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項目 内容
ID J1300011
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1853/03/11
和暦 嘉永六年二月二日
綱文 嘉永六年二月二日(一八五三・三・一一)〔小田原〕
書名 〔下曾我田島郷土誌〕○小田原市▽
本文
[未校訂]玉泉寺、田島村字河原五五七番地
起立の初は尾崎にありしも天文十三年四世帯僧柏堂玉樹
現地に移し、八世僧如雲宗闇中興再建、嘉永二年二月震災
によりて堂宇倒潰翌年再建、大正十二年九月震災に再び倒
潰。

曾我別所穂坂九兵衛翁(八十八才)の話
私が十三才の時であった、嘉永六年の二月二日、それは
此の土地の習慣で奉公人の出替の日であったから能く記憶
している、私の養父は別所の字坊田の山の神の境内に杣を
雇ふて松材を挽していたので今日の時刻の午前十一時頃に
その杣の昼飯を用意して自宅から運んで行った、やがて山
の神の社まで登り着くと俄かに崖の上にあった大きな松の
木が根こぎとなって谷の方へ仆れたそれと同時に自分も足
許が危くなって立っていることが出来ない、弁当を背負っ
たまゝ転っていると杣の一人が飛んで来て地震だ地震だと
云いながら助け起して呉れた、匐ふようにして境内へ登り
着くと杣共が地震だ地震だと叫んでいる、田嶋の河原の方
に黒煙が凄じく立昇っているのは玉泉寺の本堂が崩壊して
砂煙を揚げているのである、麓の方は異様な音響や泣き叫
ぶ声がする、私は地震と云うものに初めて逢ったので我家
が心配でならない、杣共と一緒に宙を飛んで馳せ下りた、
幸に家に別状はなかったが此の時に別所村で坊田に三軒、
中台に四軒、北台に傾いた家はあったが全潰はなかった、
原村や谷津村でも傾斜の家は拾数戸もあったらしい、鎮守
の宗我神社では根廻り一丈二三尺もある老松が仆れて楽殿
の屋根と共に道路に仆れているのを見た、初震後約拾五分
を於て二三回の余震があつた、此の日は奉公人の出替日で
あるので大包を背負った男女が道路で転げ廻っていたのを
覚えています、それでも今度の地震(大正十二年)に比べ
て見ると先づ地震の孫のようなものでしようが、それでも
この時のことを知っているものは今日では谷津の小酒部八
百蔵(八六)原村の曾我喜三郎(八六)及神田安左衛門(八
六)何れも八十才以上であるから知っているが私共と五六
名位の男女がある位でしよう。
出典 新収日本地震史料 第5巻 別巻1
ページ 49
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 神奈川
市区町村 小田原【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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