[未校訂]玉泉寺、田島村字河原五五七番地
起立の初は尾崎にありしも天文十三年四世帯僧柏堂玉樹
現地に移し、八世僧如雲宗闇中興再建、嘉永二年二月震災
によりて堂宇倒潰翌年再建、大正十二年九月震災に再び倒
潰。
○
曾我別所穂坂九兵衛翁(八十八才)の話
私が十三才の時であった、嘉永六年の二月二日、それは
此の土地の習慣で奉公人の出替の日であったから能く記憶
している、私の養父は別所の字坊田の山の神の境内に杣を
雇ふて松材を挽していたので今日の時刻の午前十一時頃に
その杣の昼飯を用意して自宅から運んで行った、やがて山
の神の社まで登り着くと俄かに崖の上にあった大きな松の
木が根こぎとなって谷の方へ仆れたそれと同時に自分も足
許が危くなって立っていることが出来ない、弁当を背負っ
たまゝ転っていると杣の一人が飛んで来て地震だ地震だと
云いながら助け起して呉れた、匐ふようにして境内へ登り
着くと杣共が地震だ地震だと叫んでいる、田嶋の河原の方
に黒煙が凄じく立昇っているのは玉泉寺の本堂が崩壊して
砂煙を揚げているのである、麓の方は異様な音響や泣き叫
ぶ声がする、私は地震と云うものに初めて逢ったので我家
が心配でならない、杣共と一緒に宙を飛んで馳せ下りた、
幸に家に別状はなかったが此の時に別所村で坊田に三軒、
中台に四軒、北台に傾いた家はあったが全潰はなかった、
原村や谷津村でも傾斜の家は拾数戸もあったらしい、鎮守
の宗我神社では根廻り一丈二三尺もある老松が仆れて楽殿
の屋根と共に道路に仆れているのを見た、初震後約拾五分
を於て二三回の余震があつた、此の日は奉公人の出替日で
あるので大包を背負った男女が道路で転げ廻っていたのを
覚えています、それでも今度の地震(大正十二年)に比べ
て見ると先づ地震の孫のようなものでしようが、それでも
この時のことを知っているものは今日では谷津の小酒部八
百蔵(八六)原村の曾我喜三郎(八六)及神田安左衛門(八
六)何れも八十才以上であるから知っているが私共と五六
名位の男女がある位でしよう。