[未校訂](○安政二年)七月二十六日の大風雨は潰家も数えられ
るほどの被害を与え、九月二十八日ふたたび大地震が襲
い、地割れや砂の吹きだす田畑もあって、前年の地震の
うえにさらに大きい打撃となった(安政二年の引米は有
玉下村で四百二十石三斗七升のうち三十三石三斗四升四
合であった)。江戸の井上河内守の「御上屋敷半潰、青山
御屋敷潰之上御焼失、六間堀御屋敷之方ハ何共不相分(中
略)右ニ付金子御入用」と代官・手代が村々の有力農民
を訪問、出金を依頼して廻らねばならなかった(『高林家
日記』安政二年十月七日条)。こうしてこれまで資金調達
に努力した者に、麻裃拝領・御合印御免等の褒賞を与え
(『高林家日記』安政二年十一月十三日条)、十一月二十三
日には主立った世話掛りとして七十一名の村役人を集め
て酒食を饗応し、資金の調達を依頼した(『高林家日記』)。
この調達金をめぐって、有玉下村を例にとると村役人た
ちは十一月二十八日夕方、正光寺に小前の内主立った者
を呼び出し「可相成丈ケ出金いたし呉候様申聞且此義ハ
村名目ニテ被仰付候へハ村高書入」れ、一般農民も承知
のことでなければならないので、各より「最寄々にて小
前不残入渡り候様」に話してほしいと申しわたした。今
回の調達金は村全体から出した形にするが、村役人をは
じめそれとつながる有志の者によって、請け負う覚悟で
あったようである。たびかさなる調達金のことであり、
しかも藩の示した仕法改革は、不測の天災のためとはい
え、あまりにもその場かぎりの感が強いといってよいで
あろう。