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項目 内容
ID J1300167
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1872/03/14
和暦 明治五年二月六日
綱文 明治五年二月六日(一八七二・三・一四)〔石見・安芸〕⇨津波あり
書名 〔中西の歴史〕○島根県
本文
[未校訂] 明治五年三月十四日のものは、俗に浜田地震といわれ、
浜田を中心に石見全域にわたつての大地震であつた。
 石見物語などによると、前徴として、異様な夕焼がつづ
いたり、海水が意外に沖まで引き去つたり不気味な事があ
つたあげく、三月十四日午後五時ごろ突然大地震が起り、
浜田のみでも、死者五五二人、倒壊家屋四七六一戸、御倉
一二八棟、土蔵四一九棟といわれる災害をこうむつたとあ
り、沿海の地域では、陥落や隆起、或は段違いを生じたと
いつていて、中西でも東西に流れて地割ができ、震動の度
ごとに、ばらばらと二、三寸の割口の開閉があつた。又地
すべりのところもあり、墓石など立つているものは殆んど
なかつた。高津浜では砂丘の三尺位陥没したところがあつ
たといわれている。
 地震は夕方五時ごろから始まり、翌朝まで止まず、殆ん
ど強震つづきであつたといわれている。
中垣内の岡崎梅市方の老人より伝え聞くとこによると、
「夕方の大地震に家を跳び出したが、そのゆれ方は大し
たもので、つゝみの水が大ゆれにゆれて、三尺もの土手
を水が越して出る程であつた。また紙漉舟の水も殆んど
打すてられる程のゆれ方であつた。」
と語つた。
 しかし、震害は東になるほどひどく、中西では幸い死人
も倒壊した家もなかつたが、先ず、前古未曾有の地震であ
つたといわれている。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻1
ページ 302
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 島根
市区町村 益田【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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