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項目 内容
ID J1400047
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔仮名反古〕M28・2・21野崎城雄著・仮名垣文三発行者
本文
[未校訂](前略)
翌二年十月二日の夜ハ寒さ殊に強し是夜一冊の読切本を脱稿
したれバ魯文(仮名垣)ハ之を通り二丁目の[書肆|しよし]糸屋庄兵衛方へ妻よし
に持たせ遣りしが[軈|やが]て作料二分を受取り帰りしにぞ内一分を
地代の滞りに払ひ残り一分にて米を買ひ妻ハ井戸端にて米を
洗ひ魯文ハよごれ[蒲団|ふ とん]を纏ひ寝ながら本を読み居たるに突然
百雷の轟くが如き響きと共に地震大に起りスワといふ間もあ
らせず彼の家不相応なる[大階子|おほはしご]ハ壁土もろとも魯文の寝たる
上に落来りてヒシと魯文を敷付けたり妻ハ[周章|あわて]て駈来り力ま
かせに階子を持上げ魯文ハ漸く這出したるが幸ひ蒲団を着て
居たりしと壁土に埋められしとの為身に怪我も無かりしかバ
夫婦とも戸外に逃出して一夜を明しぬ、斯る時にも素早きハ
際物師の常とて翌早朝一人の書肆来り何ぞ地震の趣向にて一
枚摺の原稿を書いて貰ひたしと頼みけれバ魯文は露店にて立
ながら筆を取りて鯰の老松といへる趣向を附け折よく来合せ
たる画師狂斎後ち猩々暁斎と改む通姓川鍋洞郁に魯文下画の儘を描かせて売出
せしに此[錦絵|にしきゑ]大評判となりて売れること数千枚、他の書肆よ
りも続いて種々の注文ありて魯文ハ五六日の間地震[当込|あてこ]み錦
絵の草稿を書くこと二三十枚に及び皆売口よくして鯰の為め
に思はぬ潤ひを得たりと云ふ、左に掲ぐるものも亦当時魯文
翁の作りし戯文の一なり其絵ハ七代目団十郎[柿|かき]の[素袍|そ ほう]大太刀
にて足下に鯰坊主を踏まへ[要石|かなめいし]にて其首を押へ附けし形ちに
して歌川豊国の筆なり
雨にハ困リ〓野じゆく志ばらくのそと寝 市中三畳自作
東医南蛮骨接外料ほねつぎぐわいれう。日々発行地震出火の其間に。怪我を為
さゞる者あらんや。[数限|かずかぎ]りなき仲の町。先づ吉原がすゐ市
川。つぶれし家の[荒事|あらごと]に。忽ち火事に大太刀ハ。強く当り
し地震の[筋隈|すぢくま]。日本づゝみのわれ先と。転びつ起きつかけ
[烏帽子|ゑぼし]。きやつ〳〵と[騒|さわ]ぐ猿若町。芝居の焼けも[去歳|こ ぞ]と二
度。かさね[鶴菱|つるびし]また灰を。柿の素袍ハいづれも[様|さま]なんと早
いじや御座りませぬか。実に今度の大変ハ噓じや御座らぬ
本所深川。話しハつき地芝山の手。丸の内から小川町。見
渡す[焼場|やけば]の赤ツ面。太刀下ならぬ梁下に。再び敷かれぬ其
為めに罷りつん出た[某|それがし]ハ。鹿島太神宮の身内にて磐石太
郎いしずゑ。けふ手初めに鯰をバ要石にて押へし上ハ。五
重の塔の九輪ハおろか。一厘たりとも動かさぬ。誰だと思
ふアアつがも。内証の[立退|たちの]き芸者のかん酒。焼けた潰れた
其中で。色の世界の繁昌ハ。動かぬ御代のおん恵み。あり
が太鼓に鉦の音。たえぬ二日の大施餓鬼。ホヽつらなつて
坊主。
又此年安政[見聞誌|けんもんし]三冊を出版す二世一筆庵英寿と魯文二人の
[合著|がつちよ]なりしが公儀の許可を得ずして出版せし[科|とが]にて版元と英
寿とハ手錠となりしも魯文ハ著名せざりし為めに其罪を免が
れたり、刑満ちて後ち英寿来り見聞誌ハお前が九分まで[筆|ふで]を
取り私ハホンの手助けを為せし迄なるに名を著はせしばかり
で此災難に遭ひたりとて愚痴をこぼし夫にかこつけて屢々無
心に来りたれど固より常にハ一朱の貯へもなき魯文なれバ是
にハほと〳〵[困|こう]じ果てたりとぞ
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 581
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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