[未校訂](地震の記)上野市
伝入交省斉自筆
嘉永七寅とし、春より雨すくなく、時々降れとも大雨ハまれ
にて、田地植附もすこし差支ゆるほとなり、かくて暑さに(赴)趣
き、六月十三日朝より曇なから暑さつよく、俗にいうあぶら
照なりけるに、午のとき地震つよくゆる、家の倒るゝほとの
事ハあらねと、崇広堂丸之内西のかたニあり、藩中文武修業する館也の側東のかた、
往還地の裂る事、長さ六七拾間幅壱尺はかり、泥水を吹出
し、大城玄関前の升形壱ケ所崩れたり、是にて其強さをはか
りしるべし、人々いつれも恐怖せり、去る文政二年にも六月
十二日未のとき頃、つよき地震にてけふ(今日)のことく水を吹出せ
る所も、同し所にてありけると語合居るに、未のとき、同し
ほどの地震またゆりぬ、かゝりけれは其夜ハ大に恐れて、意
をふかく用ゆる人は夜もすから起あかし帯もゆるべす、握
飯・提灯・刀・守袋なと枕のほとりちかくさし置もあり、ある
ひハ外に莚しき幕うちなとして臥もありていと騒しかりき、
其夜も昼のことく強くハあらねと四五度ゆりぬ、翌十四日も
曇りて暑く、いく度もなくゆれて強からねハやゝ軽みぬ、(ママ)最
早さしたる事ハあるましと怠りおもう人もあり、また前夜の
労倦もありて却って宅内に臥せる人多かりける、かるきハ
時々ゆれどもさしたる事もなかりけるに、暁丑の半時頃、古今
未曾有の大地震、所謂坤軸もくたくるかとおもふはかりの一
震に、家々の一時に傾き倒るゝ音、たとふるに物なく夥し、
逃出てむとおもへと、古き家居ハ鴨居・天井・桁・梁・屋根
とも一時にくたけ落れば、老若男女うたれ死する者多く、い
まだ死にいたらざるものハ、うちしかれながら救ひを求むる
悲泣の声、こゝかしこに聞えてあはれなる事かきりなし、た
ま〳〵のかれえしものハいさゝかの藪・畑等に集りて、家族
を呼ひ集めて神仏の名号を唱へ、近隣声々呼あひ、ともに力
をそへ驚縮するはかりにて、いかにともせむすべなし、地震
はやゝ軽めとも引続きてゆりやます、寅の時過る頃、府内の
西のかたにあたりて、失火とおほしくあかくみゆる、かゝる
時はとおそれおもひたるものをといつれも驚騒く、漸にして
東のかた白めり、[適|たまたま]通行する人の何かしハ家居にうたれ、(ママ何カ)
かしハ行かたしれすなとこゝろ細き事のみかたりきこゆ、の
ちに委しき聞(ママ)けば、此時に死しゝ人藩中にて弐拾三人、町方
にて百弐拾四人、郷方にて四百五拾四人、怪我せし人藩中に
て三拾弐人、町方にて百四拾弐人、郷方にて八百弐拾九人、
家の倒し事藩中にて(ママ)方、町にて四百六拾七軒、郷
方にて三千七百五拾軒、其余半は倒れ損たるハ数しれす、馬
牛の死しまた怪我せし数八拾余疋なりとそ、家居焼失は馬苦
労町にて六軒ありける、此災害厳冬の頃にて昼なりせば、火
災も多く人々もこゝかしこに行かよひて、おもひかけぬ死傷
も多かるべきを、夏の深夜にて此上の事なるかしと跡にてハ
こゝろつきぬ、殊に驚歎せしは、東西の両大手の多門・石垣悉
く崩れ、番の者四人まで死したり、こは此国を給らせてこの
かたの物にて、古しといへと異成、大石・大材にていと厳重
に仕立たるものハいふまて(も脱カ)あらさるに、側の番の逃出へき際
もなき程はやく崩れ、門はかりハかたふきなから倒れずして
残りたり、京口にかゝりり(衍カ)し橋も西のかたにて橋杭弐本損し
往来危く、されと西大手・京口のほか丸のうちに通ふみちな
ければ、危ふきをおして通ふ、大城の殿舎のこりなく、石垣
も半ばすきて崩れたり、矢倉三所・公館も大損し、外側の長
家倒れ、北のかたにて小田村の田地へ地面ともに崩れ落ぬ、
公館の建具には元信・山楽・永徳なと名たかきものゝ画多か
りけるにさけ破れ、豊臣太閤の仰をうけて、古田(織部カ)主の好み造
れる燕庵といへる茶室も崩れぬ、北谷長家ハ地とも三間はか
りも下りて悉く倒れたり、其余諸の官□(ママ)破損夥しく、取敢す
国老以下諸司いつれも郭内の芝の手へ集り会ひ、建議とり
〳〵なる、側へハ郭内住居の諸士家族ひき連れ、幕・戸障子
にて囲ひ集うもあり、官より大釜立ならへ粥たきて藩中乃
人々に給る、雨露のしのきに竹・しふかみ(渋紙)といふものをかし給
る、格録(禄)によりて差別あり、これよりおの〳〵宅地に竹はし
ら繩くゝりにて、かり住居まうけをなす、藩中ハおのづから
地も広けれと、町方は講武荘外馬場の西のかたにて郷士の武業を習ひ、藩中の操練等をする所なり
の地、また官の藪講武荘の北にあり地に仮住居する事をゆるさる、其
外藩中の地広き人々をたのみ、仮住居するものまた多く、藩・
町とも家にすまふものひとりもなしつよくゆりし郷中も同じかりけると、きこえぬ
けふハひと日夜へむけて震う事、暁のことくにハあらねと
時々止す(ママ)、かゝるまきれに家居・蔵なとに残し置し品を、盗人
のうかゝふよし浮説交りにいひ騒き、いつれも拍子木火あや
うしの声かまひすしく、夜ひとよ騒きあかす、十六日けふも
地震止ます、いさゝか軽めともつねにゆる類にハあらす、
町・郷より訴へいつる事驚く事はかりなり、芝の手へ幕かこ
ひ、竹・しふかみの屋根、竹はしらにいた(板)かきならべ、諸司
の事とり行ふへき所をまうく、いつれも立附・裂羽織・陣笠
にて官館損しければ、総ての事ここにて建議し取扱ふ事七月まて同し、月並出仕ハ八月朔日迄なかりき終日出す、
官より飯にみそすこしそへて給る、器は各々こをりを持行て
給る、此事七月十一日迄同し、其後止にき、殊更難渋の町・
郷へ米そくはくを給る町へ弐百俵、郷へ四百俵公ハ江府にましませば三
十六時限の足軽使にてまうし上る、続きてけふより五日限の
早追といふものに、恒川某・土瀬某をして江府に趣きて、公
に事のさまを奥にまうさしめ給う公ハ初めの足軽使よりして、此使を殊の外またせ給ひ、玄
関に人をつけさせられ、使着の事を申上ると直ニ逢せられ、委細に聞給へるよし両大手・京口の通路危ふ
ければ、東ハ玄番町の裏、西ハ大皷(ママ)櫓の北よりから堀へ俄に
道をひらきて、明日よりこれを通ふべき令ありき、此度の地
震、国内にてハ上野甚しく、上野にてハ郭内、郭内にてハ大
城一二の郭、また虵谷あたり猶更甚し、こゝにて召遣ふもの
を除きて藩中男女七人まて死したり、家居ハ大既倒(概カ)れぬ、外
郭は聊軽かりける、されと倒家も死人も多かりき、すへて藩
中・町・郷とも古き家ハ残りなく倒れ、新しきハ傾きなから
残りたる多し、庇と石垣・ねり塀に損したるなく、庇にうた
れ怪我また死にいたるもの多し、こハ母家に取附し所の堅固
ならねハなるへし、郷方ハ西山村あたりより東ハ山神村・土橋
村あたりまて八九ケ村俗に北の側と、いふ村〻なり殊に甚しきハ東村・三
田村あたりハ一村大概倒れ、死人・怪我人多し、西のかたに
て小田村・長田村・朝屋村・大乃木村また甚し、東村にハ長
さ百間余に横幅ハ六拾間余より弐拾五六間迄、深さハ何れも
弐間余、田面しつみて水たまり池のことくなりぬ、此沈める
地の南に川あり、夫も東村相場といふあたりより三田村中殿
小屋といふあたりまて、長さ四百三拾間余、横百七八拾間の
所沈みて淵のごとくなりたり、長田村・朝屋村・大の木村に
も田地の下る所多かりき、なかにハ五六尺も揺上く所もあ
り、また此三ケ村ハ井水大既(ママ)かれてなく、溝の水をのみて渇
をしのきぬ、月を歴て少々ハ涌といへとも、壱ケ年斗ハ元の
ことくならず、されば此外いさゝか難渋ハ村々に多し、国内
弐百ケ村のうち此難にかゝりし村百四拾村余なり、国内の難
もはかりしるべし、十七日きのふも同しさまにてゆり止す、
作事の司より人夫百五拾人日の限なく出すへきよしなれと、
郡の司よりハ震災の憂にさる事ハ令しかたきむねを答ふ
大工百五拾人、郷夫百五拾人を津ゟ来たらす(ママ)へくなりぬ、こハ十九日より廿二日迄にて止ぬさはあれ十五日よ
り弐三十人宛の郷夫ハ日々いたし、廿三日ゟ廿七日迄ハ五百
人ほど宛の人ハ出し、それよりのちも日々百五拾人はかりの
人ハ七月下旬まていだしぬ、けふハ両大手・大城等の崩れあ
と取かたつける、いと厳重なる建物なれと、石垣より崩しゆ
えこと〳〵く破壊したり、きのふけふハいつかたも死人を掘
いたし、寺ニやる桶なと調かねしハ、砂糖桶なとの古きを調
ひて入るやる、軽きものハそれもこゝろにまかせねハ、むし
ろなとにつゝめるも多し、一類もより来す、(ら脱カ)僧の事もそこ
〳〵に、家居も崩れ家族も怪我なとしたるなかにて取はから
ふあはれさ、此ために鰥寡孤独となりしものあまたにて、な
きさまよふありさま胸をいため、崩れのこりし家・蔵等の崩
るゝ音時々耳を驚す、方丈記なとにはかゝることもみえたり
きと歎息す、きのふけふと引つゝき、上野天満宮そのほか重
き寺社へ、地震静まるために官よりいのりを仰せ願かゝる、
其しるしかすこし静まるさまなれとなほ止す、(やまず)神仏のちから
も及はぬけなり、十八日やゝ軽けれと時々ゆる、武器并に米
金の官庫倒るへきさまなれは、いつれも驚き騒ぬ、ことに武
庫には寒松院廟・了義院廟の召料を斎き奉れるに、北のかた
に堀ありてそれへ傾き甚危し、かくはからひ辛くして出し奉
り、国老初め諸司守護して仮屋を清め遷奉ぬ、其後両三日を
経て官館上段にうつし奉りぬ、其外の武器諸士の預奉れるも
みなみな芝の手へ并(並)へしに、小雨ふり来て雨紙・むしろなと
覆へるを官館の広間へ運ひいるゝとて、雑兵の兜・胴の類を
郷夫ともの箱の壊たるハそのまゝ提けゆくさま、軍のやふれ
落ゆくさまの絵などみるこゝちすと、人のひそかにつぶやく
もいとゆゝし、金は仮庫建て入れ、米は損し薄き庫へ移すへ
けれと、数千俵俄に出さむハかたけれは、町にすめる角力と
もの数人来たりて出し移し入るゝ、忙劇中の一快事なりき、
十九日ゆる事同しさまなり、藩中ニ取敢すの飯料米そくはく
を給る高知已上三俵、寄合已上弐俵、独礼已上壱俵、小役人、弐斗也、けふよりかゆ給る事止ぬ村々の怪我
人、医師を命して療治すへき令あり、尤謝礼ハ官より給る、
町・郷へ飢歳手当の米籾等を願の随意に夥しく貸給り、また
村々の収納米を是迄商価に売払せ給ふをこと〳〵く止て、総
て他国へ米穀を出す事は私の貯米といへとも禁し給ふ俗に買戻米并
米他所出禁制なり廿日曇りて小雨ふる、けふハ震ること漸かるみた
り、家々の崩れあと取片付くる人夫甚すくなく、私にやとふ
事ハ猶更にて賃銭を貪る事甚しく、追々に官より是を禁し制
し給ふ、廿三日に其 (ママ)を定給へり、廿一日朝辰の刻頃より大
ニ雨ふる、これ迄地震後小雨ハふれと、かく降るハはしめて
なれば震り止みなむとよろこふ、されと倒れ傾きし蔵・家居
なとの下ニなりし衣類・家財、此頃の小雨にすら損ししに、
此雨にぬれて[頓|とみ]にも掘出しかねけは腐(れ脱カ)損しもの夥し、此夜戌
刻ころ大にゆる、十五日のなかはにもいたらねと、このころ
に無きほどの事なり、何れも仮家の難儀なる竹・しふかみ・
桐油紙も小雨にハよけれと、大雨打続てハふせきかたく、藪・
畑中等にて床とてハなく、古木・古竹にてゆひ合せし家根
に、土間に板敷もあり舗ぬもありて、こも・むしろ舗のふし
と雨にぬれて湿気甚しく、老人・小児ハさらなり、壮年のも
のとても昌平年久舗しく(ママ)奢に長し、かゝるくるしみハ夢にも
しらさる輩、数日の辛苦に堪かたくあれたれとも、宅内住ま
ほしくおもへる者はかり、いつれも驚き怖れて仮家をいて
ず、廿二日朝より少し宛ゆりて未の刻つよくゆる、けふ伊勢
太神宮へ御国内安穏のため太神楽を七日奏し、満願の日太々
神楽を奉し奉らむ願を掛む事を、司農寮ゟまをして下司弐人
伊勢に遣す是の已下日々の地震ハ巻末にしるして略この頃大暑にて病怪(ママ)ならしめむ
と医師中より官に告して、批把葉湯を芝の手仮小家へ持出
て、数日集れる人々上下ともに乞ふに任せて呑しむ、多き日
ハ荷桶に拾五荷余にも及ひしとぞ、是にても其頃のさまおも
ひやるへし
七月朔日、大神宮太々神楽の大麻来る、上野天満宮神楽殿に
て町・郷之者に拝ましめ、大麻を家々ニ給ふ、劒先御祓といふものなり
此度は国内神社ハ損する事すくなく、寺院多く損したりと
諸人ひそかにあやしむをりからゆゑ、 いつれも尊みいつく(ママ)
神社の本 十九社寺院の本 六拾三軒猶このころ町・郷の事司とる人々に、此災
害によりての難儀を救ふへき事を議してまうさしめ給ふう
へ、震ルふ事も日々にかるく、雨も時々降り蒸暑漸ゆるみ
て、朝夕秋季を催せるに、人心もすこし穏になりて、市中往
還に建し仮家、藪・畑抔の空地に建しも夜はかりすミて、昼
ハ蔵・家居の破壊を修覆し、またおのが家地に暫く住むへき
さまの仮家建て、各業につく此頃より講武荘また官の藪地の仮家追々ニ止ミぬ七月六
日公の命によりて江府より国老の来り給ふて、災害の委しき
さまをとひ四民の辛苦を[愁|あわれ]め給へ、諸有司にも心を用ゆへき
命あり、藩中屋敷の外側を囲ふへき板若干を給ひ凡杉板三千間なりといふ
家宅を建てまたつくろふへき金若干被下へき趣を達し給ふ、
町・郷も同しさまにて猶委細に救給はるへき間、取調ふへき
旨達し給ふ、かくさまさまに追々に大なる仁恵に四民何れも
こゝろを安易し、また震る事も日々にかるければ、損したる
家居繕ひ、仮家建添なとしてもとの所にかへり、七月上旬・
中旬にいたりてハ大概常のことし、されと盆前町・郷貸借皆
納は閏七月にすへきよし令し給ふ、此度の地震にて損しと所
々官のさたし給ふハ格別、其外ハ今より十ケ年の月日を[歴|ふ]る
とももとの姿には如何あらむといつれもこゝろ痛めぬ、同十
六日町・郷此度の災害に死失のもの五百九拾五霊の追善に、諸
宗但、国内ニ宗旨法花・禅・天台・真言・浄土・一向之六宗にて、尊州ハ上行寺・山渓寺・大福寺・西蓮寺・念仏寺・正崇寺なり
の僧百口を集め、服部川原にて大施餓鬼法事を修行せしめ給
ふ、其儲けは往還の西杉林のかたにて北のかた広さ四拾間六面の大仮
屋を掛もとより地震後の事なれは柱ハ杉丸太、屋根ハ麦わら、竹葉、木繩ハかリ等にて、唯軽便に、堅固にてもし倒るとも、
人の怪我なからん事を要す其中央に長さ弐間に幅壱尺弐寸、六面の大卒塔
婆を建て諸宗各経の要文をしるし、其前に香華幡鑼の類卓囲
曲彔(録)きらをかさり、供ものゝ数々善美を尽し、所謂極楽世界
にて諸仏来迎のありさまも斯やとおもふはかりなり、僧徒に
は斉二度を給り、出会の諸寮司より下司まて同しく壱度給
り、亡霊の券(眷)属には菓子を給るへき定めなり価銀三分の□頭三ツ宛也
是等を調理する仮屋、僧徒下部の仮屋、諸寮司の仮屋等夥し
く建連ね、巳の刻初座の勤行あるへき定なれは、衆僧追々仮
屋に入来り、券属其余結縁のための参詣人群参し、巳の刻過
にハ凡五六千人もあるべく、彼大仮屋に居あまりたり、既に
法事始むべくと、其事司とる人々より催す折柄、けふハ辰の
刻頃より少々曇りて時々小雨のふりける□、時しも西風つよ
くふき来り大雨盆をかたむくる如くなれば、何も傘をさしも
あへず、一陣の夜風さつとふき、めり〳〵と音し、仮小屋東
のかたへ片むき倒るゝにて、一統にこハいかにと動響(ママ)む声、
仮小屋にうつもれし僧俗・女婦・幼児・老人の助け給へと叫
ふ声、諸司ハ下司・郷夫等に下知して助け救へと走り廻れ
ば、僧徒ハ仏具を損せしと立騒ぎ、何れも雨にぬれて騒動す
るあり様ハ浄土の荘厳忽に叫喚・大叫喚地獄と変しける、さ
れとも有司の人々心尽しければ、怪我せしも壱人もなく、仏
器其余群参の持参したる品々まで夫々に捜求めて、事なく何
れも退去しけれは、法令のむなしくなりけるハ本意なかりけ
ることともなり、十八日にはかねて其司より頭ひ歎くこと
く、町・郷の者へ莫太(ママ)の金・銀・米を給りて窮民を哀憐し給
ふ米凡六千俵余、金凡壱万弐千両余、此救貸また手当貸等米・金夥しき諸民とも実に蘓(蘇)息の大恩
恵と悦ふ事限なし、斯莫太の給物を不日に給ることハ、大藩
の事といひながら国本を重し、民事に心を尽させ給う故と、有
司の輩落涙して悦ひあへりとそ此日藩中怪我人へ養生料金若干を給ハる、禄によりて差違あり
廿日にまた彼大法事を脩せしめ給ふ所ハ服部川にて仮屋区別に六ケ所、此度ハ国中寺持僧
不残集会すへき定めにて、百六拾四人伴僧とも弐百弐拾四人、導師其余のまうけハ前日のことし此日殊に天気快
晴涼風僅にふきて、導師等金経読誦の声衆列の心耳を清し、
亡霊成仏疑ひなしと群参の諸人・有司の銘々も渇仰のおも
ひをなしにけり法事聴聞の人ハ一万三千人もあるへしし(ママ)といふ、或ハ来り或ハ去て終日の群参二万人余もあるべし
辰刻に衆僧有司各会し、巳刻より法事始りて申刻に三座滞り
なくすみにけり、鳴呼此度国内の災害大なりといへとも、公
の仁恵もまた大なれば、諸民これに感悦して、また地震全く
止す日々軽くゆるれども、さして憂ふるニたらざれば、戸口
万歳を称しつゝ各自に業を励みける七月廿四日藩中表門ハいまた開ず、諸有司芝の手へ出
勤、踏込裂羽織なり、文武の修業休息する事始の如し抑慶長以後地震の此国にて強かり
しハ宝永四年十月、元文五年四月、延享四年四月、安永七年
六月と四度なれと、此度ニくらべてハ、さしも強からさりし
趣なり、かゝる難有き公の時にあたりて、かゝる災害のある
ハ、いかなる事ならむと怪み思へる人もあれと、こはおもふ
に四海一統の事にはあれと、四民とも歳々昌平に[化|かする]にほこ
り、[奢侈|しやし]に長したるを神明の誡み給ふて、かゝる災をくたし
給へるなるべし、いよ〳〵慎ミ恐れて年経ともわすれす、公
の大恩恵を感じ奉りて此後厳倹を行ひ、本業をつとめはけみ
なば、神明の加護いかてかなかるべき、これ災を転して幸に
するミちなるべしとしるし置になむ、穴賢々々、
嘉永七寅七月廿日しるす
たのみなき人のこゝろにくらべては
かくかしこかるなゑもものかは
椎枕聴雨村舎主人
安政元寅年六月
十三日 晴 午刻・未刻両度地震、何も家ゟ出候位、同夜も
小震四五度有之、右文政二卯年六月ゟ無之程也
十四日 朝六ツ時、強日(ママ)大砲之如き音する
十五日 晴
十六日 晴 大中震続
十七日 晴 前同断、寺社へ御願有之、郷中へ飯料被下有
之、弐百俵被下、弐百俵ハ貸渡
十八日 晴 中小震数度、御武笠芝の手御出座
十九日 晴 前同断、両大手通路開候事、震災 正処(ママ)村々医
師差向ニ相成○家中飯料被下
廿日 曇 少々雨、津ゟ人夫来る
廿一日 晴 昼後大白雨雷 中震、夜五時中之内大震
廿二日 雨 夜五ツ時大中震弐三度、小震度々○伊勢太々神
楽明日ゟ国願掛出立
廿三日 曇 時々中震、七ツ時大之内軽震、同夜中震毎々○
津郷夫出ル
廿四日 小雨午後晴 朝六ツ時ゟ五ツ時迄ニ中震再度○郷中
見分出ル
廿五日 晴 時々小震掛切○郷雇賃百八拾文、弁当持弐百
文、取締諸職人○(ママ)弐匁五分
廿六日 晴 朝六ツ半時中震
廿七日 晴 小震終日両三度○手附手代七人、今日ゟ請取
廿八日 晴
廿九日 晴 昼夜ニ小震五六度○今日ゟ終日(ママ)を出ル
七月朔日 雨 昼夜小震両三度 月前御礼無之
二日 雨
三日 晴 昼夜小震五六度 昼七ツ時大白雨雷
四日 晴 昼夜両三度小中震
五日 晴 昼夜小震両三度 未刻大白雨雷落る
六日 晴 昼夜ニ中震五六度○江府ゟ左近殿着
七日 晴 昼夜ニ小震三四度 未半刻白雨雷
八日 晴 九時白雨○諸役人諸事心を用添達有之○貸渡御達
有之
九日 晴 前夜ゟ昼迄小震度々、昼八時中震○外側月(ママ)被下
御達有之
十日 晴 暁中震両度
十一日 晴 昼夜ニ中小震四五度
○役人被下候炊出止む○郷中被下壱万千九百四拾四両・四
千八百八拾八俵壱斗と伺
十二日 曇 時々晴○
十三日 晴
十四日 晴
十五日 晴
十六日 晴 四ツ時前ゟ風雨、死人施餓鬼有之
十七日 晴 ○御弔廿日と被仰出候事
十八日 雨 暁六ツ半頃中震壱度
十九日 曇 前夜五ツ時頃、今朝六ツ時頃中震
廿日 晴 昼夜小震五六度
廿一日 晴
廿二日 晴
廿三日 九ツ時頃少々白雨 昼夜ニ小震六七度
廿四日 晴 小震昼夜度々
廿五日 晴 小震昼夜両三度
廿六日 晴 前夜中震両三度
廿七日 晴 ○御家中御下行被下
廿八日 晴 前夜八ツ半頃中強震壱度○西村権現宮ニ而国
願々済
廿九日 晴
閏七月
朔日 前夜ゟ両五ツ時頃大白雨 八ツ時頃中震 昼八ツ半時
頃大白雨
二日 晴 朝五ツ時前中震
三日 雨 五ツ時前大風雨
四日 晴 前夜小震度々
五日 晴 前夜小震度々
六日 晴 前夜中震壱度、深宵小震度々、朝中震壱度、八ツ
時頃中強壱度 午後小雨
七日 曇 未刻ゟ小雨
八日 雨
九日 曇
十日 雨
十一日 曇
十二日 晴 ○郷夫左手□ニ勘定所見届之上と相成る
十三日 晴
十四日 晴
十五日 晴
十六日 晴
十七日 晴
十八日 曇 前夜大白雨雷暫時
十九日 晴 ○今日ゟ米他所出免さる
廿日 晴 朝六時頃中震
廿二日 晴 朝五ツ時頃小震
廿三日 曇
廿四日 晴 前夜ゟ今朝ニ向小震両三度、夕七ツ時中強壱度
廿五日 晴 前夜ゟ小震両三度
廿六日 晴
廿七日 晴 前夜ゟ今朝ニ向小震強両三度
廿八日 晴 前夜ゟ今朝ニ向白雨雷
廿九日 曇 前夜七ツ時頃中強震壱、今朝小震壱度
〆
御右筆方ニ而取調
○宝永四亥十月四日 ○元文五申年四月廿五日
○延享四卯年四月余程之震 ○安永七戌年六月四日近年無之
震風雨