[未校訂] 明治五年三月十四日のものは、俗に浜田地震といわれ、
浜田を中心に石見全域にわたつての大地震であつた。
石見物語などによると、前徴として、異様な夕焼がつづ
いたり、海水が意外に沖まで引き去つたり不気味な事があ
つたあげく、三月十四日午後五時ごろ突然大地震が起り、
浜田のみでも、死者五五二人、倒壊家屋四七六一戸、御倉
一二八棟、土蔵四一九棟といわれる災害をこうむつたとあ
り、沿海の地域では、陥落や隆起、或は段違いを生じたと
いつていて、中西でも東西に流れて地割ができ、震動の度
ごとに、ばらばらと二、三寸の割口の開閉があつた。又地
すべりのところもあり、墓石など立つているものは殆んど
なかつた。高津浜では砂丘の三尺位陥没したところがあつ
たといわれている。
地震は夕方五時ごろから始まり、翌朝まで止まず、殆ん
ど強震つづきであつたといわれている。
中垣内の岡崎梅市方の老人より伝え聞くとこによると、
「夕方の大地震に家を跳び出したが、そのゆれ方は大し
たもので、つゝみの水が大ゆれにゆれて、三尺もの土手
を水が越して出る程であつた。また紙漉舟の水も殆んど
打すてられる程のゆれ方であつた。」
と語つた。
しかし、震害は東になるほどひどく、中西では幸い死人
も倒壊した家もなかつたが、先ず、前古未曾有の地震であ
つたといわれている。