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項目 内容
ID J1201864
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1855/11/07
和暦 安政二年九月二十八日
綱文 安政二年九月二十八日(一八五五・一一・七)〔尾張・遠江〕羽前~広島間各地⇨十月一日
書名 〔浜松市史〕▽
本文
[未校訂] 安政二年(一八五五)九月二十八日暮六ツ(午後六時)
に起こった大地震の記録は変化抄に詳しく出ているの
で、つぎに要約しよう。
 浜松では、寺院の本堂あるいは庫裏の潰れが六か寺に
みられ、山門の潰れたのが二か寺あった。町方では全壊
七軒、大堀長屋も潰れた。土蔵の大破損はかぞえきれな
いほど多かった。御城長屋にも倒潰や大破損が出た。こ
の地震で浜松の死者は二人であった。
 浜松の近郊をみると、米津村二十七軒皆潰、白羽・中
田島辺では泥水が吹き出した。三島村から下の方は潰家
が多く、さらに泥水も吹き出した。田畑高低に変地した。
掛塚湊では家屋の潰れ二百軒、また潰れ同様に破損した
家三百軒という大被害があり、ここでも所々から泥水が
吹き出した。天竜川沿いの池田は案外潰れ少なく、下前
野・保六島近辺は残らず皆潰。福田・駒場近辺はことに
全壊家屋が多い。中泉の被害はさほどでもなく、横須賀・
相良・川崎辺の家屋は過半が潰れた。見付宿では裏通り
に潰家多く、死者七人を出している。袋井は皆潰の上、
火災が起こって焼失し、死者六十余人を数えるという悲
惨な目に逢い、掛川もやはり皆潰・焼失・死者が多かっ
た。掛川城内も大破。山梨も潰家が出た上、火災も起こ
っている。山地入口の森はあまり被害を受けなかった。
(○山梨は袋井市内)
 こうしてみると、安政地震では、嘉永七年の場合が関
東から東海にかけての激震で全国的に有名であり、駿府
は大被害を受け、伊豆下田は津波に襲われたのであるが、
浜松の被害はこれらにはおよばぬ程度といえよう。また
安政二年の地震は袋井付近が激震地となり、浜松ではそ
れほどではなく、駿府方面ではほとんど被害はなかった
ように思われる。このように考えてみると、浜松という
ところは、ここが激震地になったという実例はなく、震
災からは比較的まぬがれた住みよい自然環境の所といっ
てよかろうと思われる。
出典 新収日本地震史料 第5巻
ページ 159
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 静岡
市区町村 浜松【参考】歴史的行政区域データセットβ版でみる

版面画像(東京大学地震研究所図書室所蔵)

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