[未校訂]わが中野方面は地盤も強固であり、火災等も無かつたであら
うし、家屋人畜の被害も甚だしきこともなかつたであらう。
しかし本郷村成願寺では諸堂が大破したと「末山記録」に記
してある。宝仙寺三重塔は無事であつた。が、青梅街道には
避難者の群がつづいたであらうし、各村内に縁故を頼つて来
た罹災者も幾許かの数に上つたであらう。
ここに特記すべきは、中野村はじめ十五箇村が支配役人衆岩
田、安藤、安福、秋山、伊藤の五家に各金壱両壱分宛を見舞
として贈つてゐることで、雑用ともそのために金八両壱分銀
十一匁三分七厘五毛を要した。この出金割合は、村高百石に
つき銀五匁三分壱厘壱毛余であつた。堀江文書一
また中野村からはこの月十五日に、素繩七百五十束、同三千
房、同弐千七百房、十七日に同じく一千七十五房、繩一千三
百房を浅草御蔵御普請方に納めてゐる。堀江文書一これまた災後
の同所普請用に使用されたのであることはいふまでもあるま
い。