[未校訂](余録二)
安政二年○紀元二五一五年。神無月二日いみじきなゐゆりけれバ
井上文雄
動きなくあつしと土を思ひしに心をひやす折もありけり。
同じ頃かゝるいみじきなゐの後ハ、つなみといふものあ
らむなど、人々恐れあへるに、ある夜、雨風あらく海の
なる音したるに、つなみありとて、大路を走りありくも
の有けれバ、人々されバよと家を捨て、にげいでぬ、そ
ハはやう盗人のわざにて、そがまぎれに物の具うばはん
としけるを、やがてとらへられて、ひとやにひかれにた
りとぞ。
白波のよるのたばかり忽ちにおのれかへりてひかれぬる哉。
安政二年○紀元二五一五年。十月二日、江戸の地震のさわぎに、
火のわざはひ起りて、わが年頃いそしみたりし万葉通の
稿本廿余巻やけうせける時、悲しミ歎きてよめる歌並短
歌
猿渡容盛
夏の日の、暑き夕べも、すゞみすと、庭にもいでず、冬の夜
の寒き夜すらを、人のぬる、うまいもねずて、いそしめる、
わざは何わざ、わがためのわざにはあらず、いはまくは、畏
こかれども、千早振神代のみ跡、風の音の、遠御世御世の、
御故事、いよゝさだかに、かたりつぎ、いひつぐがねと、真
荒男の、心ふりおこし、青丹吉、ならの古葉の、古言の、道
の八十隈、くまもおちず、読あまなひて、釈言を、書に著は
し、其状を、図にもかきみ、あら玉の、年月遍く、文机の、
板もとをゝに、積れりし、其籍巻ハ、我為の、書にハあらず、
大御世の、栄の為、食国の、固の為と、身におはぬ、賤のを
我が、言挙を、とがめたまへや、僻わざを、きらひ給へや、
軻具土の、神のあらびに、其籍の、烟となりて、天雲に、棚
引みれば、心ともなし。
短歌
成せる業烟となりぬ今よりの我世ハなにのことをかもせ
む。
我ばかり幸なき人の世にもあらバこのわが心語らはまし
を。