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項目 内容
ID J1500306
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔相模原の歴史と文化・座間美都治論文集〕S50・5・20座間美都治先生著作刊行会
本文
[未校訂]一 淵野辺村の場合
 淵野辺村名主は当時江戸出府中であった。というのは、淵
野辺村は烏山藩大久保と岡野本家・岡野分家の三給であった
が、多平が名主を勤めたのは岡野本家である。この年七月二
七日岡野一〇代目の孫一郎融重が隠居を許され、長男哲之助
克明が一八歳で跡目相続をした、幕営菊之間で老中列座の
上、久世大和守より前々の如く小普請組で大島丹波守支配た
ることを仰せ渡されたのであった。その代替りの祝いのた
め、岡野家では次の武相三か村に賄方御用を仰せつけた。す
なわち
武州上須戸村名主健次郎 三月・六月・九月
相州淵野辺村名主多平 四月・七月・一〇月
武州弥藤吾村名主要吉 五月・八月・一一月
 このため多平は、九月二九日に江戸へ出た。屋敷は本所入江
町であった。滞在中二日夜の大地震に出会ったのである。幸い
無事に四日目に淵野辺村の自宅に帰った。その話を聞書したも
のか、名主見習理平は次のように覚書を記している。
「十月二日の夜亥上刻大地震ニ而、江戸大荒御屋鋪方並町
々潰等多分、出火廿七処より出る、死人町人斗ニ而弐拾万五
千八百人余之書上ニ成、其外人別ニ不加奉公人並旅人之儀は
不相分、猶亦御屋鋪方之儀は人数不相分」
 いつの場合でもそうであるが、話は遠く地方へ離れて来る程
大げさになってくるものなのである。
一〇月二二日付で公儀より触書が出た。
「此度地震ニ而世之死亡之人民不少趣被聞召、天災とは乍
申不便之儀被思召、依之死亡之者之ため思召を以、右於寺
院来月二日施餓鬼修行可被仰付候間得其意可被申渡候、尤
修行料として銀拾枚宛つ被下候間其段可被申候」
「右於寺院」とは左の一三か寺である。
天台宗 東叡山学頭 凌雲院前大僧正
古義真言宗 芝二本榎 西南寺
真義真言宗 浅草 大護院
曹洞宗 貝塚 青松寺
日蓮宗 下谷 宗延寺
西本願寺掛所 築地輪番 興楽寺
時宗浅草 日輪寺院代 洞雲寺
浄土宗 本所 回向院
同宗 麻布白金台町 円満院
済家宗 品川 東海寺
黄檗宗 本所 羅漢寺
同宗 浅草 慶印寺
東本願寺掛所 浅草輪番 遠慶寺
 この触書が江川太郎左衛門役所よりこの地方に廻状となって
順達されたのは一一月になってからであった。
 なお次のような触書が一〇月二三日付で江川役所より廻さ
れている。
「此度江戸表地震出火ニ付、材木其外之諸色商人共より売
出運賃等決而引上間鋪候、若無謂高直ニ致候者於有之は可
為曲事者也、右之趣御料は御代官、私領は領主地頭より不
洩様可相触候」
 人の難儀につけ込む悪徳業者への警告である。また消費者側
に対しては、阿部伊勢守より大目付宛に出された次のような書
付がある。
「此度地震に付而は御府内潰家類焼等多有之候ニ付而は、
万石以上の面々を始め精々手軽に普請可致旨被仰出候、右
ニ付而は在方宿村々猶更之義ニ付、潰家等ニ而無拠家作致
候而も弥以手軽ニ可致候、若於背咎可申付候、右之趣御料
は御代官、私領は領主地頭より急度可申付候、右之通関八
州領分知行有面々え可被相触候」
 さて以上は一般的な注意であったが、この地域の農民達に
降りかかって来た負担としては次のごとくであった。すなわ
ち一〇月二〇日幕府の命により三等以上の百姓(別記して壱
等とは小麦弐俵納めるもの、弐等とは大麦弐俵納めるもの、
参等とは壱斗以上納めるものとある)に対して米麦徴発の公
告があり、関東取締役阿部伊勢守から各惣代名主に命令が下
った。惣代名主の多平(磯部村名主新九郎と両名であった)
は即刻高座郡一一〇か村以上の各名主に通告し、それから最
寄り一九か村の惣代と種々談合した。その結果、淵野辺村本
村では小麦にて合計五三俵、大沼新田では一三俵納めること
になった。これ以外に直接支配の地頭岡野に対しては、もち
ろん種々奉仕の手をのばさなければならなかったであろう。
(淵野辺鈴木敏道氏所蔵名主見習理平の覚書による)
二 上九沢村の場合
 安政二年の上九沢村名主源之丞の御用留によると、御屋鋪
様よりの下知書として次のような文書が記載せられている
(因みに上九沢村の地頭は旗本佐野欽六郎で高は一〇九石で
あった)。
「此度大地震ニ而 御屋敷向不少大破相成候間、高百石ニ
付金拾両御用金被仰出候処、違作年柄難渋之趣、村々達而
減方再応申出、依之高百石ニ付金八両割、当暮金四両、来
辰年十月金四両、弐ケ年割合上納方被仰出候間、前書之時
日無相違上納可致者也
安政二卯年十一月
地頭役所
相模国高座郡
上九沢村
下九沢村
相原村
作仁村
右村々
名主
組頭
百姓代」
 宛名は上九沢村・下九沢村・相原村・作ノ口(ママ)村の各村役人
宛である。この御用金の上九沢村農民への割付は、同年月次
の名主銀之丞記載の「江戸大地震御用金割付帳」によれば、
次の通りである。即ち二七懸けで一番負担額の多い二~三を
挙げると、一貫八四三文梅宗寺・一貫七〇八文金右衛門
・一貫六〇一文 重兵衛等で、全員五六名の負担割合は第1
表の如くになる。但しこの中に名主源之丞の名は見えぬ。
(上九沢笹野栄重氏所蔵文書による)
第1表 安政地震御用金割付表
(上九沢村)
負担額人数

1貫以上6
900文以上1
800文以上2
700文以上2
600文以上2
500文以上4
400文以上5
300文以上11
200文以上8
100文以上12
100文以下3
計56
(注) 人数が56名で上九沢村の戸数
32軒より多いのは,大島村よりの
入作のものがあるからである。
三 相原村の場合
 そこで、本編主題に関係ある地震見舞金であるが、相原だ
けについて見ると、村高三百石余故、一二両では百石につき
八両の半額に当る故、上九沢村の場合と同率になるが、この
村は佐野との相給故、その方との関係はこの文書だけでは不
第2表小川忠右衛門預り金
村名物成国役地震見舞金
新横山村25両3分2朱(国役共)
下恩方村60両1分2朱1貫287文2両1分680文10両3朱348文
飯山村27両1分1朱159文3両
矢野村4両1分46文
五ノ神村4両5分428文1分656文2両524文
上壱分方村42両3分348文1両5両
横川村35両4両3分2朱526文(外5か村分小川立替)
相原村28両1分711文12両2分1朱148文
注 利息は省略
明である。
 地震関係の支出であるが、これは大体作事の方面に支出さ
れている。しかし、藤沢家の場合は地震の前より普請が行な
われているから、地震後の普請が、それ以前からの引き続き
の仕事か、震災による修理普請かは明瞭ではない。
 地震前の作事の総支出は、金一六両 銀一三九匁五分 銭
八六四文で、内容を見ると、左官の手間賃、畳・建具等の代
金が大部分を占めている故、その前年からの引き続きで屋敷
は殆んど仕上りかかっていたものと見える。
 地震後の作事総支出を計算して見ると、金二〇両二分三朱
銀九〇匁一分七厘 銭八貫五七五文で、この中一番の大物は
大工の手間賃一一一人分、一日五匁五分で金に換算して約八
両三朱になる。次に太板貫、切組された木口等の須賀浦より
江戸までの船賃と、それから屋敷までのはしけ賃総額五両二
分一朱と四貫五〇五文である(用材そのものの代金は前年す
でに買いつけが済んでいたものか、記入されていない)。建
物の内容を見ると、土蔵・長屋・佐々周輔(用人)住居など
でこれが前述したように震災の被害による再建築かどうかは
不明であるが、恐らくは前年よりの引き続き工事で、母屋に
ついでの付属建築ではないかと見られる。
 しかし、家おこしの祝儀とか、かすがい代などは震災によ
るものであろう。いずれにしても、藤沢家の場合は震災によ
る被害というものは極めて微少であったに違いない。
 それに対して、前記勘定帳による地震見舞金は金三二両三
分と一貫〇二〇文になる。しかもこれは相原村名主小川忠右
衛門扱いによるものの中、すでに徴収されていた分だけで、
藤沢氏の全知行地のものではない。とすると、震災による支
出分を差引いて、多くのおつりが来そうである。恐らくそれ
は、財政窮乏による借財の返済に廻ったものに違いない。安
政二年末の金八二両一分と三五五文の返済金はそれらを含ん
でいるものであろう。藤沢家にとっては地震が時にとっての
救いの神であったといっては言い過ぎであろうか。(相原小
川忠良氏所蔵文書による)
四 新戸村の場合
次のような文書がある。(新戸石川家文書)
「差上申詫一札之事
一先月(注、安政二年十月)二日の夜大地震に付、御地頭
所御潰には無御座候得共、御土蔵其外大変之義に付、不
被成御取散、村方江夫役人足被仰付、則私共両三人江早
急可罷出候様被仰付、奉承服出府仕、凡取片付夫役相勤
候処、被御存候通に御座候、然る処、賃銀之義は、銀弐匁
五分宛被下置候様被御申聞、是又承知仕候、右出府中小
遣等も頂度、此段は御役人中御出府中故御願申頂候処実
正に御座候、一先帰村被仰付候砌り被下置候賃銀之内金
弐百疋被下置難有頂戴仕候処、私老衰相積候故、員数等
致忘却、少分之賃銀頂候様申触し、薄々入御聴、私共一
同迄恐入奉存候、此段厳重御糺に茂可相成候処、今般御
詫入被下置、上向者無事謂御儀に被成下候得共、対御役
人中に恐入奉存候間、右事柄御宥免被下度御義、御仁恵
を以御救被下置候段、以来忘却不致候様、御詫書差出申
処、依而如件
安政二卯年十一月 当人 源兵衛(印)
親類 三郎兵衛(印)
御役人衆中 外ニ 弐人」
 文書の内容は、一〇月二日夜の大地震で、地頭所(新戸村
は村高六一八石で地頭は土屋氏と岡部氏であったが、この場
合、両氏のいずれかは不明である)は潰れはしなかったが、
土蔵などが大破に及んだので、村方へ両三名至急出府して取
片付けるよう夫役を仰せつけられた。賃銀は二匁五分である
(大工の手間賃五匁二分の約半額である)。そこで源兵衛外二
名に白羽の矢が立ち、出府したのであったが、その間の小遣
銭については、折柄同じく出府していた村役人にお願いし、
いくらかの煙草銭をもらった。
 御用が済んで帰郷の際、賃銀の中弐百疋貰って来たが、源
兵衛が少ししか貰わなかったと言い触らしたのが村役人の耳
に入り、その怒りにふれての詫び証文なのである。
 一に自分が老衰による忘却のためであるにもかかわらず、
お上には内聞に処置され、事無きを得たるはひとえに村役人
各位の御仁恵の然らしむるところ、御恩の程は永くお忘れ申
すまじ、というわけである。
 しかしながら村に帰った源兵衛が、近所の村人たちとの茶
話のついでに、少額の賃銀しかもらえず、小遣銭にも不自由
した位の言葉のやりとりのあることは、心底からの不満では
ないとしてもほんのその時の言葉の調子で出てくることは、
いつの場合にもあり得ることである。
 それが、まわりまわって村役人の耳に入り、これを表面的
にとらえて「お上のお恵みをないがしろにする不届き至極な
言葉、本来ならその筋へ申し上げて厳重に処分すべきとこ
ろ、今回だけはここだけのことにして胸に納めておいてやる
が、将来のこともあるから詫び状を一札出せ」ということに
なっての文書であろう。
 村役人が百姓側に立っての味方となり得ず、支配者につい
て上手に立ち廻り、中間において利得を占めんとする態度
は、前掲の各村々の場合でよくわかるが、これもその例にも
れない。
 地震がもたらした百姓層への一の小波紋と見てよいであろ
う。 (新戸石川家所蔵文書による)
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1799
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
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