[未校訂](六)安政三年の津波
安政二年江戸大地震の翌三年七月二十三日大津波が三
陸沿岸全体を襲い、甚大な災害を与えた。まず仙台領の
安政3年津波発生前後の地震発生表(大槌地方) (兒島大梅著『梅荘見聞録』)
情況を見るに、『藤澤町及川肝入日記(1)』の安政三年の条に、
「七月廿三日昼九ツ時大地震、併去年七月三日ノ地震ヨリ
軽ク、同二十六日朝五ツ時地震、是ハ先日ヨリ又軽シ、
過ル廿三日地震ニテ、津浪浜々大ニ相痛候、気仙沼ハ釜
ノ前辺迄水押、塩場ノ辺大浪ニテ□□(ママ)地窪候所ハ田畑へ
悪水押込、一宇朽リ気仙郡夥敷、田畑共ニ大痛、本吉郡
モ南方浜々海辺の家幷田畑悪水打、清水川町へ昨日当町
ヨリ参リ候者戻リニテ町内悪水四五尺、家中同断、板敷
ヨリ上三尺五六寸、悪水押入申無斗次第、田畑共ニ同様
大痛、其外ハ未タ不知、佐沼辺酒醤油屋等不少相痛候由
ノ事也」と言っている。当時の罹災者児嶋大梅の罹災記
によれば(2)、(注、本書〔奥南見聞録九〕の抜萃部分と同文に
つき省略)と言っている。津浪が襲来して来てから二十
五日もたった後でもなお井戸水に塩分があったり、潮の
干満が異常であったり、すべて寛政五年の津波と性質を
異にしていることに人々は不安をいだいていることをよ
く伝えており、大槌浦のこの津波情況をこれほど詳述し
ているものは他に見られない。
これによると、七月二十五日に発生した津波以来、小
津波が前後五回、その前後に地震が断続し、八月八日ま
で続いている。その後、大体強度も頻度もしだいに衰え、
七月二十九日、七日目ぶりに山中へ逃げのびていた住民
等がもとの住居に戻って来ている。『永出永壽坊徳觀
手記(3)』には、「其年の地しんの義は秋迄ゆる、又正月七日
まで少々づゝ相ゆれ申候、先さびしき年に御座候」と言
っている。
吉里々々浦の豪家芳賀の書いた『安政三辰年七月廿三
日地震ニ而大汐押上ケ吉里々々浦破損幷ニ諸浦破損
留書(4)』に示されたこのときの損害概況を要約すると(注、
本書二一八頁七行の文書と同じにつき省略)
といい、船越浦が最大の被害を受けたと報じている。そ
のためか、金浜村と高浜村の被害明細書が残っている。
金浜村の調書では第8-28表のごとく被害家屋二十八戸、
内流出家屋九戸、大破九戸、潰屋九戸、小破一戸、ほか
に厩七戸が損害を受け、家財道具全流失が四戸、三分の
二破損が二戸、二分の一が六戸、三分の一が九戸となっ
ている。
高浜村の場合は被害戸数三十六戸、内流失五戸、極大
破二戸、大破十四戸、小破十四戸、潰屋一戸となってい
る。ここでは家財・厩の被害は明らかでないが、その救
済方法が明記され、極窮者は流失の場合一人当り四斗、
潰屋・極大破・大破は三斗、小破は二斗、困窮者は流失
が三斗、大破が二斗、小破が一斗、相応者の場合は被害
の如何にかかわらず一斗の救恤で、家族数に応じ、三十
一石九斗を賑恤している。
表8-28 金浜村津波被害表(安政三年)
生活程度
被害
家内数
氏名
家屋
家具
その他
相応
家潰
1―3
厩一
四
重之助
〃
〃
1―3
五
儀左衛門
極窮
大破
1―3
二
すみ
困窮
大破
1―3
二
新五郎
相応
〃
1―3
二
要助
〃
〃
1―3
三
千代松
極窮
〃
1―2
二
伊太郎
困窮
流失
1―2
厩一
四
忠作
極窮
〃
2―3
二
勘之助
相応
大破
1―2
厩一
四
市太郎
極窮
流失
全部
二
由松
困窮
〃
1―2
二
喜七
極窮
大破
不流
三
卯之松
困窮
〃
1―3
五
庄吉
相応
小破
不流
厩大破
七
茂右衛門
相応
潰家
1―3
六
浅之助
困窮
流失
不残
四
善兵衛
極窮
〃
〃
三
寅松
相応
〃
2―3
厩一
九
九郎治
〃
〃
不残
〃一
五
伝兵衛
〃
〃
1―2
〃一
五
八右衛門
〃
潰家
不流
七
安兵衛
困窮
〃
1―3
五
松助
〃
〃
1―2
二
寅之助
極窮
大破
不記
一
九兵衛
〃
潰家
〃
嘉右衛門
相応
〃
〃
徳右衛門
〃
〃
〃
孫八
計
二八人
〔註〕筆者所蔵文書
表8-29 高浜村津波被害救恤表(安政三年)
生活程度
被害
救恤
救恤率
家内数
氏名
極窮
流失
石
八〇〇
四〇〇
二
小太郎
〃
〃
一、六〇〇
四〇〇
四
徳次郎
〃
〃
一、六〇〇
四〇〇
四
兵助
〃
大破
一、八〇〇
三〇〇
六
宇兵衛
〃
〃
一、五〇〇
三〇〇
五
儀兵衛
相応
極大破
三〇〇
一〇〇
三
理兵治
極窮
大破
一、五〇〇
三〇〇
五
重右衛門
〃
〃
一、二〇〇
三〇〇
四
源八
困窮
〃
四〇〇
二〇〇
二
治郎兵衛
相応
〃
四〇〇
一〇〇
四
甚太郎
困窮
〃
一、〇〇〇
二〇〇
五
惣助
相応
小破
八〇〇
一〇〇
八
又助
極窮
〃
四〇〇
二〇〇
二
伝助
〃
〃
一、〇〇〇
二〇〇
五
権太郎
相応
〃
六〇〇
一〇〇
六
又太郎
〃
〃
九〇〇
一〇〇
九
伊助
〃
〃
四〇〇
一〇〇
四
又兵衛
〃
〃
六〇〇
一〇〇
六
勘之助
困窮
流失
一、五〇〇
三〇〇
五
小重郎
極窮
大破
九〇〇
三〇〇
三
徳兵衛
困窮
〃
六〇〇
二〇〇
三
留蔵
相応
〃
四〇〇
一〇〇
四
紋之助
極窮
極大破
九〇〇
三〇〇
三
倉松
困窮
小破
四〇〇
一〇〇
四
万之助
極窮
大破
一、五〇〇
三〇〇
五
勘之助
〃
〃
九〇〇
三〇〇
二
夘之蔵
相応
〃
六〇〇
一〇〇
六
市太郎
極窮
〃
九〇〇
三〇〇
三
惣七
〃
小破
一、〇〇〇
二〇〇
五
弁蔵
〃
〃
八〇〇
二〇〇
四
太郎兵衛
相応
〃
三〇〇
一〇〇
三
善助
〃
〃
六〇〇
一〇〇
六
権右衛門
〃
〃
五〇〇
一〇〇
五
快助
極窮
流失
一、六〇〇
四〇〇
四
善助
〃
家潰
一、二〇〇
三〇〇
四
勘次郎
困窮
小
破
五〇〇
一〇〇
五
源太郎
計
三一、九〇〇
三六戸
〔註〕高浜村『安政三年七月津波ニ而水難之者共江此度為御救御籾被下
置候ニ付御請人数面附書上帳』
このとき最大の被害を受けたといわれる船越浦は、豊
間根村の記録(5)に、
安政三辰七月廿三日九ツ時大地震ニ付、津なみニ而、
南通ハ片岸いたみ、外ハ少々つゝつなみ上り候まて、
船越ハ大いたみニ御座候、家も大躰とられ、人は男女
共ニ廿一人死ス、其外ハつなみ家迄上り、一軒もたた
み不申、赤前・金浜・高浜古すがたに在之候、ふんふ
残家はとられ、場所長屋一円打とられ、小舟ハ所々江
打上られ、人は死ニ不申候、田畑ハ沢山いたみ、南通
も右之通田畑いたみ、地震之事ハ八月まて度々ゆり、
昼夜共ニゆり
此年大日てりニ而、田畑やけ、且右之通之事故、宮
古八千石江高一石ニ付、米一升つゝ被仰付、金浜・高
浜・赤前之御百姓共ニすくい米ニ致すよう被仰付、上
納罷在候、去年江戸も大地震ニ而御上屋敷ゆれつぶれ
候ニ付、普請材木松杉御剪取り、木挽共被仰付候処、
品出来候所ニ而、諸士江も十五人より百五十人まて人
足被仰付、前申取候内ハ諸士手前持めしに而、其場所
江詰合居候、万事大なん中ニ御座候、あまり之事故書
留候、後日のため大槌向川原江大船なみニてあがり、
洞の前江も上り、宮古町ニはいたみ無之候、重茂・乙
部川代迄一円ニ有之、様々之事、所々浦々斗、尤釜石
も少々いたみ申候、是より北通皆大なん中之由、松前
も大なん中の由噺合ニ御座候、南ハ釜石まて仙台領ハ
無事之様子、森岡之方ハ少し差事も無之候
といい、釜石以北、ことに船越が最大の被害地となり、
北部に被害を生じている。そのためか、仙台領にはこの
年の津波を伝えた記録は見えない。釜石なども実際には
一軒しか流失しなかった。ところが、盛岡から視察に来
た役人は、相当の被害がある由と称して出張して来てい
るのに、一軒だけの流失では困ると称して、前々からの
極窮者十一人の家屋を流失したこととし、とくに救済米
給与の申請を出させ(6)、救済に当っていることは興味が深
い。被害報告を水増しして報告する役人心理のためか、
津波災害に便乗して、日頃救済を必要としながら救済も
しないでいた者を、救済したものかどうかの穿鑿は別と
して、この際極窮者の救済に当ったことは、この当時の
政策としては珍らしいことであった。盛岡の豪商近勘文
書には、つぎのように伝えている。
安政三辰ノ七月廿三日書、地震津波之場所書
一鍬ケ崎 十二軒流、但し一宿家財大半分
一宮古町 無別条
一高浜村 不残流候
一金浜村 不残流候
一津石(ママ)村 無別条
一大沢村 二三軒流、但家財不残
一山田村 二三軒いたみ、外無難
一折笠村 十一二軒家財不残
一赤浜村 家財不残
一船越浜 廿八九軒流れ、但死亡廿五人程 家財不残
一田ノ浜村 三四軒流れ、但上宿家財半分通流候由
一小浜村 不残流候、浜ニ死人之義聢と相分不申候
一大槌・釜石其辺、北浜村流候家も数多在之由ニ御座
候得共、于今地震はやみ不申候故、聞抜相成り、右
申上度、大変可申様無之、七月廿四日昼着
尤浜ニ小村に至迄筆紙ニ難尽御座候
一御城下廿三日之昼九ツ半時大震り候得共怪我人な
し、所々之土蔵さけ候得共、少々之事也、其後廿五
日の朝五ツ時大震り、廿八日之夜暁七つ時同断、其
間日々七八度宛震り、小家之もの野宿致候者多し、
尤大震は廿三日より廿八日晩迄、小震は七月十五六
日より九月十日頃迄ニ御座候、尤同未九月ニ相成候
得共、高震申候
一郡山井筒屋幾久屋幷所々之土蔵大損之由
一渋民野辺地大震りに而、土蔵不残壁落申候
一五戸町同断ニ付、入口家十軒斗りたほれ候由
一同所市川大損申候由
一田名部同断
一大更大震り之由
一仙台所々大震ニ而家蔵そんじ、浜辺津浪ニ而大変之
由
一八戸大そんじ 土蔵不残壁落し、津波ニ而家小家之
類百軒余も流候由、死人は少々有之候 右橋外にも
橋落、殊ニ大変之趣ニ御座候
と言っているから、この津波は三陸東海岸一帯を襲った
強震の結果で、内陸部、北上川流域にまで損傷をもたら
した大規模なものであったことを示している。宮古浦の
徳島屋定右衛門が七月二十七日中村屋半兵衛に宛てた書
簡(7)に、
廿三日大地震ニ而損じ候場所も有之哉之趣、風説及御
聞被遊候ニ付、御手代才平殿を以御様子御尋被下置、
御懇情之段難有仕合奉存候、世間之儀は丸潰半潰大破
等之家御座候得共、私方は尤裏地面迄浪押入候得共、
何之障も無御座候、此段御安心被下置度奉願上候、半
蔵殿大須賀之大久保氏大大破、元司老同断扨々痛入候
事ニ奉存候
一大槌通も大破之趣其内ニも船越は流家五十軒余、人
命廿五六人之よしニ御座候得とも、于今聢ト之様子
無御座候、此辺高浜金浜赤前右三ケ浦流家数軒御座
候、別而赤前浦は御田地迄ハ大痛之よしニ御座候ト
様子相知候ハゝ、追々為御知可奉申上候、先は右尊
答迄颯と奉申上候 恐惶謹言
七月廿七日 徳島屋定右衛門
中村屋半兵衛様
猶々奉申上候、地震于今昼夜度々御座候而既ニ村中一
統山々江こや懸仕、誠可申様無之次第ニ御座候、扨々
困入奉存候
と津波の被害の情況を伝えている。しかし被害の数字は
必ずしも同じではない。宮古代官所の被害報告書を集計
すると、田五九石余、畑三〇石、流潰屋一二四軒、死者
三とあり、あまり大きい被害ではなかった。しかし、漁
業経営における最大の災害は津波であった。それは突然
に襲来すること、経験的に多少予知できるとしても、そ
れはきわめて短期間に予知しうるものであり、ちょっと
でも油断すれば忽ち致命傷となるものであり、しかも人
命ばかりでなく生産設備・生活施設が一挙に葬られる恐
れがあった。しかも地形的に津波は上陸してからさらに
強化される恐れのあるものであったから、住民は最もそ
の襲来を恐れ、できるだけ高所を選んで施設をしたが、
日常の生産生活は海であり、最も津波の被害の多い所で
生活しなければならないところに問題があった。しかも
その襲来が三十五、六年に一度ということになれば、一
世代交代した頃であり、前の津波の惨事を忘れた頃に襲
来してくるので一層被害を大にする傾向があった。しか
し、これに対して事前に津波対策を行なうということは
政治的にはほとんどなかった。僅かに蒙った被害に対し
て一時的救済をする程度にすぎなかった(8)。内陸部では冷
害によって、沿岸部では津波という自然災害によってし
ばしば苦杯をなめさせられていた。
表8-30 安政三年宮古通管下津波被害表
被害地
当毛荒田
当毛荒畑
流潰家
死者
宮古村
石
―
石
―
一〇〇
―
赤前村
四六・八一〇
二九・八七七
―
―
下山田村
四・一四三
―
―
―
船越村
八・五五二
―
二四
三
計
五九・五〇五
二九・八七七
一二四
三
〔註〕 『南部藩雑書』(安政三年)
〔註〕1 藤沢・及川肝入文書(及川孝平所蔵)
2 前掲『梅荘見聞録』
3 『釜石市史』(資料編 三)
4 盛岡・芳賀文蔵文書。芳賀家は藩政初期から吉
里々々浦の豪家として漁業経営に従い、村肝入も
兼ねた家であり、その記事は『梅荘見聞録』と共
に津波史料として最も貴重なものである。
5 豊間根・豊間根隆文書『安政三年津波聞書』
6 前掲 芳賀文蔵文書
7 前掲 中村文書『書簡』
8 なお津波災害史については、拙稿『岩手縣津波
史』参照(岩手教育、第十一巻の六・七・八号)。
しかし、この論文を書いてから三十五年、その後
調査した資料に基いて本稿をなした。