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項目 内容
ID J1700125
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1858/04/09
和暦 安政五年二月二十六日
綱文 安政五年二月二十六日(一八五八・四・九)〔飛騨・越中・加賀・越前〕
書名 〔地水見聞録〕「越中安政大地震見聞録」S51・6・6 KNB興産(株)・富山県郷土史会校往
本文
[未校訂]今年安政五戌年のとし春、如月廿日あまり六日のあかつき八
つ時すこし前、厳しき地震のありしを、前代未聞の珍事に
て、其見る所きく所驚かざるはなしとて、永く孫彦までニも
しらしめ、且後の心得とも為させんがため、予が見聞におよ
びたる其一・二を奥に誌す、猶知りがたき事ハ、人をして其
地の実を見聞させ、その談語を其儘にしるす、又言葉にてい
ひたらぬ事は、木村雅経をして図に顕ハししらしむ、はた地
震によって立嶽の半覆なる連山のうち[峙|ソハタチ]たる何山とか、崩れ
落る、谷ハ岳となり、岳は淵と変りたるよりして、常願寺の
大河も流水淀み、川下其[辺|ホト]りハ云ふも更なり、深くかんがふ
れば、連山の谷々に淀み溜りたる閑水、若山切れ一時に落来
るときハ、我国一円の水海とならんも計りがたかれば、人々
高き岳あるいハ山へ立退んと、武家・商家の別ちもなく、こ
ころ〳〵に西南の山手をさして立退たる有さま、見るもあは
れ、かつ恐る可き事ならずや、依て山嶽崩れし実地、是また
絵図もてしらしむ、猶後の人能心して常に油断なからしめん
事を欲す、諺に、立山がくづれ来るとも大丈夫なる人などと
申せし事も、現んに其山崩れ懸りし事なれ。バ、恐るべき事む
べならずや
我御国、寛永の頃御入城このかた、未だ聞ざる事どもにて、
往昔慶長年間初の頃にや、越の中州大地震とて、今石動のほ
とりなる木船の御城主、恐れ多くも右近将監[利範|トシノリ]公御居城の
処、山地なるがゆゑか崩れ込て、御城は勿論其ほとりまで一
円埋りたり事、三壺記ニ其よし[粗|あらあら]見えたれど、それより后に
ハ此たび程の事ハ、更に聞及ばざる事なれば、人々周章驚き
途を失ふことわりなり、されど御国の御掟の正しきにや、人
々の能心得しにや、家潰れ怪我などもさまでなきは、何より
の幸ひにて、神仏の加護ならん事いちじるし、天変地変は限
りなきものなれば、此上にいつ何時、いかなるうき目にあは
ん事の量りがたきをふかく恐れ、剛欲ハせざる事にて、何事
も人々助け合、世を渡るをもて本意とすべし、我ひとりよし
として、うからやからにうきかなしみあらば、見捨聞捨にハ
なるまじ、又親々なき人とて、まさに死地に至らんとする様
をみて、[与所|よそ]に見るべきいわれなし、[左|さ]あれば常々に其心を
して、地震にハかくせよ、洪水にはとあれ、火事にハかしこ
に出よ、[雷|ライ]にハ[爰|ココ]にと予め教え置きてさへ、不時なる事ハ周
章騒ぎ立事人情の常にて、笑ふべき事ならず、同じ動ずるに
も心して動ずる人と、心なふして動ずる人とは大きに違ひあ
る事、その事情によりて知るべし
されば廿六日暁天地震の有さま、先は五・六ケ国も一時の発
動なれば、彼我とくらべ見るべき事もならず、わが一家内に
ても其さま一やうならず、逃出るにも前なる口より出るもあ
り、又後なる切戸より出るもありて等しからねども、爰に予
が身に覚えたる所をもて誌しぬ
さて此頃東都より来りし異船渡来の書物くさ〴〵あるが内
に、和蘭交易につき、公辺御政革の御条約のありし一巻、写
置ばやと宵より机に懸り筆を執り、一くさり二くだり写ぬれ
ば、いよ〳〵跡々もとく写ばやと、はからずも夜ふけ九つ頃
までに一巻書畢りぬ
それより筆を止め寝所に入り休ぬれど、兎角眠り兼て、四方
山の事どもを思ひ出し、彼是とするうち、時も移りしが、何
となく動気するは病のなすところならんと気を鎮め居たり、
臥したる傍らにハ主税も枕につきしが、かれは宵より岸助之
丞かたへ会読に出て、戻りし頃ハ九つ時頃にて、少し酒の気
もありて、とこに入るよりいと早く寝入りし様子、程ありて
いづこともなく鳴動する音すさまじく、其音バサバサと鳴り
出せしゆゑ、こは地震ならんと□(直カ)に起上り、右手なる縁障子
を明けんとすれども、明け□□(がたカ)く、されどちからにまかせむ
りに押あけ、雨戸も同じく無体に押明け、土縁まで飛出、爰
にて内なる妻子を呼立て、地震なるぞ出よ〳〵と数多大声に
て呼立れども、誰ひとり答ふる者なく、いかゞせしにやと猶
呼立るうち、追々ひとりづゝ出きたりしゆゑ、手もち腰もち
して南の庭へ押出す、折柄猶震動不止、戸障子其外唐紙・雨
戸の鳴り響く音の[冷|すさま]じき事、譬へんに物なし、予ハ雪除雨戸
の間柱に手を懸け、漸々立たるまでにて、更に人心ちもなき
内に、主税ひとりハいまだ出たる容子はなきゆゑ、震動のう
ちながら、家潰るゝには程も有るべし、今の内ぞと間の内へ
飛入り、寝所を手探りに見れども、もはや逃出したるにや、
枕ふとん斗りなれば、北縁より出たるならんと、北の鞘をみ
れど、障子・雨戸も其まゝなれば、爰にてもなし、何れより
出たるならんと、また土縁に出て、外なる妻子に尋ねれバみ
なみなそれハと驚き、騒ぎの中のさわぎにて、いかにせんと
しばしハ[十方|とほう]を失ひしが、其内東の方に声する様に聞えしゆ
ゑ、かしこに至り見ばやと家腰の通りニ差懸り、中程にて主
税にも行逢、先づハ安堵し、南庭の松樹の下に妻子を集へ、
まどゐになし置、予は火の元を心附、こたつなどの始抹せし
が、行燈は皆倒れ、消はてて真闇なれば、何事も自由ならず
と手燈灯取出し、蠟をともして、女房達に一張づゝ持せ置
それより予は玄関の方へ至り見れば、当番の侍立たり(ママ)共、寝
巻のまゝ立出たるまでにて、何も忙然と立たるゆゑ、とく火
事具を附よと差図、馬は台所の前なる松樹に牽つなぎ置しゆ
ゑ、是にも鞍を置よと直にいひ付、南庭に立帰り、空を見る
に、一面に赤く、星近く見えて尤色赤し、折々流星もあり、
所によりて火事よと呼し者もありしときく、げにさる事也
さて八つの鐘きこえぬ、是より少しは落着き、雪除の板戸な
ど取出し、其うへに畳四・五畳敷並べ、一囲として幕打廻
し、さながら野陣の構をなし、幼き者どもにハ抱巻など取出
し、寒さを凌べき手当もさせ、あるいは火鉢など取出し火を
拵へ、呑湯を涌し、家僕にハ飯をたかせなどして、夜を明さ
ん支度の事に心を用ゐたるなどの細事は大かたに略しぬ、偖
横通り町並の家々にハ人々助け合ふ声々は、火の本要心せよ
との事にて、四方の人々色々ニ呼びさけぶ有さま譬ふるに物
なし、其内我舎より西南なる隅にあたりて、悲しき人声にて
頻りと呼立るは、若火ごとにやあらんと聞定むれど、火の手
も見えず、何事ならんと考ふれば、獄舎の人々震動に恐れ、
出し呉よとの泣さけぶ声ならんかし、いと悲しき有様きくに
忍びざる事どもなり
其うち非番の家臣ども近くに出きたるニ、いよ〳〵力らを得
て心も丈夫になりしは、危難の中の悦びにて、もはや七つ時
近くなれば、皆々打寄り食事など調ひ、幼きものども休らは
せ度おもへど、俄の事なれば、すべきやふもなし、其うち心
付、駕籠二挺取出し、ふたりの孫、乳母諸ともかきのせ、此
内にて夜を明させんことになしぬ、我輩は雨傘或いは長柄の
傘にて夜露を除けしが、此夜は殊に霜深くふりて、夜明頃み
ればそこらあたり雪かと計りあやしまれ、真白にぞありけ
る、その頃野村宮内ぬし、或ハ入江民部・江尻春達・末家三
郎助な□(どカ)来り、互に怪我もなく無異なるを悦び合ぬ、扨震動
はいまだ不止、少しのと絶えあれど、折々震へる様子ものす
ごし、強き地震にハ火事はかならず添ふ物ときけど、家潰れ
又は逃退く折、火のもとまで心を用ゐ兼る物なれバ、やがて
火の手もあらんかとおもひしに、兼々御掟の正しきうヘニ、
人々心して置しにや、火ごとハ少しもなき事、実にも幸ひと
云□(ふカ)べし
偖かれこれせし内、夜も明け、人々尋ね来り、市中の有様を
きくに、さながら東都安政見聞録に著述せしに異ならず、中
にも小嶋町何がしといふ商家にハ、親子五人くらしの者なる
が、幼童ものをかき抱き逃出、またふしたる残りの幼子をつ
れいで、再び家の内へ入りしが、いかなる悪縁なりけん、家
潰れ、夫婦ふたりの者はあへなくなりしよし、三人の幼子者
まで戸外に残り、無事を聞ゆるハあはれかなしき事どもな
り、覚中町にも三軒のき並びに潰れし家もありて、其下にな
り、命も危き事ながら、あたりの人々打寄り、時を移さずほ
り出したれば、少しの怪我にて命にハさはりなきよし、また
殿町九艘坂に住居する、堀甚次郎宅之屋根へあげ置所の用心
水の大釜、[後ロ丁|うしろ まち]海老町の商家何某の土蔵の後ロへ飛来るよ
し、其間三間斗り有之由、されども右釜の水一滴もこぼれ
ず、其儘人の持運びし如くニ居りありしとぞ、此等にても地
震の強勢察すべし
陣御触ありて、朝五つ時登城して、君上の御機けんを伺へよ
とあれば、程のふ主税は出ぬ、下城の折から近き類家に至
り、安否を尋ね廻り無事を賀し、昼過て帰り来ぬ
夜明後に家宅の破損を能く見廻るに、所々の壁落たるハ夥敷
事にて、まづ惣壁無難なるは稀にて、間毎に落たるもあり、
中程割たるもあり、四隅とも割裂たるもあれば、日を追て惣
ぬり替とせざればならぬ事となりたり、亦第一にハ玄関の前
なる柱左右二本共、根太持の石より東へ飛出たる事三・四寸
にして、腰板、其外、こまへ・[樌|ぬき]も離れ〴〵となりし様いと
あやふし、今にも一震ひあらば其儘潰れ倒れん様子なれバ、
直ニ出入の大工清吉を呼迎へ、仮りの修理をして当座を防ぎ
ぬ、又台所なる煙出しとて、弐間四方斗りの一段高く作りた
る屋根は、何の手もなく押潰したり、是はあらたに造り添へ
ぬ、表書院は一棟惣て西へ一寸余かたがり、奥坐鋪居間のあ
たりハ一間〳〵ひとしからず、障子唐紙など倒れ、又は板戸
ハ裂けたるもありて、破損せざるハ稀にて、一々しるすに暇
なし、又惣囲ひの塀は惣て土台石より四・五寸も内の方へ押
込、或ハ積石押出し、今にもたふれかゝらんさまにて危ふ
し、扣木ニて持堪へたるハ先づ仕合とせんか
偖御城の様子追々伝ひ聞侍るに、第一御本丸御屋形も所々破
損多く、殊さら鉄御門の石垣崩れたる由、是は往昔大納言瑞
龍公御在城の折柄、格別手を篭め築かせられし穴生石積なる
も、此たびの災に崩れしこそ是非なけれ、また同所の土橋も
中程下積の石崩れ、凹になりたるよし、左右の柵は震ひ落
し、堀水ニ浮たるは、さながら筏にことならず、また二の丸
二階御門の土塀出狭間ハ震ひ落し、同所西なる土塀も崩れ
落、堀の藻くづとなり、土居なる松杉の大樹も根こぎとなり
て堀内へ倒れたる様、見るも哀れなる事どもと、聞く毎に驚
かぬ事はなし、されど千歳の御殿造りハ御無難ニて、潰れ倒
れたるかたのなきは此中の恐悦なり、上様がたハとく御園に
出させ玉ひ、少しの御怪我もなく有らせられしと、人の語り
きかするを聞て、予も蔭ながら恐悦の思ひをなしぬ、されど
表の御門ハ潰れん斗りにかたがりたるよし、是ハさもあらん
かし、左右は力らとなる建物もなく、扣柱など有とハいひな
がら、家根ハ大きく重もければ、厳しき震ひのためにハ直に
一地震昼夜大小玉附 但し黒星は夜 白星は昼と知るべし
倒るべきハ当然ならん、また市中のさまもて推し量れば、御
土蔵〳〵は皆壁土を落し破裂したる事疑ひなし、とく御修理
ありて火ごとの御用心ありたき物にこそ
また三の丸破損の所々をきくに、最前御作事所屋鋪内なる稲
荷社あたりより西の方大地割れ裂け、高低四・五寸より尺余
ニも及ぶ事、横格子の如く成たるよし、古き囃にハ地震厳敷
時ハ大地も割裂する物なれバ、とく逃出たりとも、平地にハ
居がたきものにて、竹藪などへ立退くものと、年老たる人の
教訓もありし事、よそごとニ聞伝しが、こたび大地の割を聞
てハ、虚事ならず思ひあたれり、又大下馬のあたりより文武
学校のあたりまでも、同じ様に割裂したるよし、御郭外にて
も諏訪河原など殊更厳敷よし、一様の地震といふ内にも、土
性ニもよるか、但し少しの違ひにて震ひやうに強弱のありて
か、破裂地割れのあるなしにて猶考ふべし、其外御城下所々
に大地割れ、水を吹出すといふ所々、予が聞たるは平吹町、
或ハ千石町湯屋の納屋・大工町・角田町(南田町カ)蓮照寺前、是らの類
ひ所々に有るよしなり、猶また石垣の崩れたる様、大地の割
れたるさまなど、委しくハ書とりがたきによりて、図面をも
てしらしむ
一御家中の人々居宅の破損一様ならず、潰れ家といふはなけ
れども、住居も成がたき程に大破せし人々ハ、諏訪河原後
通りの家々のよし、姓名もてしるしぬ、杉坂万吉・三沢権
三郎・吉田伝七・奥田市之丞・小川甚八郎・池田宗右衛門
・堀源右衛門・大石小左衛門・水越五兵衛・久保伝三郎・
柴田権作などの家居ハ大ヘニ(ママ)破損せしよし、其中ニ屋敷の
地面割れ、水吹出し水込ニなりし所もありと聞ゆ、亦予の
前丁の安井八郎前通り、土塀門より西の方七・八間之処皆
押倒しぬ、土蔵は何方も過半大損じにて、土壁みな震ひ落
したるもあり、半ばハ落し、半ばハ残りたるもあれど、壁
ニ割れ目のあるハ皆非常のためにハならぬと、大工・左官
などの職分にていふなれば、人々こころしてとく修理を加
ふべし
偖廿六日の昼のうちも度々震ひし事なれば、今宵は庭にて
仮寝せずんば不用心ならんと、人々思ひ〳〵に仮り小屋な
どをして、雨露を凌ぐの手当など拵へ、町家の者ハ通り町
中に出て、簞笥・長持などを並べ、其間ダ〳〵に家内寄り
集り夜を明したるさま、安政二年の東都地震に異らず、予
も仮小屋にてもしつらひ、今宵あかしてんとハおもへど
も、幼童の孫などあれバ其事もなりかね、縁先きへ駕籠を
並べ置、雨戸・障子も明け置、今宵は夜を明しぬ、三・四
たび震ひもあれど、戸外する程にもなし、且夜の五つ頃よ
り雨も降りて物静なれば、少しハ心も落付ぬ、地震のある
たびに、白黒の星付にて昼夜大小の印をせしは、安政見聞
録ニ習ひ誌しぬ、見る人はんじ玉へ
一地震昼夜大小玉附、但し黒星ハ夜、白星ハ昼と知るべし
(注、御城辺之略図他五六三頁)
一御郡方の事追々聞ゆるハ大同小異にて、一村〳〵ニ強弱等
しからず、郷内も広き事なれば委しく知りがたく、一々は
誌し得ざれども、伝聞たる一・二を左に誌す、中にも婦負
郡の内下野村は[家員|いへかず]三十あまり有けるうち、二軒ならで無
事なるはなし、残りハみな押潰し又は半潰れのよし、され
ど人馬の損じハそれ程にハなしといふ
また嶋の内岡崎徳兵衛といふ旧家の百姓ありて、二代君な
と屢御休泊遊したるゆゑ、よき殿造りもありしが、是も半
潰れと成たるよし、間のうち敷板など凸凹となり、とても
造り替へせざれと危(ママ)き事に成たるよし、其余所々の田畠に
も同じ高低をさしたるさま物すごし、或は地割れ水を吹出
し、青黒き砂子を吹上ぐる所村々に数多ありて、家潰れ家
かたがりなどせし事しるすに暇なし
また細入飛弾(ママ)道の山々谷々は、いとつよく荒らしたるよ
し、勿論山崩れ神通川になだれ落、舟橋辺廿六日暁ころ、
俄に流水少くなり、有沢辺などはゴヲリを手取りニ拾ひし
よし、同夜四つ時過、舟橋へ水七・八尺斗り一時に来るよ
し、夫迄ニ而事済しハ幸ひといふべし、されど日数たちて
も水の濁りたる儘にて、いまだ清水とならず、さるによっ
て農民ひたすら愁ひなげき村長に告げ出て、早苗の種米を
水にひたす事を得ず、苗代に事を[闕|かく]との噂もあれば、其[司|つか]
サ人ハ深くこゝろを痛むことぞかし
また西の山手[北代|きただい]といふ村人、地震の折から[十方|とほう]を失ひ、
とし〴〵ねバといふ土をほり出したる穴あり、其穴の蔭に
入りて腰をかゞめ居しうち、又震ひありて上へなる土崩れ
落て埋れ、其穴にて即時ニ命を失ひたるもあるよし、余り
愚かなる事ながら、野夫などにハなきにしもあらず
また神通川の上み下も鱒とり川人、夜毎に舟にのりて出る
事此節の常にて、川辺の者はきそひて出る事、日暮より夜
の明るまで川を下り、漁とる最中の時尅なれバ、余念のふ
網を(ママ)遣ひ居し折から、かの地震ニて忽ち舟をくつがへし、
水におぼれ死したるとも、またハ命ばかりたすかりしとも
いふ、川人は舟を家宅の如く思ふものから、夜吏く(更カ)ら闇殊
ニ不慮の事なれバ、かゝるあやまちなしともいひがたしま
た四潟(方)の浦人四人まで波にひかれ失せたるよし、是ハ能登
山より来りし薪荷舟を引あげんとする折しも、十二・三
間も引波して打返したる高波に引こまれ、千尋の底のもく
づとなりたるよし、何れをきゝても哀れ悲しき事のみに
て、地の神の荒々しき災にあふも、皆因縁約束事とハいひ
ながら、こころすべき事□(なカ)らんかし
一四潟(方)・西岩瀬の破損潰家など聞伝るに、大体は御城下にひ
としく、少々は弱くありしにや、四潟(方)にては御塩蔵一ヶ所
破損せしのみにて、外にさはりなしといふ、西岩瀬御米倉
も余程破損ありたれども、御米にさハりなし、亦八尾宿ハ
余ほど家潰れ、怪我人もありたるハ、山地なればなめり、
又八尾より少しこなたなる丸山てふ茶碗などの焼物師甚左
衛門という宅ハ、焼物を入れ置し蔵一つ潰れ、其うへ廿七
・八日頃ニハ本焼をせんとて、兼て焼釜・茶器其外数多積
みいれ置しが、其まゝにて釜も押潰し、残りなく微塵とせ
し由、過分の損失ときく、笑止なる事どもなり
笹津より細入り飛弾(ママ)道へかゝりてハ、山崩れもあまたあり
て、通路もしばしハ絶えたるよし、委しくハ其筋の人なら
で知りがたく、[予|あらかじ]めを聞しまでにて、いづれをきゝてもお
そろしき事ども、筆にも書とりがたきさまのみなり
所はさだかに知りかねたれども、大地震のあくる日ニ至
り、少し安堵の思ひをなしたる折りしも、後なる高き岳崩
れ落、家々も微塵ニなしたる所もありけるよし、是らハ山
の内破裂したる所ありて、程経て崩れたるならんか、また
大ひなる岩石など折々峯々よりころび落る事あるがゆゑ
に、うかと往来もなり難く、また危き山蔭などの[栖|すみか]は所を
さり、よき平[岳|をか]に仮庵を結び、それにて夜をあかしなどす
るも有よし、さもあらん、御城下近き呉服山麓大松原など
の松蔭にあまた仮庵をしつらひ、妻子一囲〳〵に住居する
よし、いか様□(心カ)ありての事ならん、譬、家潰れハなくと
も、住居も成難き程荒れたるか、又ハ此後とても強く震動
もあらんかとかくせしならん、御城下にても、武家は元よ
り、商家なども空地持たる人々は、堀こみ柱にてわら菰或
は桐油を覆ひ、夜の内ハ爰にて休らひする事、誰れ教ゆと
もなけれど、人々同じ心にて其設けさま〴〵也
予も園の内ニよき所を選み、仮小屋を営み置しは、もしや
此後も強く震ひのあらばとのこゝろ設けにて、敢て其仮庵
に枕をとるにハあらず、共人ハ勿論やひ(ママ)なき幼児まで、暮
に及びても安く眠りにつかず、乳母の背に負ハれ漸々打眠
るをもても、深く恐れたる様推量り知るべし
一亦爰ニ一奇事出来したるハ、立嶽全山の内に種々の名あ
る高岳のうち、廿六日大震ひの時大鳶・小鳶、向ハ松尾・
水谷抔云山々、双方ゟ湯川へ崩込、温泉ハ何丈とも不知土
の下ニ相成り、此砌湯治人ハ無しといへども、普請に入込
居る処の人夫三拾何人、其儘埋り、影も形もなく、かつ右
崩れ込し岩石・大木・泥土、行溢、八里斗り下もの岡田辺
江まで即時にナダレ出、原村ゟ先之真川筋至而深き谷川に
て、是迄ハ水色難見得程之処、眼前に見渡す川と相成、
原・本宮辺のものども地震に目を覚、驚き逃出しニ、ナダ
レ来りし岩石より炎を発し、川筋あかるく見得渡る程之事
故、再び驚き、地震にてハなく山抜の響きにてありしかと
思ひし由なれども、段々夜もあけ、追々諸方ゟ便宜あり
て、矢張り地震と申事相知りし由、右故其辺り一面平地の
如くニなりたるよし
また真川・湯川の落合、大橋より少し水上の辺にても、山
崩のかの両川の水を淀ませ、流れをせき止たるより、次第
〳〵ニ水あふれ、低き谷々は元より岳へまであふれ、はて
〳〵ハ、千坊ケ原・御立林などいふ所まで、ひら一面の水
海となり、廿七日・廿八日頃にハ、其水下の原村・本宮村
などの村長より、大急ぎの村送り告状を出し、常願寺川の
ほとりハ勿論村々へ通達せしは、かの淀ミ水いつ何時押流
し、何れへあふれ出んとも知れがたきにより、こたびは洪
水の騒ぎとなりて、こなた御領へも其聞へしば〳〵あれ
ば、西の番一口なる大場川除、若押切るゝ時ハ、御城下へ
真一文字に逆水はせ込むの難事出来ぬ
往昔ハしらず、近くハ寛政の度、続て文化之度、夏日長降
にて常願寺川満水して、馬瀬口大場川除切れこみ、鼬川へ
水押こみ、御城下東向寄町々、勿論一円の水込となりし
事、暫時の内にて家倉ハ本より、人々逃げ退く隙もなき程
に有りしためしもあれば、こたびハ猶さら深く恐れ、さな
がら火事場のごとく、人々家財を取除け、西向寄りの知る
べあるは元より、知るべなきものまでも、簞笥・長持思ひ
〳〵に持運ぶさま、筆も尽しがたし、さて其日ハ済しが、
常ならぬ立山崩の事□(なカ)れば、あなた御役人方ゟも、其由
〳〵通達もありしにや、役方〳〵より聞合せ、又ハ其土地
の実を聞糺しにも出たるならん、其内いよ〳〵水かさも増
し、いまだ切れ所もなければ、終にハ必らず押切り、大逆
水あふれ出るに極りたる理りなれば、常の洪水ニて大場川
除切れの節とハ同しからず、一端ハ土地の高低にもかゝは
らず、御城下も一円水込みとならんも斗りがたしと、其筋
役方より断りあるよしにて、廿八日の夜に至り、いよ〳〵
危きとの事にて、御家中ハ勿論高家の(ママ、商家カ)末々までへも御触あ
りて、上様ニも西の山手へ御立退と定り、我輩は廿九日未
明ニ御触をうけ、曾は上様がたのとく御立退のよしもほの
かにハ聞伝ひたれど、さだかならずによって、そこ爰聞合
たれば、昨夜亥刻頃より御用意ありて、丑の刻頃御発駕相
違なしとの人の告げに、予も心をさだめ、妻子を一まづ立
退さんと急に用意をなさしめ、長岡山へと示し合せ、主税
にハ上様御立退の向寄りへまかりこせよと教へ示しぬ
かゝる非常にハ人々の心得もある事なれば、其よしもまう
し含め、侍ふたり差添、手鑓も持せ、また呉服山ヘハ猪熊
の出る事ハなくとも、山犬など出る事もやあらんと、手ご
ろの筒を持せ、玉薬胴らんを腰にさげ、様子ニよりてハ御
旅館江出て御機嫌を窺ひてもよき分柄までも能諭し、とく
出よと五時半頃に立いでぬ、婦女子ハ彼是四つ半頃漸々荷
物など調ひ、長岡さして立退きぬ
予ハ溜守(ママ)居に残り、猶また着替其外調度の品々を送るべき
事にかゝりぬ、折から人来り外々の様子も語るに、思ひ
〳〵にて立退もあり、又同じ軒並びにて立のかぬもあり
て、一様ならぬハ論ずるニ及ばず、将かならず逆水あふれ
来るといひ、又必らず来らぬといふもみな詵々に(まちまちカ)て、[人|ひと]
[伝|づて]のみの事なれば、人々の騒ぎ立もむべなる事にて、例と
すべき証拠も無き物ながら、予は御觸をうけしうへ、ちと
おもふ子細あれバ、妻子をとく立退せ、主税も御旅館向寄
人と差図せし其心は爰に誌さず
かくする内家臣ニいひ付け、東町へ調物ニ出しぬれバ、或
る商店ニて慥成見届の者に行逢ひ、実地の様子・山崩の水
捌きのよしまでも[委敷|くはしく]聞取り帰りぬ、大体は予が推量に違
ハず、まづは、安堵して山手の使(便)りを待とも、差添遣した
る家臣の戻り遅く、いかゞしたるならんとおもふうち、夕
七ツ過頃ひとりの僕戻り来り、一々様子尋ねさせしに、長
岡ハ都合あしく、よって、追分光源寺といふ禅寺へ落付
き、外に合宿もなく、野村宮内ぬし家内とひとつになり
て、皆々別事なしと音信ければ、先づ安堵し、家僕はしば
し息こはせ、調ひ置し荷物をもたせ、再び追分まで送りや
りぬ、今宵は光源禅寺を仮りのやどりと定め、夜を明し候
へといひ遣し、主税ヘハ留守の安否・予宅無異なるよしを
消息す
山手の様子をきくに、商家ハ稀なれど、武家の妻女はあま
た立退き、峠・中茶屋・追分・吉作・北代・針原・百塚ほ
とり遠き所々までも人々思ひ〳〵に立退きたるよし、一目
千本の花もかつ咲そめ、けふ日より遊山花見にも出なん人
もあらんかし、されど地震の後、日数もあらねば、其こゝ
ろもなきにや、いとけしきよきは騒ぎのうちながら幸ひと
やいはん、愚老、妻女にかはりて
 おもひきや今宵追分山寺にうからやからと仮りねせんと
ハまた同じ御寺の山ざくらかつ咲そめたるを
ふりはへて花をたづぬるこゝろかとさくらのとはゞいか
がこたえん
 亭坊世事よき僧にて、茶など出し、何くれともてなし、
さながら遊さんにことならず、されど常ならぬ心にて出こ
しなれば、何事も留守をあんじ、立山の容子はいかゞや
と、それのみ心にさはりて気も晴やらずと、後に語り合
ぬ、幼き者も暮ぬ内は花やわらびを折とりて、遊びくらし
たるよしなれど、日暮てよりハ、頻りニ祖父のうちへかへ
りたへ(ママ)と泣たるにハ、皆々もちあましたるよし、さもあり
なん
偖予ハひとり残りたるをきゝ伝ひて、尋ねきたる友もあれ
ば、何ハともあれ渋茶にても出しもふさばやと、そこ爰か
た付などせし、折しも安達直賢師も来り、山[逃|ぬけ]の絵図一葉
持来り見せられしゆゑ、予も所蔵の古図を出し、水の淀み
し所、また自然山きれ水の落きたらん時の理合などを語り
合、時を移しぬ、追々絵図も数多になりて四・五図も集り
たれば、其内能く実を糺し全図をして奥に誌す、また崩れ
所・水淀み、右山の頂きニ湖水をなしたるさまも雅経をし
て画かせ置ぬ、かならず後々とてもゆるがせにおもふ事な
かれ、むかしもためしある事なれば、桑田変じて海ともな
らん事、ましていはんや立岳の麓に住居る物なれば、もし
自然立岳崩れ落ち、多胡の海も平地とならん事なきにしも
あらじ、それにつけても人たる者は貴ふときも賤しきも慎
みこそ第一なれ、謹みあるなしにて天道の恵みもあり、悪
事災難も遁れ、又悪事災難を招くともありて、恐るべき事
ならずや、人は象天地なるものなれば、我が身を慎み顧る
をもて肝要すべき事、既ニ先哲の教解しば〳〵あれば、能
く物しれる人にたよりて教をうくべき也
また立戻りたれど、飛弾(ママ)国の通ひ路、神通川のほとり西ひ
がしの村々里々地震の荒れ損じを聞に、誠に恐る可き事ど
もにて、山々崩れ懸り、一村の人家残りなく土に埋むもあ
り、又は半ば潰れ、老若男女とも半死半生となり、牛馬も
大形は失ひたるよしにて、中にも飛州古川といふ所よりこ
なたニ類ひなき豪家ありて、金銀其外何事にも乏しから
ず、数多の黄金を人にもかし、大臣〳〵(ママ、大尽)と尊信せられしも
のもあり、又桑谷村治郎兵衛・茂住村太右衛門・太三郎な
どいへる有徳の者も有りけるが、こたびの地震のためニ其
身はもちろん、家内主従残りなく失ひ、貯ひの金穀其外家
財までも跡方もなき事に成たるよし、因縁約束とハいひな
がら、是非もなき事ニなん
されば、人々深き慾はせざる物にて、其日〳〵家内睦まじ
くくらさん事をよしと、こゝろして世を渡りたく、身をつ
みて他のうへをおもへば、堪忍するにしくハなし、天災地
変ハ限りなき物なれば、此うへにもいかなる事の出て来た
らんとも量り知りがたき物なれば、能々かうがひ心[直|スナホ]に我
が職分職分を勤をもて、所謂人の道ともまた天職を報ずる
ともいふ也
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻4
ページ 552
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 富山
市区町村 富山【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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