[未校訂]三 安政の大地震
安政元年一一月、伊豆下田の津浪のひどかった大地震に関連
して、火元注意巡廻などの水戸藩からの通知を松岡表が受け
たこの月末には、上手綱村杉内坪百姓直吉宅から出火、本屋
四軒それに明覚院隠居宅一軒が焼失しているが、翌二年一〇
月二日夜分におきた江戸の大地震は、高萩地方でも大きく長
く震え、震え止んだ後も数度少しずつ震え、翌三日にも両三
度震動を感じているが、それは建物などに破損が生じるほど
のものではなかった。もっともこの当時、久慈村に塩切りに
在役していた松岡表の料理人照沼源兵衛の話では、久慈村あ
たりでは器物などで損じたものもあり、また高潮を警戒して
不寝待機していたといわれる。しかし、江戸ではこの時一瞬
にして、城郭邸第の大半が倒壊し、五〇余か所から火を発
し、圧焼死傷する者が甚だしかった。この六日には中山氏の
牛込屋敷から御用状が松岡に送りとどけられ、大地震の時に
は信守とその家族は庭へ立ち退いて難をさけたが、御殿の損
壊は甚だしく、屋根瓦西の壁は残らず潰じ、庭内土蔵四か所
の内一か所は潰れ、表土蔵三か所の内一か所も潰れた。そし
てまた、長屋の屋根瓦は所々、壁は残らず損じ、五軒町目白
台戸塚の三か所の屋敷は、少々ずつの破損はでたが格別のも
のではなく、宛夫中間の内二人の怪我はあったが、家中では
子供まで一切怪我などはない。小石川御屋形は大口破損の所
多く、丸の内下町辺本所辺は大火になり、今もって地震が少
しずつ度々あって止まないなどの事情を知った。これによっ
て松岡表では、信守以下の無事を知り、翌日には家中一統御
城へ出仕御機嫌を伺い、かつ吟味役本席以上は、書状で御機
嫌伺いを江戸に差し出したが、この七日には水戸三の丸詰め
浅尾からの報告によって、江戸小石川邸においては、斉昭や
慶篤には別条がなかったが、家老戸田忠太夫や側用人藤田東
湖ら即死四〇数人を出したことを知らされた。松岡附郡奉行
所は、この月中に、昨年の地震津波、この度の府内の大地震
によって天災を予測、村々相応人は勿論一統に対し貯穀を令
し、村々大工職人など屋敷修理のために江戸登りを予告し
て、その他出を禁じている。
震災後幕府は、災後の疲弊を救うべく諸改革を令し、斉昭
また府下の人口策等において建議するところであったが、幕
政の中枢からは遠ざけられ、翌安政三年の正月からは、絶え
て登城することもなかった。かくする内、七月米国総領事ハ
リスが下田に着任し、その強行な要求によって、四年五月に
は下田条約に幕府は調印した。そして六月には老中阿部正弘
も没し、ハリスも出府して、将軍が賜謁を許す情況に至った
ため、斉昭は七月に幕政参与を辞任した。そしてまたこの年
の一二月に、中山信守は五一歳でこの世を去った。