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項目 内容
ID J1500014
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔渋江抽斎〕S54・4・23森鷗外著 岩波書店
本文
[未校訂]その四十七
 十月二日は地震の日である。空は[陰|くも]つて雨が降つたり[歇|や]ん
だりしてゐた。抽斎は此日観劇に往つた。[周茂|しうも][叔連|しゆくれん]にも逐次
に人の交迭があつて、[豊芥子|ほうかいし]や抽斎が今は最年長者として推
されてゐたことであらう。抽斎は早く帰つて、晩酌をして寝
た。地震は亥の刻に起つた。今の午後十時である。二つの強
い衝突を以て始まつて、震動が漸く勢を増した。寝間にどて
らを著て[臥|ふ]してゐた抽斎は、撥ね起きて枕元の両刀を把つた。
そして表座敷へ出ようとした。
 寝間と表座敷との途中に講義室があつて、壁に沿うて本箱
が[堆|うづたか]く積み上げてあつた。抽斎がそこへ来掛かると、本箱が
崩れ墜ちた。抽斎は其間に[介|はさ]まつて動くことが出来なくなつ
た。
 五百は起きて夫の後に続かうとしたが、これはまだ講義室
に足を投ぜぬうちに倒れた。
 暫くして若党仲間が来て、夫妻を扶け出した。抽斎は衣服
の腰から下が裂け破れたが、手は両刀を放たなかつた。
 抽斎は衣服を取り繕ふ暇もなく、馳せて隠居[信順|のぶゆき]を柳島の
下屋敷に慰問し、次いで本所二つ目の上屋敷に往つた。信順
は柳島の[第宅|ていたく]が破損したので、後に浜町の中屋敷に移つた。
当主[順承|ゆきつぐ]は弘前にゐて、上屋敷には家族のみが残つてゐたの
である。
 抽斎は留守居比良野[貞固|さだかた]に会つて、救恤の事を議した。貞
固は君侯在国の故を以て、旨を[承|う]くるに[遑|いとま]あらず、直ちに[廩|りん]
[米|まい]二万五千俵を発して、本所の窮民を[賑|にぎは]すことを令した。勘
定奉行平川半治は此議に[与|あづか]らなかつた。平川は後に藩士が[悉|ことごと]
く津軽に[遷|うつ]るに及んで、独り永の[暇|いとま]を願つて、深川に米店を
開いた人である。
その四十八
 抽斎が本所二つ目の津軽家上屋敷から、台所町に引き返し
て見ると、住宅は悉く[傾|かたぶ]き倒れてゐた。二階の座敷牢は[粉韲|ふんせい]
せられて迹だに留めなかつた。対門の小姓組番頭土屋佐渡守
[邦直|くになほ]の屋敷は火を失してゐた。
 地震は其夜[歇|や]んでは起り、起つては歇んだ。町筋毎に損害
の程度は相[殊|ことな]つてゐたが、江戸の全市に家屋土蔵の無瑕なも
のは少かつた。上野の大仏は首が砕け、谷中天王寺の塔は九
輪が落ち、浅草寺の塔は九輪が傾いた。数十箇所から起つた
火は、三日の朝辰の刻に至つて始て消された。[公|おほやけ]に届けら
れた変死者が四千三百人であつた。
 三日以後にも昼夜数度の震動があるので、[第宅|ていたく]のあるもの
は庭に小屋掛をして住み、市民にも露宿するものが多かつた。
将軍家定は二日の夜吹上の庭にある滝見茶屋に避難したが、
本丸の破損が少かつたので翌朝帰つた。
 幕府の設けた[救小屋|すくひごや]は、[幸橋|さいはひばし]外に一箇所、上野に二箇所、
浅草に一箇所、深川に二箇所であつた。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-2
ページ 1298
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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