[未校訂](前略)
肥前嶋原雲仙嶽焼崩大変始末
寛政四年壬子閏二月廿七日より昼夜度々地震いたしける
か、三月初より段々強く震ひ昼夜に三十余度に及ひ、福
岡辺まて震ひ随分強震にに(ママ)ハ棚の端物なと落或ハ神棚の
花立共落しハ我も極幼少なれとも前後の弁もなく恐れわ
なゝきし事能く覚へたり、追々取沙汰に、肥前嶋原温泉
岳大に焼上り、大石なと吹散し麓の村々八ケ村離散セし
なと頻りに風説しけく成りしかとも、地震更に止ます、
早其ころに至てハ平日のやふにに(ママ)て恐しき事は止ミた
り、折柄三月半ころ長崎聞役在番成しが、同所にて嶋原
の聞役ゟ委細承りし儘書状にて申来る其役弥実説申来或
御同家様ゟ長崎御奉行所へ御届書等参御国ゟも御尋御使
者或聞合等帰り(ママ)猶実説なり、安田作兵衛ゟ福岡江言上写
去朔日夕方ゟ昼夜共ニ大地震殊更強く御座候て中々安
睡仕かたく御座候、然処嶋原聞役ゟ為知遣候は、同所
領内温泉山之内普賢山と申処、去ル正月中頃ゟ湯烟吹
出漸々強く相成候処、去朔日申ノ前刻ゟ地震仕次第ニ
手強相成候而嶮岨なる所より地震起り及度々其末岩砂
利等夥敷崩落弥大地震と成人家石垣大半打崩し人家も
大分打崩し候而死人等夥敷御座候間、去ル四日御奉行
所へ御届有之候ニ付此段言上仕候、猶委細之書付ハ同
役原吉蔵迄申遣候間、同人ゟ可申上御承知可被成下候
将又前文申上候様ニ当所も今以て日々昼夜之分ちも無
く至て手強く震ひ申候、殊ニ昨五日殊之外強数度震申
候依之御小屋之海手之練塀弐間余りふるひ崩し地など
割れ申候処御座候、其外、所々塀壁等引割崩等見懸申
候、中々今猶止ミ候様子ニ而ハ無御座候、猶追々可申
上候、○殿様□□(段々カ)御立退之御用意而已有之居候由、且
又御城も塀矢倉築石等所大(ママ)崩致候由、長崎ニ縁類御座
候者共ハ段々当所へ迯参り来候当所之者共も[間|アイ]ニハ(カ)堺
船ニ泊りニ参り候由地方ハ土間ニ畳なと敷候而臥り候
由承り候右ニ付昼夜之騒働天をうごかし候との由、嶋
原表ゟ之内状をも当地ニ到来候を見申候当地之震今日
迄モ止ミ不申候
三月十一日出之状御用人衆ニ進状写
嶋原様聞役ゟ長崎御奉行江届之写
当月朔日申弐刻(カ)頃ゟ折々地震仕て次第ニ強、其度毎ニ頻
地震仕候而普賢山麓前山と申嶮岨成場所ゟ地震度毎ニ大
岩石砂利等夥敷崩れ落候、子初刻ゟ卯刻過迄別而強く建
具等外れ、壁落小屋なと倒れ候、地震六度程仕、申中刻
震出し夫より翌朝卯ノ刻過迄少も止ミ間なく震続申候、
翌二日ハ昼夜共ニ無断間震ひ、其内にも、分て強キ震ひ
御座候、然共、建具外れ壁落小屋崩れ候震ハ一昼夜に四
度程御座候、今朝ゟハ余程軽相成間遠く震ひ候、右之地
震にて人家之囲高き石垣ハ大半震崩れ損申候家等も数多
御座候、中段倒れ申候、死人ハ弐人程御座候、内壱人ハ
男壱人ハ女にて御座候是ハ家の上に殊之外大成岩石落懸
り家打潰即死仕候、右之外田畠等之損し所差向難分御座
候地震止ミ候て得と取調子委敷可(ママ・「しらべ」と訓ず)申上候、先今日迄之次
第右之通ニ御座候
一穴廻(迫カ)り吹出し候義は兎角火気等強く次第ニ谷下ニ焼下
り申候、且去ル二月十九日吹出候蜂窪之義は其砌湯烟
りと見へ候処、至て勢ひ強く烈敷御座候而夜分ハ火気
相見へ鳴働御座候、右之外相替りたる義ハ無御座候此
段御届申候 以上 三月四日
一長崎ゟ聞役安田作兵衛ヨリ又々申来候書状
半雲作兵衛也
先達而申上候嶋原之義、三月朔日之地震鳴働追々相鎮
り居候処、一昨(四月也)朔日酉刻至て強き地震仕、城郭ニ聳候
前山と申嶮岨之高山、絶頂ゟ根方迄乍に(ママ)割崩れ山水押
出し右同時に城下之海ゟ津浪打上け山塩と一所に込合
ひ城下之家屋敷暫時ニ委ク押流て潰家大木等城郭に流
懸り、外郭石垣打崩し死人怪我人数不知、幾万人とも
不分城下家中町家に居住之者男女六七分ハ即死仕候様
ニ申候、且又海付之山沖中へ押出海上に大小之山夥敷
出来候由、是迄ハ城内ハ別条先無御座候と申候、風説
承候処、中々此段之事にても無御座候、扨々あわれ成
事之由、城下町家大低五六千軒余之処、家中ニかけ余
程家数御座候得共、先六七分ハ押流候と申候(カ)得共、漸
〳〵端〳〵三十軒四十軒斗残候処、三四ケ所も御座候
由折柄薩州ゟ上下弐拾余人召連候役立候侍同所へ滞留
[全|マツタク] 通り懸之処、右之災難にて上下共即時ニ押流され
候や、又ハ家潰即死仕候ハゝ不残死亡仕候由、同勢之
中之人ハ先触ニ参り候者と用事ニ付後宿ニ残居候者弐
人ハ生残申候由ニ御座候、猶後便追々可申進候、定而
御国元にも最早追々風説も可有御座候、委細御承知可
被成候 以上
四月三日
右嶋原侯大変ニ付、為御使者従福岡表占部忠左衛門被
差越候節、宿主ゟ書付遣候写
一去亥之冬由(ママ)ゟ折々地震仕候処、当子正月十八日城郭近
辺ニ御座候普賢山と申至て嶮岨之高山絶頂ゟ烟吹出之
其砌ゟ山中不絶鳴働御座候処、右山半ハ程乃所に字穴
迫と申ホノケの処御座候、右之谷ハ二月六日に又々烟
吹出し夜分ハ現れ追々日々増火煙募土中ゟ焼岩顕れそ
れより上下に焼広がり長三四丁余焼崩れ、其後ハ初吹
出候処之近辺ゟ処々追々に数ケ所烟立相増焼下かり、
右ニ応し左右にも焼広かり申候、谷合ハ城郭に差向き
当時ゟ昼夜に拾間或二拾間斗も焼寄り申候、烟立と見
し候得共暮近寄候程火気見へ夜中ハ真ニ火災之様ニ相
見へ申候、二月も過閏二月も末に至廿七日昼頃ゟ地震
仕出し、日々地震のミ仕候事ニ御座候、三月朔日之夕
方ゟ右之山鳴働相増候処、夜ニ入四ツ時分にかけ甚強
く大地震ニ相成、城内城外町家田畠共余程震ひ崩し、
石垣壁等損じ所々家なと倒れ地も段々割申候て日々止
ミ不申、其内震強き日も御座候、又軽日も御座候得共、
中々臥り候程にハ無御座候、然処四月朔日酉刻過頃殊
之外強く震ひ出し候処、右之普賢山と城郭の間に前山
と申高山御座候然に此前山頻りに鳴渡り震ひ出し候
か、頂上より根方迄暫時に割れ崩れ、山水押出し候や
否ヤ、城下の海ゟ津浪打上け山塩と一所ニ混じ合ひ、
城郭の東南の方押まわし町家并に小役人屋敷少々交り
居候処、一波に悉く打崩し押流し申候、即時に南北の
村方浜付之家居是も一同に押流候、其節之死人怪我人
追而改候処、全く○死人壱万千百七拾五人○怪我死人
六百四拾三人○殪牛馬四百六拾弐疋○流失家数五千拾
八軒○荒田畠六百四拾三丁御座候、是ハ全く其節急調
子にて公儀へ書上の分にて御座候、猶端々にてハ此段
の事にてハ無御座候、扨又右山の麓へ崩落候岩石土塊
等大手外海に押出し海上に小山大小夥敷出来、或ハ民
家の跡山に成又ハ潮入の場所等出来候て、大手外迄右
之通ニ而人家の跡[一と形|ヒトカタ]とても一向に分り不申候、右
潰家大木大岩等城郭迄押懸り候処、城内ハ先差而別条
無御座候得共、其後崩残り候山城中へ差懸り候処不絶
少々宛鳴働仕、石砂利等毎度崩落申候、右之響きにて
昼夜時々地震仕、今以止ミ切不申候、城内へも折〳〵
泥土降り申候、右荒増申上候、此末何分に可有被成哉、
無覚束様子共ニ御座候
寛政四壬子四月
一男女死人壱万千百七拾五人内男女
一同怪我人六百四拾三人内男女
一流失家竈数五千拾八軒内侍屋敷
一荒田畠六百四拾三丁
一殪牛馬四百六拾弐疋内牛馬
一土蔵酒蔵共三百弐拾壱軒
〆
先荒増如此御座候、猶委細取調子可申上候 以上
右之通嶋原侯松平主殿頭様ゟ江戸江御書上之写也
右大変ニ付筑前宗像郡勝浦村大庄屋半五郎書出写
私甥分之者当浦船持山鹿屋久兵衛、同久右衛門と申者兄
弟共ニ手船弐艘肥後ニ新種買廻シニ先月廿日比御当地出
船仕、嶋原表へ乗込居候処朔日之大変ニ而五百石積四百
石積弐艘共沈落仕候、乗組何も九人宛ニ而拾八人乗合之
処、久兵衛船頭壱人舟方之者三人都合四人存命仕、残拾
四人ハ横死仕候、右四人之者追々罷帰演説仕候趣左之通
申上候
当月朔日申刻頃至而和波ニ御座候処、不図山鳴出候而其
儘裂崩候由ニ御座候、久兵衛船頭伊平義嶋原泊船ゟ肥後
川尻と申処ニ先月廿九日ゟ上り居申候処、右之大変ニ而
元船無心元存付川尻ゟ四月二日ニ船用意仕頓而出船可仕
之処、何も恐をなし船出し不申、然処翌三日ニ天草ゟ参
り候薪船を借川尻を乗出し嶋原川口迄七里之海上を心懸
参り懸り見候処、未た海上[尋常|ヨノツネ]ならす気味悪敷模様ニ候
故、船方共を兎角ニ[勇|イサ]メ嶋原へ弐里半程乗懸候得ハ、最
前見覚候山々崩れ山形々々一向にかわり当ど無御座候、
御城御本丸斗残候と見へ二之丸ゟ御家中町家迄一向に見
へ不申船之懸り居候方角も不分候ニ付、又々空敷天草之
様ニ(ママ)漕戻し申候由、御城下ゟ弐里余も沖に大なる生木ち
ら〳〵相見候、小嶋大小三拾余も見候其辺迄も三日迄ハ
海底ツブ〳〵淡(ママ)立泥吹上居申候由嶋原御領之津浪崩も天
草肥後様御領之津浪も其頃迄ハ不相分由申候、右川尻之
川口より[迫上|セリア]け候大波ハ三ツと申事ニ御座候、然れハ三
度に打崩し候やと聞へ申候、晦日にハ肥後様御迎船之御
[艤|フナデ]ノ御規式御届候処ニ右之大津波ニて山々の麓に打上け
候、廿九日嶋原へ船凡百艘余も泊り居申候、且肥後様御
米積船千六百石積之船弐艘も同前に沈落仕候由右之山鹿
屋船も弐艘ニ而凡九百石程積申候ニ付而ハ元銀七貫(拾欠カ)目程
外ニ跡荷買付之分銀三拾貫目程都合百貫目程積なから沈
ミ申候、殊ニ久兵衛船ハ去年大坂表にて新艘ニ仕立居申
候、乗走之道具共綱碇共ニかけ弐艘ニ而是又銀六七拾目
斗之義ニ御座候 此下略
右其四月十七日書上也
肥前高来郡嶋原七万石深溝松平主殿頭忠恕代温泉山大変略記温泉山又号雲仙山
肥陽川尻住人塩屋源蔵記誌
肥前国[高来|タカク]郡嶋原七万石松平主殿頭[忠恕|タゝヒロ]の御領地温泉山
又雲仙山共本名[多岳|タカケ]山或ハ帯雲山又衣着ぬ山とも多だけ
山共言ふ、南の小峰を衣笠山、北なる半ふくに見へたる
を国見嶽と言ふ、多岳の絶頂ハ三頭なり、其一の峰を普
賢山と言、二の峰を妙見岳と言ふ、三の峰を文殊岳と言
ふ、温泉山ハ此三ツの峰の谷合ひ也、三頭の内普賢山の
絶頂に畳み上けたる大盤石あり、此頂上に池あり、[鰶|コノシロ]の
如く成る魚多く住り、是富士山の鳴沢の池に似たり、富
士山になそらへて此池をこのしろの池ともいふ也、今年
寛政四壬子正月十八日此普賢嶽の七分目ゟ焼出し始の程
ハ泥を吹出して次第〳〵に日に〳〵広く焼広かり大なる
岩石を吹上け其岩石皆火と成て空にて岩と岩と打当り合
て砕け散乱し地に落ち此焼石共(カ)落懸りたる所の草木ハ
忽に焼枯る、又焼口より吹出したる泥岩など一同に落埋
ミ、谷〳〵も峰とひとしく成りて如此日々夜々にして二
月も過き潤(ママ)二月も立て、三月朔日申の下刻頃より、地震
して、日夜分時の分ちもなく止時なし、二日三日四日の
間ハ朔日程にハ無しと雖も地震ハ少しも止ます、同しく
五日暁方より数度の地震のうち昼八ツ下り頃より七ツ頃
迄の中殊の外強く両度地震して壁なと落、家上瓦等段々
落間にハ小家ともゆり崩しあり、地処々引割り夜に入四
ツ頃地震又甚敷震ひ出す、依て六日七日に至てハ嶋原よ
り老若男女にかまらす(ママ)天草辺へ迯行き或ハ肥後の内なと
へ所縁を求て所々へ迯行く者多し、其後とても引続き昼
夜地震止時なし、同十五日六日より少し静りける故迯散
し嶋原の人〳〵各帰宅す、城下其外村々に至るまて家居
土蔵等の壁抔のゆり崩し引割たるを、取繕ひ居住す、然
る処に四月朔日暮六ツ過ころ海中に御嶽の如く成る物現
然と出来ると見へしか此御嶽の如く成物忽ちに[目瞬|マタゝク]うち
に[強波|ツナミ]と成りて打寄かいなや、御城の上成後の大岳七面
山続の前岳山と言ふ大嶽一時のうちに忽二ツに割れ裂
け、半分ハ火と成て強波の引やいなや諸共に海中に飛ひ
崩れ落る、此時城下の町々近辺の村々浦里家居一軒も残
らす人壱人も残者なく海中へ一波に打流る、又地旅の大
船小船共に同しく、其数をしらす、其外二囲之かひの大
木なと中程よりまことに捻切たることくにて、海上へ流
出る、其跡広き城下村里浦々白浜と成り、其外[築石|イシカキ]等ま
て引崩し、残とてハ百か一はかり所々崩れ残ありて[家削|イエクゾ]
舟かす大木の類ひ海の底を埋む、猶[前山|マエヤマ]の割れ崩れたる
跡より大に塊りたる火数多飛出て海中へ落る、其内一ツ
ハ肥後の国[三隅|ミスミ]山の方へ飛行き、一ツハ同国長洲の方へ
飛ふ、又ひとつハ肥前嶽崎の方へ飛ゆく、前岳より出た
る火海の中に落ると、其まゝ強波忽に火炎の如くに火と
成て海中ハ真に白昼に等しく明さし照り渡る、又前山の
割れ残り此ひゝきに猶も崩れて海中に落いり〳〵セし程
に[革|カバ]山弁天山共言ふ続ひて、権現山久兵衛山等も一時に
押崩れて磯辺ありし山々悉く一ツも残らす亡失す、海中
ハ是迄無き嶋山大小幾等共なく俄に出来、其数五六百斗
顕然たり、然とも幸成かな御城ハ外郭少々宛処々築石等
打崩し、汐入等も有れ共先何の恙もなし、扨又此強波肥
後の国の隅なる中上山を打こし天草の内へ打かけ四五ケ
山を打崩す三隅の人家ハ云にも及ハす流失す、大木大石
を打流し死人数百千人に及ふ、続ひて海辺の浦々村里の
破損流失数を知らす、猶又宇土郡網田浦の方強波烈しく
して、戸口村弐百四拾軒余同しく辺田目村まてにかけ五
百軒の処一軒も残らす流失す、それに応して両村の怪我
死人先大かた千弐百余人、尚又長浜村も右に同し、是亦
人家一軒も不残流失す、生残る者とてハ纔かに弐十余人
なり、網田村長浜村共に打寄する大波に山の腰に打上ら
れ、また引波にハ三囲四囲の松楠なとの大木其外諸木大
小にかきらす打こぎ或ハ中程より捻ち切てこと〳〵く海
中へ流落とす、諸木ともに[皮|カワ]ミぢけ刷け枝ハ委く(ママ)折れて
数年も波に沈ミゆられたる[洒木|サレキ]の様に見ゆるもまた不思
義也、すべて嶋原天草の大木流失セしハいづれも同様の
ありさま也、又住吉山より牧山の麓まで数百間の処、割
り石にて築立たる[大塘|ヲゝドテ]わづかも残らす打崩して跡形もな
く、網津山笠岩山の麓より網引山の麓まて三四里はかり
汐満入波涛々として大海原に望か如し、然るに住吉山ハ
明神御鎮座まし〳〵ける故にやとて、御社ハ元より社家
まても恙なかりける、又川尻の川口六ケ村中にも二丁村
の人家一軒も残らす流失す、其外の村々も大半五軒六軒
或七八軒ハ破損なりに残りもあり、何れも流失の跡ハ嶋
原と同しく跡白浜と成て黒土ハ見へす成にける、是応し(ママ)
地旅の船共同しく破損流失セし中に殊に薩州ゟ来りて滞
船セし永福丸と言ひし大船石高弐千石余積の船横七間に
長拾四間半弐尺の船足堅めに米五百七拾俵積たるを[大塘|ヲゝドテ]
を打越して方丈村と言ふ所の田の中へ、[塘|ドて]ゟ弐百間斗を
経て浮めることくに強波の為に打上られて[居|スワ]ハりたり、
舟子[乗司|ノリ シ]共に四拾六人乗り組しか船も損セす積込し米も
散らす其儘なれとも、船子の中四人程流失して死亡す、
又[銭塘|トモ]と言ふ所に[手永|テナガ]手永といふハ筑前にて大庄屋の居村何村触といふかことし銭塘ハ村の名なりの内
の村々数十ケ村大半破損す、又小嶋町下の人家ハ床の上
に三四尺斗り波打上けたり処によりてハ五尺余にも及へ
り、しかし人迯し(てカ)一人も不死、此所の潟村と言ふ所近ク人
家委く流失して死人も相応にあり、其内に市郎次と申者
の土蔵一軒壁ハ流れ落て居けれとものこれり、居宅ハ余
程の大家成しか半分程ハ打崩して流れ半分程ハ残れり、
死人ハ右ニ応して考ふべし、これ[金峰山|ニツタクミネヤマ]の[尾端根|ヲバナ]に連
りたる海辺の村々の破損死人筆を取てしるすにいとまな
し、依てこれを略しぬまた川内長洲の両所共に人家一軒
も不残流失す、死人もまた其数をしらす其有さまハ網田
長浜にも少しもかわる事なし
長洲の清源寺村といふ所に西川又五郎とて寸志の知行百
五拾石寸志の知行とハ御領主に寸志金を夥敷上けし功に依て知行を給ハり士官の列に成るもの也尤勤とてハなし取り成る
故金銀も余分に持ち万事有徳にしてそれに応し家居も
大とく(フトク)構へて軒を連らね蔵をも拾七八間建並へ長屋門を
構へ其脇に馬屋を立乗馬荷馬等拾疋余を繫き持たり、又
片脇にハ質場酒場等ありて手広く商売して堅固に巖の如
くに立堅たる大家と土蔵一軒も不残流失す、家内の人数
上下八拾七人の者一時に流失死亡す、其内に二手代壱人
斗り不思義に生残れり家内の死骸を一族の者参り求る
に、漸く隠居壱人の死骸に見当りたる斗り也、其外の者
の死骸ハ云に不及家々流失死人其数千を以て数ふといへ
共記し難し、且肥後肥前両州の人民牛馬或近く諸国ゟ入
込の人民大小の船数乗合の人々に至りてハ凡万を以て数
ふといへとも其死亡怪我記しかたし
嶋原御城下の家土蔵共に一軒も不残ゆへ人とても壱人も
なく強波の為に沈ミ破山の為に打れて委(悉カ)く海底に築埋め
られて誠にあわれと言ふも言葉に述る所なし、御城辺三
四丁斗わつかに家数取集て三百軒斗も残りぬ、御城ハ恙
なく残りたれとも天守ハ櫓なと殊の傾き(外欠カ)ぬ
前山に近き村々浦里城下に少しもかわりたる事なし
城下の人数九千七百五十余人奉公の男女八百七拾人余
村々の人数九千四百人余大数弐万人余
牛六百三拾余疋馬弐百四拾疋余
右之内寺拾壱ケ寺、其内護国寺の三十番神斗り残るこれ
ハ寺中にて残たるにハ非す、三月朔日の大地震以後御城
内へ移しける故也、此寺の住持壱人弟子壱人斗り残る
此節両国の流失家蔵神社寺院大小地旅の船数死失怪我の
男女委敷不知故爰に略す、是等ハ追々両国御書上を以て
写入へし
網田長浜にて生残りたる人々親類の死骸を求め歩くに、
浜辺に打寄せたる死人日々夜々何程と言ふ数しれす、然
れとも見知りたる者ハ少し所の者ハ余所へ打やり余所の
死骸ハ爰に打寄セたまさか知る人も面顔すゝれて其さま
かわれり、又全体兼備ハりしハ十人に壱人有かなしの多
くハ怪我死人にて、片手切てなく、又ハ片足なし、首な
く切落たるあり、面砕たるあり、両手両足無もあり、身
半分なきあり、又腰抜斗りの骸あり、肩手足の骨打出た
るあり、面半分斗もあり、或ハ子供を抱かゝへたるまゝ
にて死セるあり、多人数の家内の内やうやく其内壱人を
見出すもあり、いつれも異類異容の有さまなり、追々日
を経たれハ広き海辺臭気風にたなひき衰れ(ママ)なるありさま
筆にまか(カ)せかたし、唯此さま見たる人に尋てあわれを催
すへし、又磯辺の山際に已前より有来りし二三間或ハ五
六七間斗の岩なと中々人間の動かしかたき岩石山際より
磯辺遙かに波に押されて引出したるありさまを現在見て
恐ろしさ知ぬへし、是にて見知たる肉身の死骸の顔前に
見ても分別かたき事思ひ知りれて哀れ也
川尻川口の村々死人有といへとも網田長浜の死骸の疵ほ
とハなし、少々腕の疵ハあり、また不知れ(ママ)死骸殊の外に
多し
川内長洲の死骸の有様網田長浜に同し、然る時に長浜名
石浜の社ハ流失して、鳥井斗ハ残れり、御神体ハ[腹赤|ハラカ]村
に飛ひ給ひし由に申あへり
四王子宮の辺の人家ハ流失したれとも、鳥井より内に
□(遇々カ)波少しもいらさるハ是神変不思儀と云ふべき事也
肥後国破損所左之通、但公義へ御書上前とハ異同あ
り
一[汐塘|シホドテ]七千八百九拾三間余破損
樋之口四拾三間破損
江子筋之塘ハ拾間余打波ニ崩
波門四ケ所打崩 石刎五拾ケ所打崩
石打樋七拾七ケ所流失 塩屋弐拾五軒流失
塩浜三拾七丁八反打崩 御高札場四ケ所流失
在家三千八百五拾七軒但竈数潰家流失打崩汐浸共也
男女壱万千三百九拾七人
内壱万千弐拾五人者流失溺死三百七拾弐人ハ怪我死
牛馬八百七拾五疋内牛六百四捨壱疋馬弐百三拾四疋共溺死流失
男女四拾六人溺死怪我死共在宅御家人并一領一疋以下
直触之家共
一領一疋と言ハ筑前なとに云ふ郷士の事也御領主より具足一
領馬一疋宛行ハれて御非常の節御人数に加ハる者共にて平生
無勤にて相応の商売にてくらしを立る根元寸志知行のことく
銀を差上置て売人なから御家人列に加ハる者なり、元より御扶
助無くして公役御免の郷士とも云ふへきものなり○直触とハ
筑前あたりにて云ふ大庄屋の事也、勤功によりて村役の支配を
不受直に奉行の直支配に成也御家臣同様にて領主より直の御
支配の者也
上下御番宅六軒打崩流失共御番人男女三拾四人不残
右御番宅何も定番にて家内従類相応にあり各家内三人五人暮
しにて人数家内下人共に三拾四人なり内三人ハ上番人三人ハ
下番人
寺壱ケ所流失住持を初め寺門不残流失溺死社壱ケ所[名|ナ]
[石|イシ]宮本社末社宮司の家共家内男女不残下人迄家共に流
失溺死
阿弥陀堂壱ケ所打崩并庵室二ケ所打崩流失溺死僧徒七
人在宅侍屋敷拾壱軒流失此男女下人迄九拾八人
地旅船大小凡六百九拾七艘
田畠荒地畝反数未分
肥後領天草地流失したる所より肥前国嶋原の破損所迄
海路弐拾余里に及へり
松合村の漁人の噺に其日嶋原海に廻ハりて漁猟セしに、
朔日の暮六ツ過と覚へしにわが乗たる舟を手にて差上る
如く遙かの虚空に浮見上けたれハ、扨ハ不思儀や雲の上
に乗あかるかと思ひし所、又舟少し下たりさまに成りて
心神も定かならざる程にて管中の如く何処へ行共不覚中
に[天窓|アタマ]に木の枝当りたる故手を揚けてしかと取付けれハ
舟ハ何地へ行し共しらす、稀異の思ひを為して居る処に
又も大浪一しきり打懸たる事ニしきり也、初の浪と都合
大浪三度也、かくて浪引海静まれとも前後も分す空ハ星
かけも不見雲霧の中のやふにて真の暗にして前後を不弁
いかんともすることあたわず、只夜の明るを待居て唯此
木の枝を頼にしかと取付て時を過しける所、漸として夜
も明渡れハ今迄取付居たるを見れハ海上にてハなく沖手
ゟハ三里半余も有る山の絶頂の数十丈の大木の枝に取付
き居たりさま〳〵工夫を廻らして漸に下り立見れハ、川
内と言ふ処の山也、真ことに稀異なる大波也、嶋原の前
沖よりハ三里半斗有処の山の頂上に唯一と波に川内山に
打上たり、能く案内知りたる事故里路を志行しに何処も
家ハ流失して地形大に変ハり黒土をも不見、唯いつくも
白浜のやふに成たれとも漸〳〵として我ふる里にかへれ
ハ爰も同しく白浜と成、家門家居共に何処に行しや一村
こと〳〵く流失したりと語る、これを聞けハ彼強波高山
の如くにして涌出したると言ふ事明白なり
飽田郡銭塘の手永前に云一触なり流失セしに生残る者或ハ怪我人
破損の村々の人数先凡差当り三千五百七拾人余ありし
を、惣庄屋役大賀専助と申者斗ひ(い)にて郡会所或ハ井樋木
屋其外に五間に弐拾間の木屋を所々に拵立、彼怪我人共
或ハ差当り無類の者を集寄セ其日ゟ来ル丑の四月迄殿様
より保護被下様に行届世話あり日を追ひ所々ゟ集る其内
聞伝へ親類[身頼|ミヨリ]共ゟ請取保養を加ハへいたるなり、真実
に殿様の御恩の厚きを蒙り感セぬ者ハなし、是を有難く
不思遺却する者ハ此上神仏の冥加に尽たる者と言ふへ
し、猶追々に嶋原地の事もくわしく聞集め録すへけれと
も領を隔ぬれハ近しといへともいとまあらすして爰に略
す
此大変にて流失溺死怪我死牛馬等の御供養として郡々諸
村在々処々に於ひて各三日三夜の施我供養被仰付事如左
右ハ筑前にて享保十七(ママ)壬子の御供養の如し
熊本に於ひてハ禅宗妙解寺法華宗ハ本妙寺(ママ)ハ各於寺
浄土宗弐拾四ケ寺ハ於小嶋川原小嶋川之分
真宗院家順正寺延寿寺西光寺三ケ寺ハ於各御堂同宗拾七
ヶ寺ハ於府中府中之分
禅宗大慈寺ハ日和御櫓の下縁り川中洲に於ひて
法花宗法泉寺本立寺并浄土宗法性寺ハ川尻町之分於縁り
川中洲
熊本浄土宗法姓院に於て弐拾四ケ寺へ右同断
所々町々在々の寺院別段為其寸志仏事供養施我鬼あり、
且真宗の三院家延寿寺順正寺西光寺へ何も[法莚|ホヲエン]済たる上
殿様の御意にて各壱ケ寺宛分り、此度流失の所の寺へ罷
り越し、半鐘大鐘其外大小に不寄法器流失取集方をも被
仰付、尤諸財ハ上より御取出しにて人夫出る、此大変に
依て大造の御施財万民御撫育亡民御追善まて残る方なき
御仁政の厚事海水を摺尽し海外の紙を尽す共殿様の御厚
仁御広恵の恩禺我(ママ)らか等の及ふ所にあらすと荒増を書止
置者也、
寛政四壬子四月肥陽川尻住 志保屋源造記之
右之小冊ハ其九月五日所用ありて肥後国飽田郡川尻の駅
に宿る、主人塩屋源蔵なる者に嶋原の大変肥後天草津波
の有様を尋しに、主人源蔵言ふやふ二夜三夜語共尽し難
し、荒増我目のあたり見聞セしを録し置ぬと取出し見セ
しを、則矢立の墨を尽して写之者也、又其夜源蔵ハ物語
りを聞て此[後|アト]に附し加ふ
附録 宿主塩屋源蔵物語
当子四月朔日ハ大守熊本侯江戸御下国の迎として大坂迄
登る大鳳丸と号せし船此川尻の湊を出船す、故に此川尻
駅の人々ハ知音朋友の船出を[送|ヲク]り各船中にて終日送別の
燕(ママ)を為して杯をかたふけ各我家に帰りける余亦共に帰り
て二階に燈をかゝけて終日の酔を醒し居たりしに、酉の
半過頃此川下の方何やらともの騒しく人のさけぶ声聞へ
ける、中に〓巻(ママ)〳〵と悪風の事也言ふこゑのうつゝに聞へけれ
ハ、其儘二階の障子を引立又枕引寄セ睡らんとセしに弥
川内騒敷自他の商船より碇よ繩よとさけふこゑ[陣|シキ]り也け
る故又た二楷の障子を明しに、闇夜の空照り渡りてほの
明しに早川内満水して今迄見へもセさる大小の船川上差
て走り上ほり、或ハ陸地に行く、スハ是唯事に非と其儘
二階を下り裏なる川端に立出候に、汐ハ忽ち石垣を越し
て住居の敷居の上に上り筑前いわし町の如くに石築して其上に家居をかけ造りつくり出す也けれ
ハ皆々大に周章ふためく中に、早下町の方にハ津波〳〵
と口〳〵におらひさけふやふハ川口の村々此河尻の駅路ゟ川口の村迄一里余也
委く押流され人馬不残溺死すなと騒立て追々に告来ると
ひとしく川口近き所の村々の男女老少の分ちなく皆我先
にとこけつ転ひつ迯来り道路に満〳〵て泣さけふ子ハ親
を[募|シタ]たひ親ハ子を尋ねふためく中、牛馬の馳け来る夥し
くこハいかなる大変もやらんと皆人生たる心地もなく、
上を下へと右往左応に立騒つゝ温泉の方を見れハ、一山
こと〳〵く火炎と成り闇夜の天を焦かしてほの明し、こ
れを見て胆魂をうしなひける中にも川内にハ今はどこ船
の破損したる或ハ何丸の砕けたるなと聞へけれハ[何地|イゾチ]へ
迯れんも為んなく、唯途方に惑ひくるゝ斗也しに、程な
く夜も更ぬれハ川内の水ハ次第〳〵に引行と見へしか
共、川下近在ゟ迯け来る人々ハ猶弥まさりて在家寺院へ
案内もなく走り込む其数幾千人と言事をしらず或ハ惣身
[泥|ドロ]に染ミ又ハ面に血流れ手足に疵を蒙りたる者数も限り
も無、中に我こそハいつこ迄ハ親を負ひ来りしか取放し
て失ふたり、我ハ子を引て来りしか失ひたり、或ハ夫と(ママ)に
別妻に離主人におくれたりなと言もあり、或ハ知らぬ人
を誘ひなと其ありさま中々目も当られぬ次第にて語るに
言葉なし、况や川口村在々の分野におひておや、かくて
夜も漸に明ぬれハ在家寺院に迯け入たりし人々の飢を救
ハんと家々より握飯粥なとやふの物持運ひする内熊本よ
り追々打続き役人出張ありて日夜御仁政を施給ひけれ
ハ、昨日過今日も暮行明日の日明かしと日を送るにした
かひ少しハ鳴も鎮りける(後略)