甚大な損害をうけ
た。「上滝野へ長サ八間余ノ大石流シ出ヅ」というように、
常願寺川は土に埋まり、川除土居より川底が高くなるという
始末であった。
このとき、中番村、両馬瀬口村、下番村では家屋が流れた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 602
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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