[未校訂](菅波信道一代記)広島県川辺町
東都大地震大変之事
一 又爰に東都之大変大地震、時は安政二の卯とし、十月二
日の申之刻、続きて戌亥之下刻迄、東都洛中大騒き、前年六
月霜月と、両度之地震之大変に、それにも勝る事のあり。今
此度之大地震、大地の底より動き来て、つきあげ持上けゆす
りあげ、楼台高格(閣)猶幾か、諸国諸侯之御屋敷、寺院町家はい
く万か、浪打ごとく浮沈み、臼つく如くにいく度か、猶幾度
か〳〵、壱尺弐尺五六尺、あかれは落し又上り、忽ち楼格(閣)め
げ崩れ、尚又崩るゝ其中に、燃火の出て爰彼所、見る間程な
く猶更に、数十数ケ所も燃出て、終大火と相なりし、人死の
事は幾万々。
一 今思ひしに此序平、東都の道は又遠し、弐百有余の其里
数、五日五夜の大走り、当国しらせの有にけり。尚又六日七
日なる、日切之飛脚走り来て、西国方之御領知江、達の大早
又多し。当駅継所の鬧かしさ、昼夜わかたす継立し、尚又九
州御家中之、下り之節之御泊り、江戸大変の此絵図を、求め
帰らる事につき、一夜此我拝借し、あら〳〵爰にうつしお
く。
一 上野御山内は、宿坊少し崩れ、御本坊中堂其外患なし。
同門前町いたみ多し。広小路中程より出火、上野町より長者
町に至り、伊藤松坂角より御成道、井上様・小笠様御中屋敷
御類焼に而、此火中御かち町にてやけ留る。猶又御すきや
町・天神下同朋町は、別して崩多し。切通し坂下は倒家数多
也。此辺御やしき多分崩る。池のはた仲町は片かは町の分崩
多し、茅町弐丁目より出火して壱丁目木戸際まて、二丁目う
ら表とも焼る。谷中天王寺五重の塔、九りんのみ折落て土中
に埋る。此辺格別の損しなし。三崎より駒込辺は崩多く、根
津も大分崩所あり。本郷は崩少く候得共、かうじむろ少々損
しあり。御茶水・湯嶋通りは崩少し。神田明神無事也。神田橋
外三川丁より西御屋敷都而崩多分に而、小川町辺松平駿河守
様・松平豊後守様・榊原式部大輔様・内藤駿河守様・戸田武
二郎様・本郷丹波守様等、其外小やしき所々やける。尤此へ
ん崩る。飯田町・番町格別のさたなし。するが台猶又事なく、
昌平橋通りは両側共いたみ多し。又明神下通り内藤様・建部
様をはじめ、御成道は堀様・酒井様・石川様・黒田様・大関
様など也。御成道町家ともに崩るゝ事おひたゝし。小石川は
百間長屋向御旗本飛々やける。牛天神下崩多く、水道橋通よ
り下富坂崩つよし。伝通院前より大塚辺崩少なし。小日向・
早稲田・音羽・目白は損し少なし。牛込は改代丁辺崩多し。
其外上水べり崩所々なり。又小石川御門内崩多く、飯田町は
下町崩れ上丁よろし。番町辺は格別の大崩なく、かうじ町う
らて所々崩あり。此辺出火無之死人なし。牛込かぐら坂より
寺町通、若宮町辺やらひ下通土蔵大半崩れ損し多し。高田・
雑司谷辺は格別の事なし。市谷御門外尾張様御長屋下町家
少し崩れ、本村辺少崩れ、加賀屋敷辺崩れ所々也。柳丁は所
々崩れ見ゆる。大久保通より柏木村辺崩れ所々有。成子町・
内藤宿・大木戸辺は損し少し。わきみちは崩多く見ゆる。又
千駄が谷辺権田原・六道の辻・百人町辺は無事也。すべ音山
・しぶや・道玄坂・北沢下・目黒・桐か谷・駒場辺おだやか
なり。おんでん・原宿・熊野前少し崩る。竜土辺笄橋・長者
か丸迄、桜田町・三軒家辺ゆれ少く、善福寺門前より一本松・
仙台坂辺土蔵のみいたむ。日かくぼ通りより飯倉・永坂辺い
たみつよく、谷町・市兵衛町もいたみ多し。夫より溜池上御
やしき所々いたむ。又赤坂は田町通・伝馬町・元赤坂町・一
ツ木町辺、いたみつよく崩多分也。紀州様御屋敷恙なく、さ
めがはし町所々いたむ。四ツ谷・塩町・忍町・伝馬町は表通
いたみ少なく、横丁々々は大半崩見ゆる。尤御上水万年どい
石がき崩れ水あふるゝ。麴町十一丁目・十二十三丁目は右に
同し。四ツ谷御門内かうじ町は平川町・山本丁・隼丁・谷丁
共格別崩所なし。三軒家辺御やしき、永田町辺崩少なし。山
王御社無事也。江戸見坂より外桜田虎之門内は崩甚しく、南
部美濃守様やける。薩州装束屋敷表側やけ、其外崩るゝ。幸
橋御門内は柳沢甲斐守様やける。伊東修理太夫様やける。亀
井隠岐守様半分やける。此辺御やしき不残崩多く、山下御
門内猶々きびしく、大鍋嶋様不残やける。虎之御門外あた
らし橋外御やしき、あたこ町辺崩過半也。西の久保より飯倉
町・赤羽年辺崩る。三田・小山辺・十番まみ穴辺崩少し。増
上寺御山内崩少なく、又金杉より上手本・芝田町・伊皿子・
三田・高輪・品川・台町・二本榎・白金古川辺・目黒永峰辺、
いつれも格別の崩なく、尤土蔵多くいたむ事一円也。芝浜松
町片門前・中門前・浜手御やしきは損し大半也。神明町・三
嶋町は大崩れにて怪我多し。神明宮御社少しもさわりなし。
柴井町のみ一丁目やける。前後つふれ多し。尤芝口は町家御
やしき共さはりなく、又桜田久保町辺崩多し。是より京橋迄
地震たるみて損し少なし。木挽町辺築地御浜辺もさわりな
く、鉄炮洲はあたりつよく、船松丁松平淡路守様やける。此
辺崩れ多く、八丁堀一円中変也。美崎嶋は一円崩れ強く、土
蔵数ケ所ふるひ、塩町はま南新堀にて二丁余程やける。北新
堀は箱崎共崩多し。小網丁崩おひたゝし。浜丁は崩少し。甚
左衛門丁・大坂丁・人形町通・大伝馬町・本町・石町・宝町
辺崩多し。両ごく吉川丁・米沢丁・横山丁・馬喰丁は崩少
し。橘丁より田所丁・富沢丁・高砂丁・住吉難波丁・和泉丁・
芳町辺崩多し。今川橋辺内神田は不残、東西共崩つよく、
筋違御門より柳原通、御籾蔵損し強く、豊嶋丁・江川丁辺ゆ
るかせ也。外神田は佐久間町辺宜しく、御成道通・はたご町・
金沢丁すべて此辺大崩也。夫より神田橋内は酒井雅楽様やけ
る。表御門のこり、同向御屋敷やける。竜の口角森川出羽守
様やける。酒井左衛門尉様・越前様・小笠原様崩多く、一橋
様同様也。八代洲川岸は増山様・林様崩多く、松平相模守様
やける、御火消やしきやけ、御やぐらのこる。尤屋根ゆり落
す。遠藤但馬様やけ、本多中務大輔様・永井遠江守様やけ
る。七外大名方御役屋敷共、かち橋・すきやはし・常盤橋内
不残崩多し。浅草田辺はつふれつよく、二丁めより出火し
て、同一丁め山川町竹門・金竜・北谷の寺院不残、聖天横
丁より芝居町三丁共やける。東側少し残る。聖天町山之宿は
崩れ多分に而怪我多し。北馬道・南馬道やけ、中谷の南側寺
院とも、残りなくやける。馬道より戸沢長屋へ出、花川戸町
半丁片側にて火留る。金竜山地中崩多し。本堂恙なし。五重
の塔九輪北の方へまがる。浅草広小路雷門前崩れおひたゝ
し。東海道は品川ゆるし。川さき・神奈川つよくふるひ、金
沢・江の嶋・浦丁辺、程が谷・戸塚は甚しく、小田原辺を限
り也。日光道中は宇都宮限り。水戸街道は七浦辺まて。甲州
道は八王子辺迄。青梅・飯能・所沢辺多くゆるき、ちゝぶ辺を
かきりなり。中仙道は板橋より厥(蕨)・大宮辺つよく、樋嶋柴辺
おたやかにて本庄辺少しゆるく、上州は高崎辺まて也。又二
合半領・葛西領は大半崩れ、上総は木更津辺おびたゝしく、
尤房総共大地震なり。先御府内のみ凡を書とり、其あらまし
を挙る。町数五千三百七十余丁崩、御屋敷弐万四千六百三十
四軒也。寺院は壱万六千二ケ寺、土蔵は焼失之分六千八百戸
前、崩る分七億弐万六千三十八なり。男女死人之分十万九千
七百三十余人也、十月二日夜亥の上刻より出火起る。翌朝火
しつまる。深川と浅くさ花川戸は四日頃しづまる。
一 その後芸州御家中、江戸表より御下り、当駅当家に御泊
り、追々風呂湯も御仕舞、時に序平は罷出、江戸大変のこと
問へは、仰聞らる其事は、いふて言葉に尽されず、見聞する
より語るより、其大変は甚し、中々いふてわかるなし。其憐
れさは何程か、斯おそろしきは外になし、幸ひ我れか帰りか
け、江戸大変の絵図といひ、辻うりいたすものありて、三冊
計り相求め、所望とあらは只ひとつ、貴公江土産に致すべ
し。いふて給はることのあり。尚又御家中御はなし、しかし
御亭主其元は、御自分としは何程か。時に此我申事、六十四
歳と相答へ、時に御家中仰せられ、それは仕合御結構、さて
拙者とも当年で、五十二歳と成にけり、しかし世の中人の身
は、色々望みのあるものぞ、我若きより世になれば、質素検(儉)
約相いたし、小金をためて渡世持、尚又纔の知行でも、立身
出世もまた好み、思ふ計りて年もくれ、求められけることて
なし。しかし此度江戸表、其大変はいかならん、二階住居て
有し時、不思地震の其起り、二三尺程つき上し、我驚ひては
しこだん、踏はづすより腰をうち、痛みながらに逃走り、広
庭中にてとゝまりし。追々大地を動かして、我は地上にまた
倒れ、猶見る内に所々屋敷、楼格(閣)崩れし其響き、男女の数多
なけき声、おひ〳〵ゆすりも甚し、爰彼所より燃出て、また
大変の大火なり。翌日聞は屋敷内、家中之人共崩れける、家
に敷るゝもの多し。町家の人はかずしれず、足手を敷れ首背
中、しかれるものは則(即)死せり。中に添指引抜て、しかれし手
をは切落し、逃たる者の恐ろしさ、又々足手をしかれたる、
致し方なき泣叫び、追々楼格(閣)燃来り、生たる人の火あぶり
の、其しに声はいかならん。其後焼あと見渡せは、数多の楼
格(閣)何程か、人死の数は幾万か、憐れやけふは灰となり、其事
我か思ひしに、立身出世は猶更に、金の望みも更になし、何
卒我等無事にあり、畳の上てしぬるなら、是程よきは世にあ
らず。金も出世も好みなし、其事聞て此序平、仰聞らる言葉
にて、我感涙を相流し、さて人々の身の上に、望といふて好
みしは、わけなき事に相思ひ、与得此我感服し、さて〳〵
人の事聞て、誠に此世は憂世也。欲も望みもあらぬと思へ
り。