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項目 内容
ID J1100030
西暦(綱文)
(グレゴリオ暦)
1792/05/21
和暦 寛政四年四月一日
綱文 寛政四年四月一日(一七九二・五・二一)〔島原・肥後〕
書名 〔寛政四年津波記録〕熊本県立図書館上妻文庫
本文
[未校訂](表紙)「寛政四年津波記録秉燭雑録八十三巻所載高波記ハ詳細なり
碑文 寛政七年季秋
高波記 寛政七年秋八月記
寛政八年四月ノ記の詳細なり
飽田御惣庄屋願書 寛政七年六月 」
寛政四年壬子正月中旬よ里肥前国温泉嶽鳴動して烟たつ
地中に火もえて峰崩れ巌とふなといへり鳴動日にまし甚
しくなりて二月のほとハ隣国乃地まて震動すること昼夜
ひまなかりき三月下旬にいたりてやう〳〵震動やみ烟も
みえされハ人の心もやすかりしに思ひかけす四月朔の夜
温泉の前なる山たちまち崩れて海に落入り潮水是に激し
て高波あふれ当国飽田宇土玉名三郡のうち彼方にむかへ
る浦〳〵島〳〵の神社仏閣人家こと〳〵く破砕漂没して
多くの人民溺死せり其数飽田一郡のうちにてすら寺社お
の〳〵一宇人家五百九十七軒男女あハせて千二百八十五
人を志るしたり况や三郡をあハせたらんをや折しも暗夜
なりしかハ高波とも志らす沖の方のなりとよむを人みな
あやしミ聞くほとにはや渚ちかくよせ来る音におとろき
てあわてさわきにけさらんとせしうちにも慾心わすれか
たく浜に出て船をつなきとめんとし家にありて資財をと
り出んとせしものハこと〳〵く溺死せりたま〳〵慾にひ
かれすすみやかににげさりしものゝミあやうき命たすか
りて後日国救のあつき御恵をかうふりもとのことく舎屋
たてならへ産業に復しふたゝひにきはへりされハ後代も
しかゝる事あらん時ハ慾をはなれ万乃物をかへりみす
たゝ老たるをたすけ幼をたつさへてすみやかにさけのく
へしかねてその道をもさため置て急難にのそみてまよふ
ことなかれ又富るハ家宅乃堅固なるをたのミて立さらす
して上下男女残らす不覚の死をせしものすくなからす健
なるハつねに水になれ泳をよくするにほこりてにけ得す
して溺死せしたくひ是多しこれらのことをもよく〳〵か
んかへてめん〳〵覚悟し子孫をもさとしいましむへし
右楷字仮字相ましへて村本亮助清書
右応飽田郡代之需
寛政乙卯季秋
李順撰
溺死人数死牛馬并損所流失所之事
飽田郡五町手永
河内村 白浜村
船津村 近津村
一男女七百六拾五人
内男四百七人
女三百五拾八人
一牛馬五拾疋
内駄馬四十九疋
女牛 壱疋
一竈数三百八拾弐竈
此家数五百五拾四軒
内三百八十二軒 居家
百七十二軒 厩肥屋
一漁船百四艘 一潮塘九百六十三間
一波戸四ヶ所 一川塘弐百五十間
一御高札場一ヶ所内六枚流失弐枚在 一御郡間御印鑑弐枚
一田畠拾六町程 一氏神社一宇
此高弐百石四斗余 鹿島大明神体并神殿拝殿共
一川口出入札操芸者札 一寺壱宇 船津村
高札馬喰札魚商札
蓮光寺
貝類拾札近国往来共ニ
都合三百七枚
但仏具其外庫裡物置流失本堂者
作事ニ付解除新材木は小屋組程
ニ仕上有之候分悉流失本尊者別
条無之
一船津村近津村河内村之内塩屋村江有来候諸帳面不残流

飽田御惣庄屋願書之写
奉頼覚
五町手永川内村船津村白浜村近津村右四ヶ村之儀西山之
麓海端ニ居住仕候所柄ニ而去ル子四月朔日之夜高波之節
波当強溺死人数莫太有之候ニ付其節之様子委承糺申候処
老幼不具之足弱人は早ク逃去り生残申候却而壮者共は船
を繫或は米銭衣類諸道具抔片付居申候間高波打掛溺死仕
候者多御座候由相考申候処慾心ゟ命を失申候事茂顧不申
溺死仕候者多御座候足弱人逃延候間(ママ)合御座候ニ付壮者は
勿論遁可申処右之通ニ而溺死仕候儀甚以残念之至奉存候
依之後年万一右様之大変有之候ハゝ猶又右類之変死可有
之哉与於私共歎ケ敷奉存候間五町手永海辺四ケ村之内船
津村往還筋は人会多所柄ニ付彼所江一基之碑を建此度変
死之次第録仕置候ハゝ海辺之者共往来拝見仕此変之事を
不忘後変之覚悟可仕哉与奉存候尤池田手永松尾村ニて碑
石被為建置候得共右四ケ村之儀は相済方角違候所柄ニ付
右船津村江造立御免被成下候様奉願候如願被仰付被下候
ハゝ石工数其外一式之入用等之儀は少々完(充)寸志仕度申出
候者茂御座候ニ付私共ゟ取斗出来ニ相成候様仕度奉存候
左御座候ハゝ碑銘之儀は後代ニ残候事ニ付乍恐
上ゟ被録下候様奉願候為其覚書を以申上候 以上
付札此儀御奉行中江相達候処願之通被仰付候間碑石寸法等
絵図を以相達候様可及達旨候条左様御心得可有其御達
候 以上
七月十九日
御郡間
寛政七年六月 鹿子木幸平
園田養助
内藤市之允殿
佐久間平太夫殿
御郡間

一男女七百六拾五人
一家数三百八拾弐軒
一牛馬五拾疋
内駄馬四拾九疋
牛 壱疋
右之内
一男女弐百六拾三人
一家八拾竈
近津村
一駄馬弐拾七疋
一男女百弐拾七人
一家五拾三竈
川内村
一駄馬七疋
一男女弐拾弐人
一家五拾竈
白浜村
一牛馬五疋
内駄馬四疋
牛 壱疋
一男女三百五拾三人
一家百九拾九竈
船津村
一駄馬拾壱疋
右は去ル子四年津波之節溺死人死牛馬并流家共壱ケ村
限相糺御達可申上旨被仰付奉得其意候五町手永村々相
糺申候処右之通御座候為其覚書を以申上候 以上
寛政七年七月 園田養助
内藤市之允殿
井上平八殿
惣高サ九尺三寸
高サ
九寸
右寛政四年津波記録三種拾枚北岡御記録を以書写す
昭和廿九年五月廿日此日雨 銹斉老人識
出典 新収日本地震史料 第4巻 別巻
ページ 173
備考 本文欄に[未校訂]が付されているものは、史料集を高精度OCRで等でテキスト化した結果であり、研究者による校訂を経ていないテキストです。信頼性の低い史料や記述が含まれている場合があります。
都道府県 熊本
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