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項目 内容
ID J1400147
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔姫路城史中〕S27・7・15橋本政治著姫路城史刊行会発行
本文
[未校訂]第六節 江戸の震災
十月二日、江戸大地震で、諸侯の邸宅を始め、士民の家屋土
蔵等倒壊し、五十余箇所より火災を発し、倒壊家屋一万六千
余戸、死者二万五千余人に達した。大日本年表、日本大年表、国史眼、大日本全史、徳川太平記、見聞留。○倒壊家屋一万六千余戸全史に拠る。死者二万五千余人国史眼に拠る。大年表十万余人、全史、太平記四千二百余人に作る。
酒井家の大手上屋敷は、住居、表御殿、奥御殿など破損し、
土蔵は屋根壁落ち、表門並に土塀は倒れ、通用門、長屋は半
潰、裏門、長屋は潰れ、添屋敷の長屋は多く潰れた。そして
この上屋敷、添屋敷とも後から多く焼失した。蠣殻町中屋敷
も御殿居間、新屋敷は大破し、庭の茶室座敷は潰れ、稽古場、
厩、作事小屋、大砲置場、内番所など潰れ、米蔵八戸前、国
産会所並に同土蔵は大破し、長屋は殆ど大破し、組長屋三棟
潰れ、総囲土塀も残らず潰れた。巣鴨下屋敷は御殿、表門、
裏門、土蔵十八棟、家中長屋二十六棟、足軽長屋十棟は破損
し、その他厩、下目付役所、第六天社、秋葉社など悉く破損
し、隅田川屋敷も西方米蔵三棟、東方物見、表門西番所、二
方跡長屋など潰れ、南向表長屋、土蔵、番所、焰硝蔵など大
破した。そして即死者上屋敷三十七人、添屋敷十九人、蠣殻
町中屋敷二人、巣鴨下屋敷一人、合せて五十九人、負傷者添
屋敷十人、蠣殻町中屋敷六人、巣鴨下屋敷三人、合せて十九
人に達した。秘鑑。○見聞留、上屋敷焼失、徳川太平記上、中両屋敷とも焼失に作る。
忠顕は、七日江戸からの急使によつてかくと知り、大いに驚
き、八日九ツ時○正午十二時取敢ず家老高須隼人、奉行原田藤右衛
門、勘定所肝煎小幡孫次郎、奉行書役喜多猪介等を江戸に遣
した。江戸からは更に九日早追として使者高須十郎右衛門が
到着し、災害状況を報告した。見聞留。
将軍家定からは、酒井家上屋敷の災害に対し、老中連署の奉
書を以て見舞はしめ、二十四日この奉書が姫路に達した。
見聞留。
財政整理に着手したばかりの酒井家にとつて、この震災は相
当の打撃であつた。しかし忠顕は直ちに復興の計画を立て、
金子借入のために、同月二十六日奉行豊田権右衛門に、二十
八日勘定所肝煎村上継谷、奉行書役赤石熊八に大坂出向を命
じ、権右衛門等は二十九日夜出発した。見聞留。○安政三年上屋敷を建築すること本章第七節参照。
案 見聞留には、権右衛門等の上坂の用件を記さぬが、権右
衛門、継谷は、[曩|さき]に財政整理のため江戸に召され、又熊八は
大坂の銀主笹屋勘左衛門の招請に方り(ママ)、加古川駅まで出迎
へたものであり、金子借入のためである事は疑なからう。
金相場の暴騰 この江戸の震災で、諸侯が争うて大坂
で巨額の金子を借入れたので、金相場暴騰し、同年暮の
金相場は一両に付切手七十二匁八九分、二朱に付切手九
匁一二分を唱へた。見聞留。
第七節 忠顕、児島範長の墓に詣づ
かくてその年は在所に暮れて、明くれば安政三年である。
見聞留。
一月十二日、忠顕は恒例により、僧に命じて、本城に於て大
般若祈禱を修めさせた。見聞留。
是月、忠顕は五月が参覲の期であるが、江戸諸屋敷地震で大
破焼失のため、秋まで猶予を請うて聴かれた。姫陽秘鑑。
又是月、忠顕は江戸上屋敷新築のため姫路で入札を行はせ、
新身町大工三大夫に二千五百両で落札した。新築建物は表長
屋六十間に八十間二棟で、三大夫は船場清水門外の川端で木
材の切組に着手し、瓦は瓦職人七十人を使役し、飾万津で焼い
た。見聞留。○上屋敷震災で焼失すること本章第六節参照。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 905
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 兵庫
市区町村 姫路【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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