[未校訂]本書は島原藩大老板倉勝彪氏の著書である。同氏は国
文学に造詣が深く殊に和歌をよくした。本書の中に寛
政大変記と言うのが見えるから茲に掲げることにし
た。原書は変体仮名を用いてあるが読みにくいので筆
者が普通の平仮名に改めた。読み方は読者の意に任せ
る。
寛政大変記
肥前国高来郡は忠房公いともかしこき台命をうけさせ
られ、しるよしせさせ給ひ有馬城の昔耶蘇宗門の徒一揆
兵乱の後なれば、おのつから人の心正しからすしてみだ
りなるを、ゆ 寛)をひかにたけ 猛 き政をもて治めさせ給ふけれ
は、御とこ 徳 の実のうまきによろつたみら、風に草のふす
がごと打靡きなつきまつりて、島原なる森嶽の城やすら
かにしめさせ給ひてより、よよにまもりをつがせ給ひ、
あまねき御めぐみ至らぬくまもなく、吹風も枝をならさ
ぬみよになむありける。さるに忠刻公の御代をはやうか
くれさせ給ひ、まをけ(儲)の君忠祇公御年わかうましまして
封を下野国宇都宮にうつさせ給ひ、こゝにはたとせまり
よとせ星うつりて忠恕公のみよに玉匣ふたゝひ高来郡に
かへらせ給ふけるこそかみか上より下かしもまてさちと
もさちなるへけれ、しかあるに此公のみよの末にあたり
て森嶽の城の前山さけていともおとろ〳〵しうあやしく
くすしきわさはひ 変 ぞいできにける、をのれ十まり三つの
年なりければ、つばらなることはおもほえわかねど、見
るものきくものにつけて、そがあらましをかひつけむと
思ひ出るに、寛政三とせといふ年の秋も過や、はださむ
く成行冬枯のころしもをり〳〵地震ひ山鳴りして何とは
なけれどおのつから人こゝろをちゐられす、あやしとの
みかたりあひにたり、ひまゆく駒はとゝまらで、いつし
か其年もくれて、あら玉の初春といふ睦月中の八日、[烏|う]
[羽玉|ばたま]の夜もふけゆくころ、普賢山の頂上にゆけふり 湯 煙 立出
たり、こはそもいかにとあやしみて、山もる(守)え(役)たちらを
はしめ人々かしこくも登りてみれは廻り幾ほどといふ限
りもしらず泥砂みなぎり涌返り煙を吹出し火石を飛して
響きわたれるをと 音 さながら雷の如くなりとぞ、たちのば
るけぶりは雲井につらぬき、よもに散ては久方の空をも
おほひたり。こはそもいかにと公をはじめたいまつり、
しも民くさに至るまであやしみあへるもあまりあること
にこそあんめりけれ、かくて如月六日には此山の中程な
る魯木山てふふもとの深き谷間より又こそ煙立て火石あ
らはれ出たれ、幾もゝひろともしらぬ谷底に火本を発し
て焼落るほのふはよるの空にかゝやきておふし上り下り
三十町余りやけたり、さばかり深かりし谷も焼石もて埋
りて岡とそなりぬ、くぬ 国 ちはさらなり、近き他国の人々
まで是をみんと打つとひ夜となく昼となく登りくたりに
ゆきかふ 住 来)あふさきるさのさた、千よろつともかずをしら
ず、をのれも交りて見るに火石の飛さま中々に拙き筆に
かいおふせずかゝる中に又も弥生ひと日よりいといたう
山鳴り地震ひ日毎よごとにいやまさりはげしく、成行ま
に〳〵あるは地の底にしておほきやかなる鉄砲もうつば
かりの音しつゝ震ひぬれば人皆おほくは家の住居なりが
たう身のほと〳〵に仮屋をしつらひをしにうたれぬさま
にかまひたり、大地そこかしこにわれ塀石垣なと震ひ崩
し人々心もそらになりてすむべきかたもなきこゝちにさ
はきまとひぬ。
公いみしう御心をくるしめ給ひ、北目筋の山里は山遠
く隔ぬれば、諸士のめこらは立のかせよと仰ごと有ける
にぞ心々に立さりぬ、さてわさわひ(変 災)の至らぬ時のあらか
しめ備へをなし給ふ、海上にもあまたの船よそひして旗
印などをし立たり、これを見きく市人ら老たる親を肩に
かけ子を抱きあるは手を引つれてこけつまろひつ、にげ
迷ふ、そか中にやもひ 病 人はふごといふものにのせてあは
てふためき立さはぎゆきたるは中々に目もあてられぬさ
まぞかし、かくて日をかさぬれども火もふらず、水も出
ねば、いつしかとなく、人皆をのが家にぞたち帰りぬ、
これぞ運の尽たるとは後にぞ思ひあはされける、されば
卯月ひと日たそかれ時も過る時殊につよく地震ひけると
ひとしく前山頻りに鳴りわたり南の方峰よりふもと迄さ
けわれて山水みなきり出われたる山は飛て海に入、数も
しられぬ島となり、海よりは洪波打寄せ、城のもと東よ
り南に建つゞきたる数千の町家神社仏閣一宇も残らず只
つかのまに押流し人はみな波に溺て死する中に、大手門
に打寄せたる大木大石堂塔人家なかれ重なれる下におさ
れて数千の人の苦しむ声助てよとなきさけぶもありきく
人さへに胸つふれたりとぞ、かゝりければたすけの人々
立出て力のおよふ限りものしけるに、からき命をたすか
るもありけり、何くれと立さはぐまに夏のよのほどもな
ふ、しののめのほから〳〵と明ゆけば、をのれも立出て
おほき(城)の南なる武者走りより見渡したるに、前山はあら
ぬ姿にさけきのふまて建つゞきたる家なみはたへて目な
れぬ山ばかりまのあたり出来ぬ。こはそもいかにとあき
れはてたる計りなり鳧上りたる代はいさしらず近き世に
はかゝるためしえそきかぬくすしきわさわひなりけら
し、やかて公も此わさわひをさけ給はむとて出たゝせ給
ふけるとき、おほきを守護の諸士にむかはせ給ひわれ今
此城を立のくこと心にかなはねどまめ 実 なるおみ 臣 らがいさ
めもだしがたければやむことを得す立のくなり、よろつ
よきにいひあはせ、いづれもおこたらすつとむへしとあ
りていたつきのほとなと、いとねもごろに、の給ひをき
て御馬にめされ桜門より出立せ給ひ守山村へそうつらせ
給ふける、おさか里御本陣と定めさせ給ひ御供の人々も
下宿をとりてをちつきたり。近きあたりの村さとをば物
頭組子引つれ、おこたらず廻りて、ひそふをいましめた
り、さるほどに九州より飛札はさらなり御使者もてとひ
参らせらる、そか中にも肥前肥後国筑前筑後国豊後国よ
りは白米黒米百俵弐百俵千俵味噌塩酢醬油酒肴油木綿百
反蠟燭五百挺あるは千挺その外くさ〳〵あげてかそへが
たくとりとりにみな守山村をさして日毎に来れるおび
たゞしきこととぞ、わきて肥前の佐嘉よりは弥生初めの
地震より折々御使者参らせられ猶そかうへに神代に物頭
えたち入江又右衛門某といへる人まかりゐ船よそひして
旅宿をかまへ何事かあらん時うけ給はらむとひかへたる
にこそ、いともねもころなる御まふけなりけれ。
さて山水洪波にて公の御立のきありしことおほやけに
御届有へしとて早追の人諸士の中より撰ませ給ひ高橋仙
兵衛某仰をうけて卯月四日守山村をそ立ける、豊前国小
倉につくとそのまゝ飛船に乗て押出しいそきに急きけれ
ば三百里余りの海陸わつか十二日の日かず経て鳥が鳴く
東のみたちにいたりつきたりとぞ、はた森岳乃城に残し
をかれたる人々のほどを公ふかくおもほしいとはせ給ひ
て城の門はしめきり諫早門ひとつあけをき酒井太郎右衛
門某か家をば寄合所と定め諸士みな近郷へ立のかせよと
の仰ごとなり、いつれもかたじけなさは身にしみぬれど
城を明て立のかむことおほやけの聞へ公の御為いかなら
んと思ひためらひぬれど、もし此うへのわさわひあらん
には臍をかむともやくなからまし、公守山にましまして
山鳴り地震ひのたびことに、この残し置れし人々をいか
にとのみおもほし御心をいたましめ給ふとなむ、猶も仰
の重なりければなみゐる諸士ひれふして涙をおさへ声を
呑てそかしこまる、やかて大手門桜門諫早門計りをあけ
をき常はつかへぬ諸士のうからやから(親族)までまかで門をか
ため、城の内をおこたらず廻りつゝ交代をば三会村あた
りに立のきゐてせよとの定めなり、此月の七日には家老
をはしめ、城代番頭、諸士夜をかけて立のきたり。をの
れもとをつおやにしたかひて湯江村に立のき乙名岩見某
かりを宿とす、さて景花園の御茶屋を会所と定めもろ
〳〵のえたち出仕して時のやうをさばき物頭は廻り計り
を勤として朝毎にふたりつゝ組子ひきぐし馬にのり此村
を出て酒井太郎右衛門家に至り交代をなし代る〳〵城の
内とを廻り城代町奉行勘定奉行大横目らも朝毎にひとり
つゝ代り〳〵につめ内外を廻りける、何くれといふまに
はや卯月も半過十まり九日に公みつから御見廻りのため
とて守山を御出馬あり巳の時過に城につかせ給ひ、やか
て大手門を出給ひ替り果たるわざわひの跡を御馬上なか
らつく〳〵とやゝしばし御覧しつる御胸のうちをしはか
りたいまつり御供の人々も心をいためあへりけり、それ
より立帰り表御門前割場にしばしやすらはせ給ひ詰め居
る諸士をめし出され御目わたしありて、いとねもごろに
のたまひおかせ給ひつゝ守山なる御本陣にひもゆふ暮に
そつかせ給ふける。さてしもいかなりける事にか、あけ
の日より御心地例ならずおはしまして、草つゝみ御やま
ふのとこにぞつかせ給ふける、くすしのわざを尽せども、
いさをしのなきのみか日毎におもらせ給ひ終に廿日まり
七日、はかなくもかくれさせ給ふける、かゝる折しもと
いひかみかかみよりしもか下までやみの夜にともしけち
たるばかり思ひまどひぬる歎きのほど中々筆のたてとも
なけれはかひさしぬ。さてもことしはいか成年そや、世
にも稀なるわざわひの歎きの袖の猶かはかぬを、千代も
と祈る公はしも甲斐がねのかひなくて世を早ふせさせ給
ふける。
御やもひのねは、こたびのわざわひに、よろつの民く
さをころせし御かなしびのつとひとをしはかりまづるも
いとかしこく限りもなき歎きなりけり。しかりとて今は
返らぬむかしとなり、せんすべなみに袖しほるばかりな
りけり。又も東へ早追とて板倉角馬某皐月七日に出立た
り高橋仙兵衛と同し日かずにて東のみたちにそつきけ
る。
儲君をはしめ御なけきのほどはをしはかりたいまつり
ぬへし、先何事もさし置せ給ひ御看病の御願有て儲君江
戸をゆゝりなく出立せ給ふけるに、三島の駅にて公の御
なりゆきをきかせ給ひ、すべなふはかなくも江戸へ引帰
させ給ふける。御殿医も御願有て井上良仙某引続き出
たゝれぬれど蒲原の駅にてことのよしをきゝ江戸に帰ら
れたりとぞ、はた御老中白河侯より御留守居御呼出し有
て川口長兵衛まりてけるに、こたひのわさわひにより、
さしあたり御手当として金弐千両拝借たまはりけると
そ、皐月の日数もたつにつれ、いつしかとなく山鳴りも
やう〳〵うすらき地震も間遠に成行ぬれば、村里に立の
きしものら、をのがまに〳〵立帰るへしと沙汰有ければ
心々にわか家にそ帰りける、守山詰の人々は御出棺のあ
るまでは今までのまゝにてあるべしとなり。景花園の会
所は五月廿日に引はらひ、三の丸に出仕となり、城の門
も大手計りを諸士にて固め、ほかはみなもとのやうにぞ
あらたまりぬ水無月十まり七日には瑞雲山本光禅寺にし
て公の御空荼毘の御葬式はこと繁けれはこゝに省きつ又
廿日まり六日は守山村を御発棺あり、せめて御なきから
も出たゝせ給ふけるあぢきなさあはれといふもあまりあ
ることになむ、尽せぬくりごとはこも又はぶきぬはや八
月にも成ぬれば、江戸より御飛脚来りて御家督先規にた
かふけぢめもなくすませられたりとぞ、くぬちこぞりて
よろこびの眉をひらき何事もめでたきみ代に立帰り猶千
よろつの外までも此君か代のさかゆらむことを祈りよろ
こびあへりけり、かくたひらかなる世になりてわさわひ
の時の事をしらへみるに先死人壱万百八拾四人程怪我人
六百四拾三人程旅人あるは出違の人は数しれず家数二千
九百三拾弐軒程、馬屋灰屋千七百四拾壱軒程土蔵三百廿
軒堂社弐拾八ヶ所田三百拾三町八畝歩畑百拾五町弐反四
歩斃牛馬四百六拾弐疋関船六拾挺立四艘四拾六挺立弐艘
廿八挺立弐艘弐拾弐挺立五艘拾八挺弐艘小早船弐拾六艘
村町の船五百三拾艘此外こまやかなることあくるにいと
まあらす、なそらへてしるべし、此洪波のなこり肥後国
にも時もたかへずつとひたりとなむ聞ゆる、此くぬちこ
なた御預所天草の内拾八ヶ村そこなひておぼれ死するも
の三百四拾三人流家三百七拾三軒損家三百五拾三軒厩小
屋四百三拾九軒とぞ、余はこも又なそらへてしるへし長
月三日には江戸にして御老中戸田侯より山崩高波にて市
町数ヶ所荒廃におよひ、船附其外亡所に成、殊に人民の
死亡おほく稀なる災害にて手当諸普請家督始のことわき
て難儀たるへし、よて金壱万両拝借仰付らるゝとの仰ご
と有とぞ、世にもたぐひなき御事そかし、かゝるあやし
くくすしき事も有けるよと子らむまごらが末の世のむか
し語りにもやとて、わが見もし聞もしたるまに〳〵みし
かき筆にかひつけをくにこそ。