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項目 内容
ID J1500026
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔下谷区史〕S10・3・31東京市下谷区役所
本文
[未校訂](三)安政二年十月二日の大激震大火事
 南葛飾郡亀有附近より亀戸、本所、深川に亘る区域を震源
地と見做される大地震である。深川、本所、下谷、浅草を中
心として、江戸の損害激烈を極め、潰家一四、三四六戸、土
蔵の潰滅一、四〇四棟を数へ、剰へ火災を伴って更に惨禍を
拡大した。町方書上によるに、死者三、八九五名、之に武家
の死者を加へると莫大の数に上る。然も余震頻々と起り、総
計八十回の多きに達し、漸く海内事多く人心騒然たりし時勢
の不安に、一層の拍軍を加へたかの感があった。今わが下谷
の被害状況を表示すれば、
震火災被害状況表
地震被害
町名被害状況
根津より下谷茅町への通殊に震動劇しく殆ど軒並に潰滅
茅町富士浅間社潰ゆ
大音寺前(龍泉寺)潰家多く鷲神社本社破損、僧房、碑等大破損
三輪、金杉辺心行寺、永昌寺、浄円寺、宗源寺等
皆潰れ各門前町又潰ゆ
坂本家悉く潰ゆ小野照崎神社拝殿倒壊
坂本より御具足町、車坂より正宝寺門前武家邸町家崩壊多し
御数寄屋町潰家甚し
山崎町潰家多し
車坂広徳寺門前通倒壊多し、山本仁太夫矢来内死人多し、下谷稲荷門のみ倒る
仲町倒壊多し
三枚橋向池之端料理茶屋多く松坂屋源七、蓬萊屋、無極庵、河内屋、浜田屋等皆大傾斜或は全潰
東叡山諸堂別条なし、宿坊には損所あり大仏の御頭落ち石燈籠、石地蔵皆倒る
不忍池附近不忍弁天堂別条なく石橋石燈籠碑等倒る
聖天宮潰れ、新造の一切経堂傾斜境内田楽茶屋全潰
火災被害
町名被害状況
下谷七軒町(出火)松平備後守、松平出雲守下屋敷類焼
茅町二丁目境稲荷の辺まで焼ける
茅町一丁目全焼、木戸塚にて止まる、榊原家中屋敷焼けこの辺死者多し
坂本三丁目より出火、二丁目全部、一丁目三分の二を焼き、坂本村に焼け込む
山崎町二丁目御切手町全焼
上野町一丁目裏、森川久右衛門組、御徒士組屋敷より出火
広小路下谷常楽院本堂僧房及同朋前町全焼
北大門町上野御家来屋敷焼く
新黒門町元黒門町同朋町南大門町長者町続車坂町代地下谷町二丁目代地}全焼
長者町二丁目一丁目一丁目少し残る
下谷寺町百観音拝殿のみ潰ゆ
上野御成道潰家多し、小笠原伊予守、黒田豊前守(半分焼亡)酒井安芸守、堀丹波守、石川主殿頭、大関信濃守(死者二人)松平伊賀守、建部内匠頭(死者十人)板倉摂津守、内藤豊後守等の中屋敷長屋殆ど全潰
御成道東裏手家々夥しく潰ゆ
谷中天王寺塔の九輪落ちたるも塔は無事
仲御徒士町御先手美濃部八蔵方より出火井上筑後守長屋、徳大寺、一乗院焼く、西側全焼、東側少し、松坂屋は土蔵全部焼く
長者町続武家地全焼
上野一丁目より広小路東方一円長六町余り、幅平均十間余り
下谷茅町二丁目池端七軒町辺一円長二町半、幅四十五間
下谷坂本三丁目より一、二丁目長二町二十間余、幅四十五間
千住小塚原より三輪まで長一町半、幅五十間
合計長十二町五十間、幅平均約三十八間
変死人潰家潰土蔵表(但武家を除く)
範団変死人男女合計潰家家屋土蔵合計
十三番組(上野辺、山下、下谷、谷中一円)一六一二一一三七二一、五二一一三八一、六五九
二十一番組(浅草阿部川町辺、下谷寺院門前)三六三六七二二五四一二五五
合計一九七二四七四四三一、七七五一三九一、九一四
江戸全市一、六一六二、二七九三、八九五一四、三四六一、四〇四一五、七五〇
十月二日大地震横死者数表
場所人数場所人数場所人数
谷中善光寺門前町一下谷通新町二九下谷山崎町二丁目三
下谷龍泉寺三一同坂本一丁目一同山伏町二
下谷茅町一丁目一同同二丁目五同御簞笥町四
同同二丁目二四同同三丁目二三同池之端仲町一〇
同金杉上町五九同同四丁目一六同七軒町二二
同同下町二七同御数寄屋町一三合計二九二
同三輪一六同山崎町一丁目一
 幕府は災後応急処置として、武家に対しては、十月三日、
十三の両日に、すべて新築邸宅の華美に流れざるやう、質朴
第一とすべきことを命じ、四日には本年中の月次の諸礼を廃
し、諸侯貸金の年賦返済期を延期し、且つ本年度の納付を全
免したのである。
 一方江戸市中の人口を減少する為め諸侯の帰国を許し、五
日には全潰、半潰の幕吏に類焼半減の休暇を与へ、翌七日に
は旗本御家人等救済の為め貸金を許可し、且つ救助金を交付
した。
 尋で十一日、邸の破損甚しき為め昼夜の警戒を厳にすべき
ことを命じ、二十一日に至つて特に年限内の屋敷の相対替を
許し、家屋建築に際して邸内に非常立退の空地を作らしめ、
十一月二日役宅再築修復に関して無用の坪数を生ぜしめぬや
う訓令した。
 次に十月七日には、寛永寺及び増上寺をして天下安全の祈
禱を修せしめ、十一月二日には、上野凌雲院以下十二箇寺に
対して、市民変死者の施餓鬼を執行せしめた。
 また市民に対しては、従来の煩瑣な手続を廃して、変死者
の屍体検分を簡にし、災後の浮説流言を厳禁し、諸物価工賃
に対する取締を再三厳達した。尚ほ直接救済事業として行つ
た事柄を列挙すれば、
 1握飯配付 十月三日より十九日間町会所より配付し
た。炊出所四箇所の中わが区内のは上野大門町松坂屋所有地
であつた。
 2救小屋 市内五箇所にあつて、救済人員三八一、二〇
五名、わが区にあつては、上野山下火除地即ち啓運寺の旧地
にて、十月二十八日までの救済人員五六一名であつた。
 3施米 十一月十五日より十二月二十四日まで男子十五
歳より六十歳までの者一人に白米五升、六十歳以下十五歳以
上の男女に対しては三升宛給与、而して市中総人数三八一、
二〇〇余人に及んだ。
 4施行 (イ)谷中の玉林寺は寺内野宿の者へ粥、味噌等
を支給。(ロ)池之端の松平出雲守は茅町二丁目より七軒町に
至るまで一家に白米三斗、金一両宛施行、(ハ)上野北大門町
酒屋万吉は金五両、琉球芋十五俵を、廿泉堂善兵衛は銭二十
貫文、下駄百足を、喜兵衛、与兵衛は手拭一筋宛を輪王寺宮
御建設の御救小屋内に施行した。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1323
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 東京
市区町村 下谷【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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