[未校訂]1、雲仙嶽の爆発と竹崎の被害
寛政四年(一七九二)三月一日午后六時諫早地方に大
地震が起った。この地震で寺社の石塔や石燈籠が歪み、
中には倒れたものもあった。これは雲仙嶽前山の爆発が
原因であった。前山は島原城から一里程隔てた処で、島
原城へは夥しい火の粉をふきかけた。このとき有明海に
津波が起り、島原半島の対岸に当る大浦竹崎は大きな被
害を受けた。死人怪我人も出て、家屋家財の被害も多く、
早速食糧に困る者もあったので、藩役所に救済の申請を
して、次のような救済措置を受けた。
○怪我人二十人へ、米一日一人二合二十日分
三日より二十二日迄の分
○被害者へ、米一日一人二合十三日分
三日より十五日迄の分
○竹崎別当太右衛門へ、米二斗七升
これは三月二日、朝昼二回被害者へ焚き出した分
註…別当とは竹崎部落のような港の行政を司る者、農村
の庄屋にあたる
同年四月一日雲仙嶽の普賢嶽が再爆発して再度の津波
が起り、竹崎は又被害を受けた。潮は平生より七尺高か
った。家屋の全壊は十一軒で他は残らず半壊、死者は男
女三人であった。半壊家屋も人が住めるようにはならな
い状態であった。御番所も石垣が大崩れを起し押し流さ
れた。しかし道具や印鑑、掛札等は守ることが出来た。
被害者には取敢えず米五升宛を支給するよう取計らわれ
た。なほその外に家屋復興費として材料の外現金を少し
ずつ出すことになったらしいが額は不明である。
諫早藩に於ては領内安全願いのため、四月六日から九
日まで、諫早の荘巖寺、多良嶽の金泉寺、竹崎観世音寺
の平井坊へ祈禱を執行させた。この祈禱の謝礼金は一両
宛であった。