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項目 内容
ID J1400033
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/11
和暦 安政二年十月二日
綱文 安政二年十月二日(一八五五・一一・一一)〔江戸及び近郊〕
書名 〔東都地震の記〕「麗斎叢書二十」所収国立国会図書館
本文
[未校訂]東都地震の事を記す
山竭川尽るはなし昔しよりいひつたへたれどこわがるべき理
を挙つらへるあたし事よと年頃おもひすてたりしが、ことし
乙の卯の神無月二日の夜亥の剋ばかりに、吾妻の都にて西北
とおぼしきかたよりいといたふ地震して、千住ハ家居半くづ
れ、小塚原ハくづれたる上にところ〴〵火出、吉原は兼て設
置たりし用心橋てふもの或ハ落、あるは動かさりし上に、時
のまにやけいでけるほどに、大門より外はのがるべき道なけ
れハ死うせたるものいと多し
三浦屋とか云るはふたゝび震ひいでん事のみおもひくして(ら欠カ)、
焼出る事はかさり(ら欠カ)しにや穴蔵てふものの中にひそみ、居家の
内なごりなく蒸ころされたり、姿海老屋とかいへるは主じひ
とりのこしてみな死失、岡本とかいへるは主をはしめ遊び女
まで四十人あまりやけうせぬ、おのれも角町といへる街の家
主金右衛門と云ものと同じちまたの安次郎といへるものと元
学の師をともにしてけれハ、四日の日ぞかゝりにやどりせし
大音寺前とかいへる処を訪たりしに、金右衛門ハひとりのま
な娘をうしなひ、安次郎ハ母弟をはじめとして抱置たりし遊
女八人までうしなひしとなん、此廓より
公けへハ六百三十人の外ハ死失せしものありしなど訴奉つれ
と、三日のあしたゟ七日の夕まで、葬にとてものせし屍ハ今
戸の里の寺ひと所にて千二百人あまりありしときけハ、街に
てこの里の死失たるもの六千人にあまりけるしな(ママ)ど伝るも誠
ならんかし、金右衛門・安次郎など訪たる折しも、帰路にこ
のさとよぎりしか得ならぬ臭の鼻を襲て堪へ(べ)くもあらざりし
に、やけたる屍をこもむしろに包五六十人もおなじ車につみ
かさね寺々へはこび行様哀なんと云ばかりなし
吉原より東南のかたハ山谷橋場大かたはくづれ、今戸よりも
火出て田町一丁二丁より竹門通・南北馬道・聖天横丁・三芝
居・北谷中・花川戸・山の宿など大かたハやけ失たり、よの
常の災には焼たるあともぬりこめ立連なり街の如なるハ此都
のさまなれど、此度ハぬりこめの土ゆりおとされし上に火か
かりつれば、浅草寺より北の方ハ只ひとめの焼すなとなりは
て、又浅草寺より南のかたは広小路並木家居みなくつれ、駒
形より火いてゝ、三軒町・諏訪町・黒船町・御厩川岸迄やけ
うせ、西のかたハ菊屋ばしのほとりより火出て新寺町・新堀
など二まち三まち焼うせたり、
諏訪丁壱丁にて四十七人死うせ、茅町三丁にて百十八人し
にうせぬとて、そのほとりに住る理兵衛と云ものゝかたり
て記、駒形ゟハ厩かしまで残りたるぬりこめ三ツの外あら
ざるよし
是より西のかたは外神田・下谷・根津・金杉・箕輪・大音寺
前などきたのかた程はけしくて山崎町・車坂・広徳寺前・池
のハた・天神坂・下明神・下仲町・谷中くずれさり家居もな
く、坂下より二まち三まち茅町より切通し、広小路より裏御
徒丁・長者町・御成道の辺りまておなじさまに焰となり、石
川・井上・大関・黒田・小笠原・堀内翁なとの国つ守焼され
ハ崩る
堀の御家にてハしにうせたるもの百人にあまりて、奥かた
も湯嶋天神のうらさかにかゝり、本郷へ退給ハんとせしか、
石段くつれ、のほりかたかりしほどに取てかへし、神田明
神の前までのがれ給ひしか、駕籠の中にて俄に失給ひしと
其辺に住居する吉五郎といふものかたりて記、後庄内の御
内人黒川一郎と云もの其御内の人より聞しとてかたりける
か、其折しも奥方ハみごもりて八月になんなり給ひしよ
し、あはれにもまたいたはしけれ
根津・下谷より西のかた本郷にてハ加賀の御家のみすこしハ
くづれつれと、まるではげしくもあらさりしにや大塚の西な
る鬼子母神のほとりのみ三丁四丁やけうせ、壊たる家居いと
少なく、小石川・水戸の御家にのみしにうせたるもの百三十
人あまりにて、御家の北なる小笠原とかいへるは君も内君も
棟木にて押潰されうせぬるよし誠にや
水戸の御家にてハ前の中納言の君のふかくたのみ覚されし
藤田虎之輔・戸田銀次郎も死失ぬ、虎之輔ハはしめ難なく
のがれ出しかと老たる母刀自のあとに残りしをおもひいて
引かへし救出さんとして、棟の下に失果つと其国の人より
聞ぬ、此国の儒者なる会津恒三の教子にて長門の人に赤川
淡水といへるものありしが其物かたりに虎之輔の母ハいと
雄々しき老女にて、我子ながら日頃ハ物の用にも立へきも
のよなどたのもしくおもひつるに、其甲斐もあらて、深く
たのまれ奉りし君をおき、翌をもしらぬ老の身のため、あ
たら命を棟のもとに捨たりし不覚さよとむづかりしより、
この母ありて此子とやかゝる事をやなとゝ諸ともに語り入
りたりし
小石川より南のかたにてハ小川町ハ西爼板橋より東猿楽町ま
てなごりなくやけうせ、国つ守の邸くづれたるハ、青山・大
井・酒井・松平讃州・淀橋・柴・土屋・伊東・小出などの御
家々にして、松平駿州・堀田備州・松平豊州・板倉・榊原内
翁なとなごりなく焼失たり
讃州の御家に徒士の士廿人あまりも内々長屋に住居せる中
に、其頃初のぼりの若ものありしを、もろ人の日頃打より
嘲せしか、二日の夜ハいといたふさるがたく、酒のみにま
からんとかのわかもの只ひとりのこしおき、吉原に行たり
しかば残りなく死失るとなん
豊州ハ僅五万石の御家なるに、馬十六疋、人百七十二人し
にうせぬ、公へは七十六人と訴奉りしと其国の人荻野錦橘
かたりぬ
其他旗もとの人々には佐藤・日根野・本郷・金沢・酒井・
本間・半井なとみな焼失せ、土岐といへるハ火をまのかれ
てたた十七人失しと其家の士森田市左衛門より聞ぬ
焼ぬ御家さえかゝりせば、まして焼たる御方らの御家をや
いづれの御家にかありけん、あるしの殿ハ先のかれいで給
ひしかと、内君より男子四人瓦の下にうつもれ給ひしかハ、
引返し下部とも諸共に力の限りはたらきて、二人ハ援出し
給ひし、其間に下より火ほとはしりいで父上ハいつこ母上
ハいかにし給へしあらあつやとおめきさけぶ声しいるを、
救もあへず焼うしなひ給ひしとかや
その父君の心の内いかなりけん、よそに聞だに涙せきあへ
ぬものを
小川町より東かたハ駿河台のみさるともなかりしが、内神田
柳原ハ殊にはけしくて、公の穀蕃(蓄カ)ふる、ぬりこめ六十間あま
りくつれ落、たふかるハなし
おのれかやとりとしつる街のみにて廿四人死失けるか中
に、橋本といへる家、とめる育の其身いちどのあやまちも
なけれど、妻・娘をはじめとして七人までうしなひしも有、
又十七になんなりつる娘と七と三との男子みたり失て、も
のくるほしくなりつる母も有、この同しく長屋におのれか
垢付たる衣そそきなとする女あるじかきて語つるに、其夜
夫ハ遠き方へとて出たりしかハ、十ニなりぬる娘といさ□
□さしていねハやなといひもあへぬに、うつハりの下に押
潰され息も突あへぬほとなりしかハ、心のそこにおのれお
さなかりし時御寺の聖の十二万歳を一劫とか云て、此世の
那落(ママ)の底とかいへるにしつむものよなとの給ひしを聞つる
か、いま其時に逢たるなめれは吾夫のミか天の下ニ生のこ
る人のあるまじきにと思いたりしに、はるかなるかたに夫
の声して娘の名吾名を呼ハせ給ふに、うれしやいきておハ
しけんされと、あまりにはるけきかたをのミたつね給ふと
のいぶかしさよと思ひにたれと、声さへ得いてさりしに、
娘ハもの云ことのおのれほとにかたくハあらざりけん、爰
に多くの人のこゑ立騒くさまして、此火きやしなハ救出さ
んするほとに心強く思ひてよと云声の、猶はるかなる方に
のミ聞へしか、出てゝ見れは、隣なる家より火いでたりし
を瓦の下にうつもれ給しかハなどかたりけるか実にさなり
けんと人〳〵と語入りたりし
御城の内にてハ紅葉山にすへ奉りて世々の御霊屋ハ更なり、
むかしよりおさめおかせられつるくさ〳〵の御宝こむるぬり
こめをはじめとして、櫓・石垣まて数を尽して崩れ落、内腰
かけよりも火出てたり
其夜 将軍家も御小姓只ひとり召具し給ひ、御玄関まてい
てられし、折しも内藤紀州のミ御供も具し給ハす装だにな
くしてかけつけ給ひ、当直し居つる徒士のやから廿人あま
りと守護し奉り楓山まて退かせ給ひしに、百人番所もくつ
れおち、黒鍬てふもの九十七人しにうせつるよし、又見附
々々の石垣ハわれざるところもなく、護持院原の石垣なと
堀の中にしきならせし如くくつれ落つるよし
御城より東丸の内は酒井雅楽上中両屋敷・小笠原右京・森川
羽州・会津上中の邸とも・火消屋敷・因州・遠藤但州・松平
総州・本多中務・増山弾正なとミな焼うせて、越州・大岡・
秋元・池田・永井・松倉・戸田・松平伊賀・阿部勢州・内藤
紀州の御家などなごりなく壊れたり
酒井の御家は五十八人死失、内藤の御家は廿八人死失て、
森川の御家ハ君の此日より二三日前にかくれさせ給ひけれ
ハ、柩のまゝにまた葬り給ハさるを得出しならでやき失な
ひ給ひつるに、奥方も棟のもとにうせ給ひて、若君ひとり
庭の井にひそミ給ひ、火をまのかれ給へしとなん、会津の
御家ニ而ハ所々にあなる御やしき迄数ふれバ七百六十人失
ひ給ひしとかや、五日の事なりし田町にすめるもの来て、
昨日会津の御家よりとて車十輛・馬四疋・長持四棹もて失
し人のなきからを高繩(ママ)の寺に運び行しなどかたるもの有し
か、この御家なる姫君のかしつきなりし翁とかや、其夜ハ
おのれか長屋にありけるにこよなき地震ゆへ舘にはせ参り
しにはやなごりなく崩れ落、姫君の御行衛も分らざりしか
は、くつれる家の棟に立またがり腹切て失せけるとかや、
けなげにもまたいたわし、阿部の御家ニ而ハ君の公の□お
ハして表に居給ひしまに奥はくつれ落、いとおしミ給ひし
側女を初め、女房達十一人、侍廿人あまりうしなひ給て、
奥方も梁にしかれ給ひしかとも、年頃召仕給ひし女房の内
に甲斐〳〵しきことのありて、おのが身をもて梁をさゝへ
あげ、左右の手をつよくつき立、息絶なから奥方を覆ひ奉
り、ちとも倒れさりし程に、左りの御腕を柱にしかれ給ひ
しかと御身ハ恙なくおハしましつるよし、後かの女房を棺
に入侍るに惣身の力を[腕|うで]に尽したり、けだしいかに撓めて
もたハまさりしとなむ、いまの世にはいとめつらしけれ、
増山殿も瓦のしたに敷れ救ひいたされ給ひしか士より上の
もの二十人あまりも失ひし、林家にてすら十六人しにうせ
たりと其教子ゟ聞ぬ
外桜田は鍋しま・毛利・北条・伊東・柳沢・我 御家をはじ
めとして薩州の装束やしきまでみな焼うせ、上杉・板倉・小
笠原・石川・三浦・真田・小鍋嶌・阿部播州・水野出羽・大
岡・朽木抔なごりなく壊たり
亀井の御家は死にうせしもの十一人と其家の侍堀確三より
きゝぬ、この確三と昌平坂なるもの学所にありつる鍋嶋家
の御内人何某とかいへるは、其親しきものゝ病みとらんと、
朔日の朝其おやしきに帰りしかあくる夜梁にしかれ立出べ
くもあらねば、声をあげ人をよへるに、火出来て救へきす
べなければ、人々のいまはおもひきれよと云すてゝ泣々も
立去しが、火しづまりて見れば、太刀をにぎり死し給たり
しにぞ、扨は腹や切てけんなど云ものゝありしと同し人の
かたりけれ、此御家にのみ死失せたるもの三十五人とそか、
御内人木原善四郎より聞ぬ、またいづれの御家にやありけ
ん士共廿五人二日の暮過る頃国より爰に来りしが、生たる
もの只ひとりの外はあらで、毛利の御家にては君のあす御
やしきにつかせられんと武蔵の蕨駅にやとらせられ、御先
の人々の御門まて来し折しもかの禍して、鍋嶋の御家より
火移しかば其さわきいはんかたなかりしに、死うせたるも
のも三十二人侍ると其御内人小倉健作語りぬ
柳沢の御家は定府てふものなき御ならはしなりければ、女
童のみなりつるに、門々みなかたふき貫ぬきうこかさるよ
り、長屋の窓をぬけ出て屛を躍越辛くしてのかれいてしも
のゝ外はみな火にて立まかれ死失てけるに、この御家に京
橋の辺りとかや、鳶頭ちういやしきものゝまなむすめを宮
仕に出しつる男ありしが、この夜いかにもして娘をたすけ
出さばやと、屛のくつれより入て見るに奥のかたははや焰
立[散|ちり]てける程に、表のかた迄もくるほしきまて尋ねさまよ
ひしに、いやしからぬわかものゝにげもやらで御玄関に立
居しを見人の親の心は誰も〳〵同しからまし、今になんす
るところにいわけなくにげもやらぬ哀れさよ、行衛なき娘
尋るよりはとかの若ものを背に負て帰りきしか、ひと目ふ
た目ハものにまきれて誰も問さりしに、娘もさだかにやけ
うせしなど聞えければ、このわかき人も親君の尋まどはせ
給ハめと其名問てけれどふかく包て何ともいわざりしを、
かにかくせめてければ、我は松原何某よとの給ひしほどに、
扨ハと打驚きいそき御やしきに送り参らせしよし、このを
のこなかりせばいかでか助り給ハんと、いと哀れなりしな
とかたるものありき、我 御家にては君も梁に圧倒され給
ひしかと、御座のかたわらにすべ給ひたりし文箱の上に棟
木落てければ、筐ハくだけつれと、ふみにて支たりし程
に、御身ハ恙なくおわしけれと、御内人ハ三十八人失ひ給
ひぬ、この夜麻布の里なる御下やしきに退らせ給ふに、と
もし火だに持せ給ねと御馬にめされたれさからふ中にもや
んことなき御方とはしらざりしかと会津の御家ニ而ハ馬三
十六疋失ひ給ひしかば御のきにもこよなくあやしかりしよ
し、又北条の御家とかき(カ)にし若君、其夜妻迎給ふとのあり
しかハ媒の君をはじめとしてよめ君まてあへなくしにうせ
給ひしなとかたるものもありき、誠ならましかばいと浅ま
しき事になん
日本橋通りははしより南のかたほどいよ〳〵はげしくて、南
伝馬町・鍛冶丁・五郎兵衛町を始として、東西の川岸より京
ばしまでやけうせ、芝井町もまたやけたり、其中にいと哀れ
なりしは、さきつとく品川洋に夷ふせく料として新たに築給
ひてける炮台の中に、会津の御家にて請玉ハり給ひしところ
は、土のそと割やしけんと思ふ斗に鳴はためき、厳しく立つ
らねつる小屋倒るるまでおしかたふき、戸も窓もひらかねば、
とやせましかくやせましとためらうまに、下より焰ほとばし
り出し程に、とても死んするいのちなれハと、指違ふるもあ
り腹切るもあり、総て十八人しにうせ幸に火気に火はうつら
さりしかと、御やしきものまで数を尽して死うせたりしよし
黒川一郎の父は酒井家の物主にて其夜うけ玉ハりつる炮台
にありしか、会津の御家にてうけ給ハれるところと憐けれ
ハ救ひ給へてよと人のきくにより、船出しつれと、数ある
台場のその中ニ、会津の御家のハ初て築立る処なれハ、小
屋の上も一尺の板もてふき、そが上に石灰もて六寸斗りに
ぬりかため、其上を二重ぬりにこめたるなれハ、戸も窓も
打やふるへくもなくて、中なる人々のあらあつや、さらハ
腹切んなと云申者の外に聞へけれと、助くへきすへもあら
ざりしまで尽(巻カ)立散しほとにも、火集り火うつらハひとりも
いきのこるものハあらしと船漕かへしけるが、今宵ハ常に
替りて潮みな乾き辛くして、おのが持場迄帰りしか、津波
やらんと夜ひとよ安き心もあらざりしとものがたりしと
て、一郎のおのれに語りてき、又芝の明神前に岡田屋とて
今昔しの文ひさく家ありしか、そがぬりこめの土落たりし
に、日数へて其土とり払ハせしに、駕籠にのり男の童独具
したる商人の駕籠舁もろ共にうせ為しか、このことのいづ
この人とも分らざりけり其妻や子のなげきおもひやられて
哀れなりとかたるものもありき、また日本はしの四日市な
る商人のぬりこめの際に、いやしげなる男女ふたり埋れ為
しものありしを辻君にやと云あへる、
其他隅田川よりにしハ乙女はしの辺りより大川はしまてやけ
うせ、水野・秋元・安藤などくづれたるもある
水野の御家にては死うせたるもの三十九人と其御用人照嶋
春丈よりきゝぬ
墨田川より東のかたは、先深川ハ永代橋の辺り僅に残して、
相川町・黒江町・大嶋町・蛤町・仲町・八幡門前町皆やけう
せ、真田・水野・安芸・阿波・土井・一橋なとなるハやけ、
あるいハ崩れ、本所よりハ総て六所より焼出たり、先豊川通
りハ相生町二丁め緑町花丁まて十一丁焼失、荒川・本多・中
山・鈴木・浅倉・松平・今井・中川・興津・稲葉・山本・近
藤・津軽などの御家のこり、少々焰となりぬ、是を一処とし、
いま一処ハ、御船蔵前よりやけ出て、柳川町・六間堀・滝川
町・高橋までやけ、西条・小幡・本多・松浦・松平遠州・井
上河州・太田播州・小笠原佐州等やけさればくつる、今一処
ハ中の郷より出て、荒井町・番場町・弁天小路までやけうせ、
松平防州・松浦壱州・向井将監・松平左衛門なと皆やけた
り、亀井戸よりも二ケ処やけ出、小梅も引船の辺まてやけう
せぬ、此六処に深川を添て死失たるもの四万七千人なりしよ

深川仲町にかなものあきなふ家ありしが、七人八人の家の
内のこりなく焼うせてければ、三日四日のほどハ其なきが
ら掘出すものもなかりしと
亘理長三郎のかたりてけるが、本所ニ而ハ津軽の御家にの
み死うせるもの七十八人ありしとそ、小梅に名だたる小倉
屋といへる餅ひさく家のほとりのみにて百人あまりも死う
せつと其辺りのものきて物かたりぬ
此夜の地震、北は草賀・越ケ谷、南は神奈川・川さき、東は
牛宿・松戸・行徳・舟橋まて甚しく、五十子台まち・芝・駿
河台・浅草・上野・吉原堤・本所・小梅・松戸・神奈川なと
三四尺ほとも地割、向じまの辺りハ一丈あまりさけ、砂と泥
とを吹出せしところありなど云ものもありき、合せて指折(数カ)楼
れハ、其はげしき処は十里あまりにて、火は三十あまり二処
よりいてたれと、風烈しからぬをもて焼たる処ハ多くもあら
ねと、街のかず五千七百あまり、宮居寺々凡六千二百余り、
塗籠の数十一万四千五百余り、国卿守の御やしき四百あまり、
御旗本の方々より軽きものまで其家居十八万五千八百あまり
あるは崩れ、或は焼けうせて、死うせたるもの十壱万八千六
百人、あやまちせしもの三十二万六十人あまりと公けへ訴出
しかとも、あるハ外つ国よりのほり来しもの、あるはいつこの
ものともさだめぬものゝ死失たるなど、数ひなハ二十万にも
あまりぬべし、いまにして其夜のさまおもひ出るに、老たる
を呼出さる、訳をたづね、神を念し、仏を唱るハさてしもい
わず、むな木におしたほされ、瓦にしかれ、うめきくるしむ
其上に炎にまかれ烟りにむせび、いとくるしげになき叫ふ声
身にしみて、哀れともいたましとも得いふべくもあらぬに、吉
原の里に名だたる遊女某よとて紅井の打かけ着て、白き脛の
処〴〵より血流るゝをすあしにて泣まどへる、それの処の殿
よとて太刀も佩給ハて、鞍も置ぬ馬に尾筒・立髪所々やけの
こりたるに打またがり給ひたる、ふとくたくましげなるおの
この柱のもとに打しかれ、目のたま飛出死失たる、あでやか
なる女房のをさな子の手をにぎりもろ共に瓦の許に打たほさ
れ、歯を喰しはり息絶たる、見るにつけ聞に付あさましから
ぬはなし、かねて夜ひとゝき夢の中にゆめ見る心地して大路
に立あかしけるに、燃のこりたる炎の中より所々青き火もえ
上り、なまぐさき臭の鼻を襲もいと心うくて、早明よかしと
念じつるに、明るに随ひ大路を見渡せは、夕べあやまちせし
ものを戸板にかきのせ、肩にかけいたハり行人の路もさりあ
へず、或ハ腕ぬけ、足をれたる、あるは頭打割れ、腰たゝざ
る、其浅ましさいわんかたなきに、やけたる屍を菰むしろに
おし包み、車につみしハさてしもいわず、酒・砂糖なと入る
べき樽を柩の替りにし、猶たるへくもあらで、街に水たくわ
ひありし桶ぬすみ行もある、そもたらぬにかあらん、なきが
らのみ埋帰るもあり、夕べ郭をのがれ出しうかれ女と覚しく
て髪もおとろに面も得あらハて紅ゐの湯具したる、さすがに
日頃浅からずちぎりおきし男にや手を引合てたど〳〵しげに
路行もあり、又ひとやをのがれいでし罪人にや、さかやきの
跡長くのび色あをざめたる男のいきもたゆけに行もあり、こ
のひよりして後は日毎に五度六[度|たび]地震せざることもあらね
ば、人の心もさはがしくて、今宵ハ津波とぞ来るべけれ、翌
はさきに増たる地震してあらめと言のゝしり、かたふきたる
家おさむるものもなく、大路に戸障子かけ渡し、其中に起臥
しいるほどなれば、家を失ひ、やしきをやかれたる人々のみ
をよすべき処迚もなく、おのかじしつめるもの背負て東西に
行違ひ、住家たつねるさまもいと哀なり、かゝる時にも公に
てハ人の心うしなハしとや、幸橋御門外・浅草広小路・深川
海辺大工町三ところに御救ひ小屋てふものかけ渡し、又代官
伊奈半左衛門をして米六七合の結飯ひとつを日毎ニまづしき
ものに人のかすほと給ハりて、御旗本の人々には身のほどに
より、崩れたる程により、黄金若干つゝ玉ハり、また商人ハ
更なり万の匠にも物のあたひ増ましと控し給ひけれとも、匠
共ハ四寸にもたゝぬ丸木二もともてき傾たる処支などしいる
のみにて、黄金ひとひら給ハれよと云のゝしり、米商ものも
なく、酒ひさく家もなく、草鞋の直鐚弐百文と云ほどになり
しかば、いのちにもかへしといとおしみたる妻子ハうしなひ
ぬ、いける甲斐なき世に存生て何かせんとうちかこち、あか
らさまにものうハひとらはれぬるもの日々としてなきはなし
かゝる時なん人の心のよしあしもおのづからいちじるしく
て、ふたむね並びたる蠟燭商ふ家のひとりハくつれ、ひと
りハ残りしか、残りつる家まて蠟燭みな施せしもあり、十
もとばかり束ねたる葱を鐚三百文なりとて街のものに打こ
ろされし商人もあり、草鞋・粥・茶施こす家も少からで、
吉原の里なる佐野槌といへる家の黛とか云遊女ハ御救ひ小
屋なる人々に土もて造れる鍋ひとつ宛施し、仙台の御家ニ
てハ其屋敷のほとりなるものに米ひと俵宛下し給ハり、ま
た川瀬新石町の川邨とか云る冨る家ニても其ほとりの賤し
きものに精米二斗宛ほどこし、我しれる村上寛斎といへる
くすし、二日の夜其身もうつはりにおしたほされしが、板
しきうち放し辛くしてのかれいて、又内に入草鞋取出てお
のか家の焼るもかんがえず、疵薬施し歩行たるなと、なさ
け深きふるまひなるに、深川の蛤丁とかや罪ありて佐渡に
流されたりしをひそかにのがれいて来りすみしものあり
て、迚もなき身とおもひけん、妻子うしなひ家居やかれつ
るものども六七十人さそひうごかし、松平総州の御家なる
蔵やしきに押入、蔵守る士・足軽どもうち掛し、千石余り
の米ぬすミ取しが、此頃大方は捕われしと云ものありき、
五日のしのゝめに品川の洲崎にて我も〳〵と山辺にのがれ
ゆきしかハ、かの津波と呼ハりしをのこの心静かに人の家
に押入、物奪ひ、船にて去いるもあるしとかや、沖におろ
せし米船も三処よところ火かけられたり、百両もておひや
りされ黄金奪ハれしものも少からさりしよし、剰へ、今年
春の半にかたじけなくも天朝より寺々の鐘、鉄炮に鋳改め、
夷防く用にせよと詔給ひしを、とかくして長月の尽る日
将軍より寺々へ下知し給ひしか、幾日もあらでかゝる災ひ
ありしほどに、法師とものところ得顔に仏のもの奪給ハん
とせしゆへなと言もて行、愚かなり、下さまの公の政うち
みするも少なからねば彼昔人の言の葉むなしからましかハ
といとおそろしうおもうものから、半はかたむきたる旅の
やとりに、くつれたる壁のそこより筆硯取出て、ともし火
のもとにしるし侍るになん
このとし神無月十日あまり二日の夜吾妻なる於玉ケ池のや
とりにしるす、なへふりし其夜より十日を経たる
陸奥岩手の里なる江幡通斎
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻2-1
ページ 558
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
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版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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