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項目 内容
ID J1500250
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔続・柏のむかし〕S56・3・1柏市史編さん委員会・柏市役所発行
本文
[未校訂](二)地震
 江戸時代以降“柏”が地震によって大きな被害を受けたと
いう記録を見つけることができません。江戸や水戸では何度
か大きな地震にみまわれましたが、その間にある“柏”には
何故か被害が及びませんでした。
 安政二年(一八五五)の江戸大地震は、数万戸が倒壊して
死者七千余人を出して、ついには江戸市中の大半を焼失する
という大惨事になりました。この地震で、江戸川以北の松戸
宿でも八十一軒が全半壊し、そのほか鎮守やお堂、物置、酒
醬油造蔵、土蔵などおびただしい数の建物が潰れ、または傾
き、五人がその下になって即死しました。このほか、現在松
戸市域である小山村、上矢切村、中矢切村、下矢切村、秋山
村、小根本村、大橋村なども被害を受けました。
 このように、江戸を中心として近国にも大きな災害をもた
らしたこの地震でも柏での被害を見い出すことができませ
ん。もっとも同じ松戸市域でも日暮村、金ケ作村、竹ケ花
村、和名ケ谷村、南花島村、河原塚村、松戸新田などでは
「潰家其他無之」だったといいますから、地震とはわからな
いものです。
 このころの資料は多数残されております。家屋の損壊、人
畜の損傷などがあれば、代官所や地頭所への届書、または御
救方願書などがあるはずですが、一通も見当りませんでし
た。本多領の船戸、藤心両代官所では、地震の四日後に被害
状況取調書を提出するよう村々に命じていますが、これに対
する回答は、どこの村の御用留を見ても記されておりませ
ん。
 水害や風害による家屋の倒壊や流失の場合は、それがたと
え一軒であっても代官所へ届け、これを口実に年貢の減免や
扶食米の交付を願い出るのがふつうです。おそらく「別条無
之候」であったので、廻状のみを写し、それに対する回答を
省略したのかもしれません。公式の資料はないのですが、戸
張村の名主浜嶋家の日記に「四ツ時地震、当村方之儀怪我無
之候」とだけ記されています。 「怪我」とは人体だけでなく
家屋も含まれているものと思われます。
 被災地の近くでは、地震が逆に好影響をおよぼすという皮
肉な現象を生むことがありますが、このときも例外ではあり
ませんでした。木材の需要が急増し、この地方からどしどし
切り出されて江戸へ送られました。柏村の名主寺島五兵衛家
では、水戸藩の小石川屋敷復旧のため、持山から杉丸太五百
本を切り出し江戸へ輸送したそうですから、多額の金銭を得
たことでしょう。このほか米や雑穀の値段も高騰したにちが
いありませんから、農民は余剰のものを売り、思わぬ収入を
得た者もいたことでしょう。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1695
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 千葉
市区町村 【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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