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項目 内容
ID J1600309
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔羽鳥徳太郎氏収集文書〕○和歌山県印南町
本文
[未校訂]信誉源序代
一大地震ニ付当山庫裏普請并ニ津波之事
一嘉永七年寅六月十四日夜八ツ時頃地震夫ヨリ十五日夕方迄
凡数九ツ斗リユリ候印南ヨリ東西山口マテ牛并ニ諸道具抔
預ケニ参リ其節ヨリ七日程少々ヅゝユリ其節ゟ何事も無候
又候同年霜月四日朝五ツ半時大地震誠以家之内ニ居ル事な
らす亦候翌日七ツ時頃殊之外大地震津波と諸国海辺ハ人も
少々死ス事数多有之家其外破損仕候印南本郷坂本は大流れ
其時当山之庫裏古キイエ大イニ破却シ翌卯年に木寄致普請
ニ取懸候辰四月三日ニ上棟并餅投興行仕候
一庫裏造作は元治元年甲子年成就仕事
世話人
為助
内陳ノ上 甲子六月
一組天井 竒(寄)進 惣旦方中
一木魚一具 竒進
有田金屋邑
橋本新右衛門
右は信誉源序有田住居已前ヨリ親分
信誉源序奇進左之通り
一如来前宮殿并蓮台トモ
両菩薩箱台茶湯ダイ共
一天人欄間 細工人京都仏師
奥田善之丞
慈覚大師御作
一地蔵尊損ジタルノ本寺ヨり戴キ再建也
同厨子京都奥田ニ而新調也
一釈迦如来 細工人 同郡丸山ノ仏師
一如来前江花瓶壱対
一同前机壱却
(ママ)一本堂ヨリ廊下前ら戸三本
一如来前常掛ノ御戸帳
一本金本紅粉小打敷
当国有田郡石□大乗寺廿三世利誉上人善序大和尚弟子同末
山小川村薬王寺ニ而十九年及住職其後加(嘉)永壬子十二月四日
当山江入院
梵字信誉証阿如是源序大徳霊位
此人出生ハ当国田辺南新町
堅田屋佐七世倅
維時元治元年甲子大呂吉辰認之
(かめ屋の蔵の津浪記録)○和歌山県印南町「印南町公民館新聞」S26・11・1 小谷緑草著
 印南町本郷の旧家、吉田さんが大阪へ転任されてから、印
南で一番古いと言われた同家の蔵が、この程とりこわされた。
 あの蔵の板壁に、安政の大津波の記録があつたのは有名な
話である。蔵を壊してから、あの記録の板はどうなつたろう
か古い記録だけに、公民館か中学校に保存しておいたらと思
う。
 蔵が壊される二、三月前、私は中田宇南さんと二人で、土
蔵内の記録を一時間ほどもかゝつて判読し、写しとつておい
た。それは次のような記録である。文中カツコ内は筆者の註
である
嘉永七
安政元寅歳
かめや
弥兵衛
 右は書置之事、扨、寅六月八日大志しん(大地震)世、す
ゞ波(津波)扨又、十一月四日には、俄に大つなみ××(二
字体不明)川口より、はしつめ(橋詰)迄、皆なかれ家は、
八幡様前へ、坂本本郷、皆家なかれ候、其時、東宮の上へに
げ、寔になんぎ致候。扨、浜方も皆々なかれ、光川、宇杉、
上ケ(地方)三ケ村は、波はいり候共、残り候。
 其時、此蔵は残り、そのあと皆なかれ候。此蔵は、むね切
(棟ぎり)つかり候。×末石、家、石かけ(石垣)皆なかれ
候扨、手前志らせは(先ぶれの意味?)六月八日、大じし
ん、すゞ波御座候其時、ゆだん致、皆なにもかもながし候、
扨百八十年載めて(百八十年目で)くるとの事、手前ニハ、
志らせ御座候。その時なにもかも、×此上へあがる可候。其
時、諸村ニ人志に(人死)御座候
先々、何分書置之事 以上
慶応×載八月八日
 扨、大波、大風、大水つなみより、十三年め、此町へ波あ
がり、印南裏(印南浦)半分なかて(流れ候)
右之通、此板古也(古くなり)候て、書なを志可置候 以上
 蔵の板壁の一間四方位の広さに、筆でかゝれてあつた右記
録は、勿論、昔流のくづし字で、あて字も多く、墨のうすく
なつた所もあり、判読しまちがつた箇所があるかもしれな
い。
 冒頭に嘉永七、安政元とあるのは、嘉永七年に安政と改元
されたからでこの津波は『嘉永の大津波』とも言うし『安政
の大津波』とも言われている。
 この年の地震、津波は六月(板壁には八日とあるが、公記
録では十五日)と十一月と二回あり、六月のは、紀伊半島附
近だけであつたが、十一月のは、日本全土をゆるがし、遠く
アメリカまでも響いたという。
 印南の札の辻で、波高三尺、恵比須神社(浜)の階段は二
段余つかり、印定寺の門柱が一尺二寸余もつかつたそうであ
る(かめや)というのは、吉田家の屋号で『弥兵衛』とは、
当時の主人であろう。
 文中に、百八十年目に津波が来ると書いてあるが、昔から
の地震津波のうち、主なものを年代順に拾つてみると次の通
である。(数字は西暦年数カツコ内は日本の年号)
一二三三(貞永)
一三六〇(正平)
一四九八(明応)
一五八五(天正)
一六〇四(慶長)
一六六四(寛文)
一七〇四(宝永)
一七一六(享保)
一八五四(安政)
一八九一(明治二四)
一八九九(明治三一)
一九四六(昭和)
 蔵の記録の末尾に、安政の津波から十三年目に又波が来て
印南浦が半分流れ、記録の板も書直したと書いてあるが、筆
者の調べた所では、安政以降、明治までには、文久の暴風雨
の外は、大きな天変地異がなかつた模様である。
 蔵の記録は、 一読してわかるように、文意の転倒した箇所
があり、名文ではないが、弥兵衛氏が当時の人々が難儀した
ことを後世の参考に書きのこしてくれた点に意義がある。
 かく考える時、私たちは、昭和二十一年の津波と昨年の暴
風雨により受けた悲惨な記憶のうすれないうちに、出来るだ
けの記録を後世の人々に書きのこして置きたいものである。
(嘉永七年六月 大地震津浪記)○和歌山県日高郡湯浅町
このたび、嘉永七(一八五四)甲寅六月十四日夜七ツ時前、よほ
ど久しきあいだ大地震。翌夕方に三十壱度ばかり
十四日、十五日両夜は表へ出、近所隣り寄り集り、道具を出
し寝ず、表にて夜を明し致し候事
もっとも田辺はこの辺と同様、日高郡由良の内この辺にても
別所、青木、山田、岩淵はなはだ緩し
石垣組、藤並組、千田辺、加茂谷、黒江、日方、塩津、若
山、大坂、和泉、河内、大和とだんだん上へ行くほどはなは
だしき様子に御座候
所により[紺屋|こんや]、[藍坪|あゆつぼ]をゆり出し、あるいは[行燈皿|あんとんざら]をゆり落
し、家をたおされ、怪我人も多分でき候所もこれある噂に御
座候
十三日にも少しの地震三ツばかりゆり候由
十四日大地震の後、その夜より十八日頃まで小地震、昼夜に
幾度もゆり、ようやく廿五日頃に地震しずまり候
このたび地震はなはだしき所
伊賀上野 南都 郡山
江州膳所 膳所の城の塀水海へ崩れ込みし由
大津 勢州四日市
越前福井 これは十三日天火にて城下壱万五千軒ほどゆり
失い十四日大地震
南山城 加茂笠木山
摂河泉は少しは損じもこれあり候えども格別の事はこれな
きよう聞へ申候
その外、美濃、尾張、丹波辺までゆり候由九州地、四国辺、
また東国すじ、中国すじ、これはゆり申さず候や、いっこう
沙汰御座なく候
(古座地方年代誌 一)○和歌山県
六月十三日子の刻より震い出し八ツの刻又大なり。翌十四日
の丑の刻甚だゆれ長し。それより十五日、十六日、十七日、
十八日まで震動絶え間なし。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 283
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 和歌山
市区町村 印南【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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