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項目 内容
ID J1600018
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1854/07/09
和暦 嘉永七年六月十五日
綱文 安政元年六月十五日(一八五四・七・九)〔伊賀・伊勢・大和・山城・近江・河内〕
書名 〔南陽叢書 四〕宮内庁書陵部
本文
[未校訂]大坂大地震之事
一嘉永七年安政元年甲寅六月十五日辛巳丑上刻頃大坂市中地震初殊の
外甚敷市中近在に至る迄皆〳〵寝入はななりしに子ともに
至るまて眼をさましける程にて夥敷路頭に出る者多く在し
其後少し宛度々震動明六ツ時頃又大ニ震ふ同時半頃にも又
々大震ふ最初の時程にハなし昨今の空の景色ハ都て曇天に
て晴間なく折々雨降り尤梅雨の比なれハ何れたゝならさる
有様なり当日七ツ時迄に凡廿四五度斗震たりといふ人有き
夫ゟ少し宛ハ不絶少間ツゝ(ママ)して震ふ十六日暁八ツ時に大に
震ふ夫より五ツ前にも余程震ふ昨日より諸人舟を借り切に
して河中にて夜を明す人多し凡舩の分ハ何舟に不限舟賃三
倍に成大河筋へ出し休足するものゆへ川中提灯の光にて賑
ハし市中土蔵抔損したるも多し中にハ潰れたる有よし也或
人の云此節摂州有馬山鳴動するよし其響の先なるへし高槻
辺抔も地震殊に強く絶間なしとそ南都ハ別て甚敷地裂破れ
たる所なと出来所々損所も有之よし大津辺も殊に震動のよ
し町家四十軒斗つふれたりと死人怪我人等ハ承り不申伏見
辺も少々損し家等出来候よし
一前に云有馬山鳴動の末如何未た爰元へハ委細承り不申猶
追々可相知事也
一市中の石燈籠無難なるハ少く火袋砕ケ柱折れなとしたるよ
し住吉の社抔毎(ママ殊)に石燈籠の多き所也如何成行候哉未承候
住吉石燈籠二基崩而已
一瀬戸物屋抔多分損毛致し瀬戸物町抔ハ何れ多かるへき也
一天王寺伽藍五重の塔の宝鐸[都|すべ]て一同に鳴渡り夥敷事也とそ
数廿八ありといふ
一摂河在々潰家所々に有しよし
一市中西の方震動甚たし上町ハ少しゆるきやうに覚ゆると古
老の人の咄し也左も有へし都而上町よりハ舩場の方甚し北
の新地辺も烈敷よし蔵の損したるにて想像やるへし
一同日同刻伊賀上野城潰れ城下町々大損し翌十六日も地震不
止よし死人凡七千人斗大木抔もゆりこかし候て是か為に被
打て死る者も有何分食事等相調へ候義も難出来程ニて御座
候よし
一和州郡山城所々潰れ町家所々破損し候由にて潰家等も有之
死人怪我人等ハ未た委細承り不申候又家ハ四分通潰れ人百
廿人斗死すと
一南都も殊の外厳敷よし町家所々潰れ又ハ損し無難なるハな
きよし町人何れも野中又ハ大寺等相集り夜通し致候而中々
商売抔ハ出来難く候よし大抵郡山奈良同様の事と被存候よ

一前日十三日の両度少し地震ありこれハ大坂にていさゝかな
りしか大和芝村辺抔ハ余程はけしき由ニて暫ハはぜ舟に乗
し程のゆらつきのよし奈良郡山辺も同様と思ハるゝなり
一十七日も折々震ふしかれとも少々宛の事故不知者も多し其
中に覚ゆる程のゆりも有之
一十八日六ツ半頃にも少し大なる震なり
一京都来状の内祇園社花表たおれて両方の茶店砕け申候怪我
人の義ハ無之候哉不申来候
一城州木津大方くつれ無難の家ハ十二三軒斗其余ハ破損せさ
るハなし
一同加茂笠置辺山崩れ出水平地より三尺斗人家多く倒れ損し
家等有之由
一江州膳所城下人家取々損し有之裏廻りの構高塀等多分湖水
へ落込申候由并当月十三日同所大手先出火有之菩提所焼失

一石場舟乗場大石燈籠湖水へたをれ同舟番所潰れ横死両三人
有之其外所々損し申候
一勢州四日市同日大地震建家不残破損し人多く死す生残る人
ハわつかなるよし未た詳ならす
一越前福井当月十三日出火有之家七分通焼失翌日夜大地震ニ
て人多く損したるよし
一前書甲賀上野城下建家大地へ軒迄ゆり込候所多分在之死人
五六千人斗程も可有之哉右騒動の中盗賊共徘徊致し諸品を
盗取候得共役人ふ足ニ付制度も行届不申由猶委クハ追々見
聞の上可加入候事
一右町家倒れ候所出火在之家数余程焼失す
一奈良ハ未た地震不脩申(ママ)今ニ野宿の体ニ候由夫ニ付他所ゟ見
舞人入込之事不相成よし
一当地も折々震ひの後とも格別の議無之候所廿一日夜五ツ半
頃余程厳敷く(カ)事其後同夜九ツ半頃少し計震ひ申候頃日迄
日々天気悪敷折々雨降一日も晴天無之事
地震聞書
一十五日和州ゟ逃帰り候者有之途中ニて食事致し候事不相成
奈良近辺ハ倒れ家多く候故中々食事抔ハ無頓着也くらがり
峠なとも同様混乱豊浦辺も同断松原も食事等難出来漸玉造
辺迄飢をしのき急き帰り申候途中土の熱き事大暑の節之炎
天に照り付し土の如く熱したる由
一同日郡山へ参りたる者の咄に震動する時にハ人々大声を発
し家を逃出ると其跡にて建家倒れたりと其怖ろしき事云ん
かたなく途中に休ミ居候者かと見れハ死たる人にて其側に
人々途方にくれ足を伸し抔して休ミ居体なと中々目も当ら
れぬ次第也町中の往来屋根の上をふミ歩行したり其間に或
婦人家根の窓より半分体を出し其儘に死したるを見しとい
ふ又大地裂れる時ハ其破目より煙の如きもの吹出しけると

一池田近辺夜々野の中より火の玉発して空へ揚ると其儘消失
る事所々に有之由是等も地震の為に火脈の発起するなるへ

一摂津六甲山抔この頃鳴渡りニて諸人恐れをなすといふ是等
も火脈の動する故に高山に因て火気を発せんとするにや
一十五日郡山より大坂へ逃れ帰らんとて三人連にて出たりけ
るに大地分烈(ママ)し二人ハ其中へ落入たり一人ハ跡になりたる
故しはらく跡へ戻りて見合たるに其穴元の如くに塞かりた
り又彼穴開きたる時其中をのそき見しに跡方もなく二人ハ
終に地下に落込其体を見すと又穴のふさかりたる時に其所
をのかれて帰りしと云
一廿一日の夜五ツ時の地震少し大なるにて八尾郷大に破損し
たりと云和州辺も定て烈敷かるへしと思はるゝ計大坂余程
震動したり今日の震動にて上野城下残りの家々大方に砕け
たりとそ是ハ前日に痛ミ有し家共也けり
一勢州四日市六月上旬の頃畠三反はかりの所一夜の内に白砂
と相成人々不思議に存し候得とも大地震有らんとハ知らす
扨六月十四日四ツ時ゆり始大地震と成家数五百軒余崩昼五
ツ時より出火ニ相成家数四百軒余焼失死人凡弐百五十人行
衛不知人五百五六十人又一説に家数千二三百軒河原町八町
斗の間つふれ三間残り北町南町出火ニ相成皆々浜辺へ参り
し処廿二日夕方大雨大雷にて即死人十六人誠に難渋の事と
も也
一南都六月十四日夜八ツ時ゆり初明六ツ時甚しく町家一軒も
無事なるハなし家内に居る事ならす野宿寺院明地ニて夜を
明し往来難出来誠に目も当られぬ次第也同廿一日夜五ツ時
由利旧坂町西方寺本堂くたけ高畑神主高塀不残崩其外くず
れ家数不知死人少々有之惣て十四日の夜即死人三百五十人
程怪我人ハ数不知廿三日迄に大地震八十五度也
一和州古市同日同刻池(ママ)われ人家多分くつれ死人六十七人怪我
人数知れす残り家僅三軒計ゟなきよし
一同郡山同日同刻柳町壱丁目ゟ同四丁目まて家数凡卅八軒崩
れ同十八日廿一日六ツ時に又々ゆる市中町家三分通崩れ即
死人百弐三十人斗
一伊賀上野同日同刻地震城大手の門大破損町家在家たをれ其
外出火ニて焼失嶋ケ原と申所五十丁四方出水ニて泥海の如
く相成人家損したる数不知即死人四五千斗怪我人ハ数不知
一江州信楽六月十三日大雨大雷ニて翌十四日ハ同事の地震に
て町の人家たをれ家数凡百卅軒土蔵十八九怪我人即死数知
れす
一膳所城下人家損し城の塀湖水へ落入大破損即死怪我人も有

一石部 水口 土山 庄野 石薬師 亀山右宿々十四日諸国
同日の地震にて人家損し怪我人も少々有之よし
一越前福井六月十三日昼五ツ時出火ニ而城下不残焼失其跡大
風ニて九十九橋より二百町斗西本願寺其外寺院百ケ所焼失
近在凡十ケ所類焼夜四ツ時に火鎮る翌十四日同刻大地震に
て泥水吹出し海の如く成家崩れ即死四五十人凡十六日迄大
小六十七八度斗のゆり也とそ
一京大坂紀州播州丹波丹後尾州美濃三河
右の諸国京大坂同時同様の大地震大抵廿三日頃まて同様の
事ニて損し所等ハ未承不申死人怪我人の沙汰も無之何れも
軽き事ニ有之
一当六月上旬の頃下之関阿州佐州等の諸国大荒ニて大水大霰
ふり瓦屋根ハ皆々損し破れ死人怪我人等も夥敷雹の大サ凡
三百目位のよしニて翌日に至り候へ共消不申右に被打にて
即死の人有之候也
一同七月廿五日夜丑の刻前又々地震ひしかれとも前に比すれ
ハ甚た軽き事なり又七ツ時頃に震ふこれハ少の事にて知ら
さるものもありし程なり
一伊賀上野地震ニ付非命の死を遂しを憐れミてこれか為に領
主より城下に於て大施餓鬼を修せられ大塔婆を建て伊勢よ
り大徳の僧侶を数輩を(ママ)招請し人民の愁苦をなくさめんと当
月十六日大道場を開かれけるに豈計らんや法莚まさに半な
らんとする頃に大雨俄に起り立雷電頻りに鳴渡り仮にもふ
けたる小家これか為に倒れけれハこの莚につらなれる諸人
魂を飛して驚怖せし東西に逃散し踏倒さるゝ者も有小家の
為に打れて死に至るもの四五人に及へりとなんまして怪我
人ハ多く有しとそ此日如何成るそや領主の大仁慈にて大法
事を行するに当つてかかる天変有らんとハ皇天如何成ハか
く無辜の人民をして[妖孽|ヨウゲツ]に遇しめるや深く嘆息すへきにあ
らずやといふのミ
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻3
ページ 48
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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