[未校訂]安政二年十月廿八日付二通
同十一月十三日付一通
江都の地震の被害の惨然たる様を報知し自家も破損いた
し学問も出来ざるに付き帰国して三年鳴かす飛ばすの読
書生活をするの決心をのぶ
別紙したゝめ置候得共、出府後さらに便り無之遂疎音仕候家
作も拾五両ニ売はらひ損金は多分二拾両はかりニ相成候得共
無拠天変之事ニあきらめ申候且拙生出発の事も別紙ニ委しく
申上候通愈三年の中は楽水楼ニ而静修可仕積ニ決断仕専ら帰
郷の仕度いたし、最早万事ととのひ候間十七日頃ニ出発可罷
降候間左様思召可被下候定而彼此評するものも可有御座候間
別紙の通りも何となく御承知被下置せ間には姑らく御話被下
間敷、何れ下旬過ニ相成可申、江都も余程おさまり候得共一
体雑風景千万ニ相成申候、別紙申上候通三年の中ハ寸歩もす
ゝます、学文研究の事故、多分の書物も入用ニ付先借不残返納
之上別紙三拾五両元〆より拝借不残書物ととのへ可申候、幸
ひ酒田の近在人同道ニ約し申候間荷物も弐駄持参の事ニ取斗
らひ申候、国元ニも用金当り候事ニ愈取究候様石井申聞、無拠
事ニ御座候何分常の時とちかひ変事のより起り候得は国家の
為可相成丈け忠を尽し候事より外有間敷候、屋敷も無難とい
へとも都合七やしきの事故中々のもの入容察し入たる事々ニ
御座候爰元ニ而地震の翌日、八千両斗も直様方才覚いたし候
様石井内々被話候、誠ニ困り入たる形勢の時に御座候都下は
諸職人及下品のものハ当分普請ニ而にきわひたるニ御座候得
共中以上の役人ともハ殊の外なるわさわひに御座候事ニ候間
自然衰微の兆と相成可申、其外いろの〳〵事有之候得共猶追
々可申上乍去死人の事ハ正実の所四五万人位のものニも可有
之と被存候、何分、大名諸武家の難義と相成申候
書物も格別相求めをき不申事故、今度潜学ニ相成候ては、第
一の用具ニ付、只々四拾両斗リ買入当用の分は間ニ合申候、法
帖も諸品相求め申候、用金なとも当り候付嘸々御心配ニ相成
可申候得共、外物ともちかひ旦拙生事ニ而は姑らくの中ハ入
用の憂も無之義ニ御座候間当分可然御取斗らひ可被成下候、
ほとなく動揺の心持ある世の中に而時をはかり機を察し僭伏
の事ハ至極上策と諸友人とも羨み居申候、三年の後ニ相成候
ハゝ天下の動静も分明ニ相成可申其迄の中ハ□(ムシ)し敷さわか
づ自らの為をはかり学文を成就いたしをくニしく事無之断然
退帰仕候、爰元も同し晴天ニ而おたやかに御座候得共道中は
嘸難義ニ可有之候得共取いそかつ緩々罷帰候事ニ存居候、右
早々追書仕度万し申上度候得共出立の事ニ付彼此繁雑忽々申
上度、母公江可然御話し置可申候 頓首
十一月十三日
一書拝呈仕候日々寒威盛ニ相増候得共、益御機嫌能被遊御座
恐悦之至奉寿□は拙生等も道中順天気無恙阿久津ゟ川船ニ託
二十五日之早天着府仕候ニ付先御安堵可被下候、道中ゟ書状
数品差上候得共江都地震の事はそも〳〵古今の大珍事意外の
事ニ御座候、最早日数も積り斯国元ニ罷在事も多分明詳ニ相
成可申候得共御府内半分斗の焼総体の破損故在府の人も子細
ニ至かね申候、先日ゟ降り人無之今度則絵図数品差上候間江
都の図と見合御覧可被遊候、江都中壱家として傾破せさるは
なし、たとひ崩れ不申ともいつれも突張棒ニ而扣へ置、御府内
中の土蔵はいかなる大丈夫なる普請ニ而も土壁落し柱斗り立
居候風ニ而火事用心の為にはさらに相成不申、幾十万といふ
数知れ不申候目もあてられさる荒唐の風と相成申候、右之仕
合(カ)故火事の所は誠ニきれひニやきはらひ申候、残りし土蔵と
ても壁を塗直し傾きを直し候事ニ相成而は江都中の土蔵新規
ニ建直すも同断の物入ニ可有之此時ニ当り大火にても起らは
誠ニさしら払ひと相成可申危き事ニ御座候、壁師は猶更大工
諸職人とも初めの中は常ゟ拾倍ニ相成候所此頃は厳敷御令ニ
而平常と相成候得共中々頼みかたく中々にて増料いたし頼候
事故容易ニ手入も相成かたき事ニ御座候、大名籏本は多分国
元ゟ為登候風ニ御座候、大松やも当春建候新しき家故格別の
傾きニ相成不申候得共蔵前の所は壁落来り毀れ申候、乍去怪
我は壱人も無之、土蔵も役ニ立たぬよふニ壁落候得共、拙生書
物なとは何れも無難にて大慶に候総而昨冬ゟ今春焼候て新ら
たに建候家は神田ニかきらす格子の痛み無之候東条艮斉は
いつれも大破住居六ケ敷事ニ而乍去怪我は無之東条は普請修
覆も容易ニ相成申間敷可憐事ニ候東郷は格別の崩れ無之、水
戸侯は大破損にて怪我死人余程有之由ニ候尤とも老侯第一の
家来ニ戸田某及藤田虎之介両人も圧死誠ニおしき事御座候
処虎之介は天下ニ稀なる豪傑ニ有之所、今度七十有余の老母
を抱き逃んとする所はり落来り頭微塵ニ相成、母は助り候
様、左様の事所々ニ可有之方角の大破大崩焼失等の事ハ図を
以て御覧遊さるへし、御城は惣土壁不残落て屋久らもいつれ
も崩れさる迄ニ御座候て役ニ立不申石垣も処々崩れ申候、城
内も大分のいたみにて死人怪我人数しれされともすへて諸屋
敷とも武家の怪我人死人等はさらにあらわし不申候たゝ噂の
みニ御座候さもあるへし、平常にて圧死なといたしては我身
のみならす家断絶の事故や、大名も二三家の主圧死有之由、
阿部の奥方も圧死、其外幾らも可有之候火事ニあひたる町家
は勿論屋敷ニても一方ならぬ怪我死人ニ御座候、中ニも大屋
敷にては会津姫路小笠原南部鍋島等の怪我死人をひたゝしき
事に相聞申候、神社仏閣はさほとの事ニ無之御救小屋も処々
ニ相立町人ともゟ処々救ひいたし事多く有之御覧可被下候斯
大変ニあひなからよき心得の人も有之ものに御座候浅草観音
廻辺よりも吉原・古塚原・箕輪辺(小)は残らす焼、本庄深川及京
橋辺小石川・小川町等の焼迹さらに残るものあらて実ニも昔
しの武蔵野と相成申候、いつれもわらむしろにて小屋をかけ
長者原新田の風ニ御座候石井忰も焼類いたしも怪我はなきよ
し、御台場は陣屋の潰れはかりニ而格別のいたみなし、会津
様はかり火事ニ而拾七八人死去の由御座候、前代未聞筆紙ニ
書し尽しかたく江都中疽□を病みたる風ニ而三百年の繁荘一
朝ニ空敷相成天力ほと恐敷もの無御座候当分の中はいつれも
仮住居ニ当惑故とニかく江都中諸職人徘徊昔日ニまさるにき
わひなれとも今二月三月すき各仮小屋出来候ハゝ人気をさま
り嘸々冷敷事ニ相成申へし、当時の中は怪我死人の哀しみも
思ひいたさす逆立居候得共者たひ〳〵ニ思ひいたし寂寞たる
人気ニ相成可申候、此変ニ而江都中に狂気の人物あまた出来
候由、さもあるへし、親子兄弟を亡ひ未亡人の心もちにては
じつにたへかたき事ニ御座候、地震にて心を明らめさわき立
ぬものは格別の怪我無之、多くは欠出し屋根より材木瓦ニ圧
落され、或は土蔵の壁近ニておしをとされ死人と相成候由、
故ニ地震の時は必らす、あわてるへからす土蔵及壁のきわに
は近寄へからす、家内ニ御話し御要心可申候、江都もいかな
る繁承にしても一反(旦)変事ニあひ候上は国家無事太平五年もす
ゝき不申時は必す旧ニ復し申間敷、五年も無事ならは表町の
分は立派ニ相成可申、されとも土蔵としてさらに崩破いたし
ぬれハ冨貴の家も大弱り里(ママ)にて有之上野前伊藤松坂なとゝい
ふ大呉服やは土蔵はかり拾壱戸前落し死人四拾人も有之候多
分四拾五六万両の損ニ相成候噂ニ有之候、殊ニ五六年のうち
凶年の程も難斗、且夷狄の変化もいかなるへし、何分ニも江
都の元ニ相成事ハはかりかたく存候、其うへ米穀安直之時ニ
斯なる変ニあひ武家の極難義とも相成候得はさためて領内の
ものニ用金も申付無理非道の国も可有之、然らは土民自然と
上をはなれ内乱の程も難斗可恐世ニ御座候、何にしてもさき
の斗り知れしさる累卵のうへに御座候間、決而由断のならぬ
事ニ御座候、乍去干戈の事ハ暫らく起る事も有之間敷、懈怠
の世ニ御座候国屋敷も御存之通表御門辺はかり崩れ候事ニ候
所、内ニ入見るに半分程も役ニ立不申ひしけ申候三屋敷いつ
れもその通ニ候得共不残普請修覆出来揚る迄は五六万金も入
用之由、驚入之申候第一に中屋敷修覆君侯を移しそれゟ上屋
敷ニ相懸、下屋敷はあとにてつくろひ候様此頃三屋敷土蔵雨
洩りを防き候仮之あまをひにて六百両相掛候様、余は推てし
るへし、故ニ屋敷も殊の外困り入爰元用達により才覚もいた
し候様、近頃用人国元ニ下り用金調達之由、今ころは三万金は
かりニ而多分本間に御無心之噂ニ御座候得共をそしはやし国
中ニ相懸可申、万々御覚後可(ママ)被遊候天変にも陸奥出羽ニ流行
いたさぬものニもあらす、国中一統の事とはいひなから拙宅
にても村の長と相成居時は是非身分丈の施しいたさつは相成
不申、今ゟしかけさるへからす、しかしさる時は当惑いたし、
また前年の如き事ニあひ候ては以之外なるへし、万事致かた
ニ相成候もの故人ニいわれさる先に此方ゟいたすときは事手
軽にて初而人情感服する事ニ御座候、拙生なとの考には従令
五六年のうち天下の形勢さたまらさる事故、万事節倹は勿論
衣服及諸品のたくひ今日要用のもの迄一切他ニ求め不申、是
迄所持有来の品ニ而間ニ合可申如何成たからにても用ひすし
てをく時はなきも同前、万一地震なとニあふときは却而わつ
らひの種故万(ママ)し有来の品を用ひ衣服も其通り絹布にても表衣
さへ木綿ならはさわる事あるましく、左様いたし村民ニ恵み
を加へ置且当年なとの如き豊年の時は多くもみ米を蓄へをき
万一の時施しニ用ひ候ハゝ手軽にして人々助り可申、然らす
は凶年ニ相成高直の時無理ニ相求め施すとも心配はかりニ而
其丈の施にも及申間敷、右等の事当惑いたさぬよふ従今分別
仕度ものニ御座候、地震の翌日佐倉侯堀田備中守溜りの間ゟ
出御老中上席ニ相成候間天下の政事も追々あらたまり可申江
都のたわむれ句ニ「佐くら炭飛んて備後の表かへ」備後の城
主阿部伊勢守も右の如く悪口と相成とかく不評判なれは表か
へにも相成可申候、異国船の事当事彼此無之候得共底のしれ
さる事多く有之故是又危き事ニ御座候、乍去右三年は変も起
るましく公辺にては専蝦夷を開かん事御手入ニ御座候、右あ
ら〳〵したゝめ奉得尊意度猶後便可申上順天すゝ(続)きニ御座候
御自愛奉禱上候頓首
十月廿八日出 清河八郎
求め置候両国家作の事すへ而両国辺無難故幸ひ崩れ不申候得
共中ニ入る(ママ)は大傾きにてとてもそのまゝには住居相成兼申
候、殊に折あしく先方のもの彼此申出候之為世話人のも無拠
大松や姪を以て屋敷ゟ残金受取震ひ候日々相渡候由、誠ニ一
日之事ニ御座候得共、今更何とも難致乍去五両為引候由留主
中左様の事致し心得さる事ニ候得共いつれも地震の事は知れ
不申義なれは、彼此申も詮なき事偖々折あしき事ニ御座候、
拾金も相懸為直候時は住居ニ相成候得共、深く相考るにとて
も住居いたし候とも都下中の大変ニ而諸大名御籏本町人とも
一同大困窮と相成、殊ニ、両三年のうちは彼此地震の繕ひの
みニ心を用ひ人重わきたち学文致すへき風も相見得す、聖堂
は天下の学文所一時も止めかたきなるに今度の大破にて書生
を相断り国元ニ返し其外艮斉ニ至迄多く学問人を世話する暇
もなくたゝ茫然たるありさま国家を経理する学文の道なるに
如何成天変にあふともます〳〵御世話もあるべきに地震の為
学問迄廃衰と相成苦々敷世体勿論住居も大破する程の変故武
家とも殊之外窮し今日俗事当用の事而已に心を用ひ、文学を
外に致すありさまも勢ひしからしむニとならん、然らは□
後五年斗のうちはとても学風盛なる兆も見す嘆息の至ニ御座
候されは学文に限らす芸能を用ひて渡世の浪人は殆と極困の
時と相成候得は拙生なとも此変幸ひ時を待ちあるに過るある
へからす、とても旧の所に住所と究め候とも中々後世の思ひ
もあるへからす、是則天よりしからしむる我身の為に却而精
学の基ひと相成可申候、拙生義も両三年已来独立いたし時世
のあやうき事も顧みすト居いたし候所、昨冬火ニあひ右ニ付
しはらく独学閑居の積の所人のすゝめ彼此此度家を求め候所
また〳〵天変ニあひ幸ひ火にも崩れにもあひ不申ニ候得共変
の憂ひはをなし事ニて又々是時ニ逆ひ[ト|ボク]居いたすは余り天道
に昏らき血気の致す事ニ相成候間、此変幸として従今三年の
光陰独学いたし万世の業を修め不朽の文章をあらわし可申
候、兼而申上る如く、いまた若年にてト居いたしかは成程並
々の人物ニ劣る事も有之間敷候得共家事ニ困しめられ身の為
ニはさらに相成不申、三十歳迄身の為の業を修め万事全備の
うへにてト居いたし可申事孔子の言ふ処なるに今更悔とも甲
斐なし三十而立と孔子も給ひ孔明も二十八歳にてはしめて学
盧をいて不朽の大業を志すものは軽々敷挙動致さぬ事ニ有之
候、今度の変は我身に取ては則ち不幸中の幸ひ此訓をはつさ
す専ら修業取究め可申、右ニ付家作は売払ひ可申と専ら相談
致候得共何分破れ候故安直ニて御座候得共無拠事ニ明(ママ)らめ多
分拾五金位ニ相成申候、然らは都合して損金二拾両たらすニ
相成、実ニ空敷事ニ御座候得共不悪思召可被下候、今明日中
売究め申候、依而思ふに天下の形勢別紙の如くにて五三年の
中は学文ニよらす吸々としてさらに廃徹同断の事ニ可有之故
に江都ニ罷在るも徒らに金を費すまての事にてさらに詮な
し、且江都に可然閑居の借家を尋とも壱軒として満足の家は
さらに無之、江都近在も同前当惑の到ニ御座候、かく無用の
地ニ罷在黄金を費さんよりは策を決し帰国之上楽水楼中に閑
居精学いたし候より外無良策候、是迄余り世時ニさからひ彼
此無用の心配いたし不朽の学問は一向相成申さす殊に数年天
下遊歴致し人情世態種々の難艱ニも触れたる拙生なれば此変
を幸と致し暫らく世事を断り静に古今の書籍を研究いたし文
章経学修練致候ハゝ此迄難艱の事適当致しまつ〳〵大業身に
帰り可申、今三年の世態を楼中に在りて時を見合三拾歳ニ及
又々勃興天下ニ功名を顕し可申然れは此さわかしき紛乱のう
ちに在りて無用の心配致すより万々相勝り可申と存弥帰国之
事ニ内決いたし候間此段左様思召被成下、何卒拙生義は江都
に在しものと思召暫らくのうち家事御任せ被下間敷伏して奉
願上候拙生義も帰国之うへは直様楼上ニ閑居、他人を相謝し
一切面会致さす三年の間専ら学文而已研究可仕、三年の後学
文全備いたし候上、江都にト居致すにもせよ又ハ三年の中に
変事起り何方に罷出るにもせよとにかく三年の間は楼中ゟ寸
歩も外出いたし申間敷誓而此段決断仕候依而志はらしくも在
府致候而は、無用の費も相立候故家作売払之上、当月中速ニ
帰国可仕、勿論爰元の世話のものまたは門人ニ罷出度と申も
のも多く有之是非在府之事ニ致候様すゝめられ候得共天下の
大勢を考るにとゝまるへきにあらされは他人には一向話し不
申候得共心中には決断仕候、乍去此事国元ニ洩れ候ては当分
の中彼此評判立候故右家作の事及帰国之事なとは他人ニ御話
しかたく御無用、江戸の大変ニ而家作も格別のいたみなき由
なれとも何分四隣大変事故当分住居も詮なきに似たれは時に
寄家作売払帰国いたすもしれ不申と只何となきに御話可被下
候今度罷帰るうへは、前文の通楼上にて三年の光陰を暮し寸
歩も外出なく専ら書物相勤め可申為ニ降る事故爰元にて力及
丈書物相求め罷下可申間此段左様思召可被下候、外品とちか
ひ何時払而も損のなきもの故金子も同し事ニ御座候、屋敷に
ても困り候風なれとも如何様ニも斗らひ成丈求め帰り度奉存
候、実に今度の事は大に屈し大に伸るの心懸、乍去あら町ニ
も当分此段御洩し被下間敷、且又紙面も遣度候得共家作売払
其外俗事多寸暇無之此書状も漸くしたゝめ候程ニ御座候間、
別紙の中可然御つまみ被仰遣可被下候、先頃迄はしはらく在
府之事ニて会迄致候所思かけなき大変之為今更帰国致も如何
ニ御座候得共、江都ニ閑居すへき借家も当分見えす、且閑居
致而も多分費のみ相懸り身ニ益なき事ニて且人の力をかり承
る拙生にもあらす、又ハ両度とも天時ニ逆ひ無用の金も費し
且天変流行之時なれは国元も難斗とても閑居ニ究め候うへは
国元ニ帰り楼上にて人事を絶し静閑ニ修むるに敷事あるへか
らす尤とも其為ニ書物を多く求め三年の業を満足ニ仕度間左
様御思召可被下候、尤此事は数年心底ニ思ひ居候得共遂血気
ニはしり閑学致かね候所、今度天の時与相成候得共地震の事
国元ニ而承ると専ら其積ニ決断薄々道察に談し来候間、道察
と御話し被下とも不苦候、何分乍繰事江都ニ罷在るものと思
召姑らくは家事御免し可被下候、何れ用向済次第連々出発可
仕候得共、来十一月下旬迄はいかゝ可有之哉、雪中の事故難
斗候、五郎も無事ニ有之候得共誠ニ実事の役ニ立ゝぬものに
て無用の人物故同道致すへきや、いかゝと案事罷在候実は斯
なる時ニは学文斗りにては何の役にならぬものニ御座候故実
地ニ達したるもの抱へをきたきものニ御座候得共、学文実地
兼体のものは殆と無御座感悦之至り御座候、最早江都も薄々
取収り候得共焼迹は仮小屋も出来ぬありさまにて古の武蔵野
もかくやらんと思はれ申候、愈静りのうへは人物も三分一も
減し可申国々の武士は極窮ニ及次第ニ衰落相成可申候、右早
々猶従後可奉得尊意候
十月廿八日出 八郎
絵図はあら町ニ配り被成下度、はゝ及他族厚意のものニも
別紙可然御話可申候